伊達氏誕生(伊達氏発祥) 

       およそ800年前、奥州伊達氏は伊達郡において誕生した・・・

 伊達氏は奥州伊達郡の地で誕生した。奥州伊達氏はもともと下野国芳賀(現真岡市)の中村氏であった。芳賀の中村八幡宮には後に伊達氏初代となる中村常陸介宗村公使用の軍配が所蔵されていた。この軍配は江戸期に仙台伊達家に寄贈された。中村八幡宮の別当寺であった遍照寺も中村八幡に隣接して残っている。常陸国伊佐(現筑西市下館)の伊佐城や中村観音も中村氏にゆかりがあり、数代後の伊達氏7代伊達行朝公の碑が観音寺境内に残されている。行朝公は南北朝の合戦のとき北畠氏とともに伊佐周辺で合戦していた記録がある。

中村八幡 中村八幡宮(真岡市)

遍照寺 遍照寺(真岡市)

伊佐観音堂 観音堂(筑西市下館)

行朝碑 伊達行朝公供養碑(筑西市下館 観音堂)

行朝碑 伊達行朝公供養碑(筑西市下館 観音堂)

行朝碑 行朝公供養碑説明板(筑西市下館 観音堂)


  系図 初期伊達系図

伊達郡阿津賀志山(厚樫山)の合戦   伊達郡国見町

 源頼朝は弟の義経を匿う平泉の藤原秀衡・泰衡父子が赦せなかった。とりわけ藤原氏の権力と財力が赦せなかった。当時、白河以北が平泉の勢力下にあった。藤原氏追討のため、頼朝は全国の御家人たちに動員令を出した。秀衡が急死した後、泰衡は義経の首を頼朝に差し出したが、既に遅かった。文治5年(1189)7月19日、頼朝は山道・東海道・北陸道の三方から大軍を発した。28万余という。頼朝は自ら山道軍を率いた。泰衡は仙台付近に本陣を構え、部下の信夫荘司佐藤氏の地盤である信夫郡・伊達郡に前線基地を設けた。平泉軍は厚樫山(あつかしやま)の麓に二重堀を築いて待ち構えた。堀の幅は約15m、堀間も約10mあった。平泉軍の防衛線は厚樫山二重堀と阿武隈川ないしは広瀬川を結ぶラインであった。大将は泰衡義兄の西木戸太郎国衡であった。その勢2万余であり、二重堀以北以東の山内は平泉軍の兵士で溢れたという。
 文治5年(1189)8月7日、大軍を率いた源頼朝軍は伊達郡に入り、国見駅(藤田観月台付近)に着いた。頼朝軍は国衡の数倍の人数であったと見られる。頼朝軍は夜中に鋤鍬などを使い、堀を埋めて前進しようとしたことなどが、「吾妻鏡」に描かれている。8日、二重堀を挟んで少しの小競合いと両軍睨み合いが続いた。一方、頼朝の配下にいた中村常陸入道念西は百姓の姿に変装して伊達郡沢原に進出、前哨戦の石名坂(福島市平田に比定されるが、疑問)に陣取っていた信夫荘司佐藤基治一族を討ち取るなどの戦功をあげた。佐藤一族の首は厚樫山の経が岡に晒されたという。9日、頼朝軍の一隊が国衡軍の背後に回り、鬨の声をあげた。驚いた国衡軍はあまり戦わずして退散逃亡したという。途中、国衡は殺害された。それほどの抵抗なく頼朝軍は平泉に達し、泰衡も殺害された。いま厚樫山の二重堀は麓の斜面から阿武隈川の近くまで部分的に残っており、往時の合戦の姿が偲ばれる。国指定史跡。

厚樫山 厚樫山

二重堀 二重堀跡末端部と厚樫山

二重堀 厚樫山と滝川の最下流部
  阿武隈川との合流地点付近。二重堀跡末端部に近い。現在の滝川がまるで二重堀のように見える。「吾妻鑑」によると、阿武隈川の水を二重堀に引き入れたとある。このような光景を言っているのであろう。

高子城跡  伊達市保原町上保原

  文治5年(1189)「厚樫山の合戦」の結果、藤原泰衡配下の信夫庄司佐藤氏(飯坂大鳥城主)を倒し大活躍したのが頼朝配下の中村常陸入道念西(下野羽賀中村および常陸伊佐中村の領主)の一族であった。中村氏は頼朝から恩賞として伊達郡を拝領し、後に伊達郡高子に居城したと伝えられる。そして姓を伊達に改め、鎮護の神として亀岡八幡宮を山上に祀ったという。念西が伊達氏の初代である。念西の墓所は桑折町大字万正寺にある。念西は晩年桑折へ隠居したと考えられる。念西のおくり名は満勝寺殿という。後に、伊達政依によってここに満勝寺が創建されていた。満勝寺は現在仙台にある。
 現在、高子の山中に八幡宮がひっそり建っている。伊達氏との関連を記した江戸時代後期の由緒書が拝殿に掲げられている。
 最近、伊達氏初代の居城地は高子のほかに箱崎の愛宕山も比定され、注目されている。
伊達氏誕生 高子城跡と八幡神社

粟野義広と粟野大館跡  伊達市梁川町大館

 伊達氏歴代の中で一人だけ伊達氏を名乗らなかった人物がいる。第三代とされる粟野義広である。諸種の伊達系譜や伊達系図に「粟野次郎蔵人大夫義広」と見える。「伊達正統世次考」は、梁川八幡神主菅野神尾の旧記によって、伊達氏は高子岡城から粟野大館へ移ったとし、館主を伊達氏第三代の義広としている。延宝3年(1675)の「伊達信夫廻見覚」は、粟野大館は梁川から二キロメートルの場所に約三百m四方に土塁がめぐっており、伊達家の先祖が居館したとしている。粟野大館跡は粟野地蔵堂の南側に位置し、土塁とみられる部分がわずかに残る。大館地区は江戸時代初期までは粟野村分であったが、以後は梁川村に属した。
伊達氏誕生 粟野大館跡

伊達氏第二代の菩提寺はどこ?

「伊達正統世次考」は、四代とされる伊達政依は初代のために満勝寺を、初代夫人のために光明寺を三代義広のために観音寺を、三代夫人のために興福寺を、政依自身のために東昌寺を開基したとする。これらは皆臨済宗で伊達五山といい、いずれも大寺である。しかしながら、何故、これほど慈悲深い仏心厚い政依は伊達氏第二代とその夫人の菩提寺を建てなかったのだろうか。「伊達正統世次考」は全くこの疑問に無関心である。ここには、建てることが出来ない理由があった筈である。それは鎌倉幕府将軍家への遠慮である。結論から言えば、かつて幕府に対して叛旗を翻した伊達当主がいたからである。「伊達氏」を名乗れなかった人物こそが第二代に相応しいと思われるのである・・・。その人物は為重か義広であろう。ただ義広は年齢が若すぎるかもしれない。その場合は為重となろう。私は、この二人が親子であろうと見ている。貞暁の将軍擁立を企て失敗した伊達為重は子の義広を連れて先祖の遺領の地に隠れ住んだ。その地は越前国粟野で、彼らは粟野氏を名乗った。後に伊達氏は赦されたと見られるが、そのとき為重は伊達氏歴代から身を引き、子の義広に第二代を継がせたのである。
 伊達氏本家当主として伊達郡に戻った義広は早めに引退し、息子の政依に伊達氏第三代を継がせた。粟野大館の地は彼の隠居の館であったかもしれない。粟野義広は観音信仰が厚く、身の丈大の観音像三十三体を像立した伝えも残されている。
 なお「伊達正統世次考」は義広の父為重を第二代とし、義広を第三代としている。

大進局と仁和寺僧貞暁   伊達市霊山町山戸田

 霊山町山戸田地区に大局(大進の局)が使用したと伝える井戸がある。大進の/局は伊達氏初代念西入道の娘で、源頼朝の側室となり男子(貞暁)を生んでいた。しかし正妻北条政子の妬むところとなり、貞暁は京都仁和寺へ入れられた。大進の局も鎌倉を追い出され、京へ移ったと見られる。大進の局には源頼朝から生活の糧として伊勢国三箇山が与えられたという。三箇山は大進の局の弟常陸三郎資綱が地頭をしていた土地であった。
 承元2年(1208)に伊達氏は密かに貞暁を次の将軍に就けようとして失敗、執権北条氏に追われ逃亡した。貞暁は高野山へ逃れ、五坊門主行勝の元に匿われた(「高野春秋」)。伊達氏は越前国粟野に隠れ住んだ。そこに伊達氏のはるか遠い先祖の遺領があったからであった。伊達氏第三代とされる義広が粟野氏を名乗った理由はここにあると見られる。その十年後の建保6年(1218)、実朝将軍に手を焼いていた尼将軍北条政子から、貞暁は次の将軍になってほしいと要請を受けた。しかし、北条氏の権勢を恐れた貞暁は、自ら一眼を潰して、不具であることを理由にして、丁重に辞退した。
 「伊達世次考」は大進の局は伊達郡山戸田に隠居したと伝えている。山戸田は大進の局の弟為家の分流である石田氏や山戸田氏が住んでいた地域で、大進の局が一族を頼って逃れてきたのかもしれない。ここに大進の局の所領があったことが残されていた当時の古文書で近年確認されている(「伊達支族伝引証記」所収石田文書)。大進の局ゆかりの井戸も残されている。現在、石田地区の菅野氏は石田氏の後裔であるとされている。一方、大進の局は貞暁が死去した寛喜3年(1231)ころは大阪に住んでいた(「明月記」)。

伊達氏誕生 大進局ゆかりの井戸


梁川城と桑折西山城は鎌倉初期の城跡ではないと考えている。これらの城は室町期〜戦国期の城跡の遺構が最も強く残っている。梁川城と桑折西山城についてはこちら「伊達氏天文の乱」をご覧いただきたい。

◎参考 「伊達氏誕生」(松浦丹次郎著、土龍舎刊)


伊達氏血縁貞暁 鎌倉四代将軍への夢



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