子育ての名刹、粟野地蔵尊

 例祭日は春彼岸の中日である。この日はたいてい強風が吹く。女性の着物の裾やスカートをめくるので、「すけべ地蔵」の異名もある。田舎の祭りは衰退しているところが多いが、ここの祭りはどうしてどうしてよく頑張っている。桜の名所としても知られている。エドヒガン桜の古木の花色がなんとも言えない美しさがある。以前はイチョウの古木も大きく見ごたえがあったが、枝を落とされてからは寂しくなった。
 
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「粟野地蔵尊略縁起」と弘法大師

 「粟野地蔵尊略縁起」によれば、弘仁二年(811)、弘法大師空海が出羽三山をお開きになったとき、伊達地方を巡ることがあった。そのとき、ある民家に立ち寄り、茶を馳走になった。たまたま茶屋の娘が大師に懸想し、大師が立ち去った後、大師が飲んだ茶碗の残り茶を飲みほした。娘は懐妊し、男子を出産した。子どもが三歳になったとき、再び大師がこの里にやってきた。娘の親は「この子を連れ去るか、大師を簀巻にして沼に沈める」と言い、大師に猛抗議した。大師は親の意に沿おうとして、その子の前でお経を唱えたあと、ふっと息を吹くと、娘の子は茶の泡と消えたという。大師は子の供養にと、四寸六分の地蔵菩薩を刻み、娘に渡した。娘とその親はこの地蔵尊を祀り、供養した。いつしか人々はこの地蔵を「泡の地蔵」と呼ぶようになった。後に「粟野地蔵」と称し、村の名も「粟野村」と称するようになったという。
 地蔵堂の北側200mのところに、「藤権現さま」があり、「お藤茶屋」という茶屋の跡と伝えている。

    お藤権現さま

 粟野地蔵尊はもと真言宗瑞応山満福寺といい、保原の長谷寺の末寺として、江戸時代の古文書にも見える。永正元年(1504)に僧宥源が開山したと伝えている。現在、境内には寺はなく、地蔵堂と庫裏(留守居)があるのみで、管理は長谷寺がしている。しだれ桜の老木と大銀杏の木がある。銀杏は乳形のこぶが垂れている。「子育て地蔵」として厚く信仰されている。また草鞋の奉納も多い。春彼岸の中日が祭日である。

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 粟野地蔵大仏建立願い は成功したか

 「粟野地蔵尊略縁起」は江戸後期の作と見られるが、このほかに、安永六年(1777)に書かれた「粟野地蔵大仏建立願文」が残されている。この資料はあまり知られていない。一人につき12文(一文銭12枚)づつ、10万人から一文銭(銅銭)を寄進してもらい、これを鋳潰して大仏を造ろうという遠大で巨大な構想である。全部で1200貫目(4500kg)になる勘定だ。かなりの大仏ができるに違いない。出来上がったら、大仏の中に大師御作の秘仏の地蔵尊像を安置するのだという。発願は寺はもちろん名主組頭を含む人々であった。もしお金が集まらなかったら、発起人たちが責任をもって負担するというから、実現性は高い。粟野地蔵の復興とますますの繁栄を願ってのことである。現代ではお金を鋳潰すことは禁じられているが、当時はどうだったか・・・。現在の大仏は寄木造りで1.5mほどの坐像である。全体に金箔がほどこされている。その中に大師作の小さな地蔵像が納められている。参詣人には大きなご利益があると信じられている。十万人というと当時の伊達郡の人口を超えているが、実は享保年間の秘仏公開時に二週間で十四万人が参詣したという記録もあるから、粟野地蔵尊のご利益は大したものであった。
 秘仏は60年に一度「癸丑」の年の祭礼日に公開される。近年は12年に一度「丑」の年に公開されている。

  粟野村で五つ子が誕生

 粟野村で五つ子が生まれたことがある。明治34年(1901)11月1日のことである。船山伝吉家。五つ子の内訳は男子三人に女子二人。五つ子たちは数日の間生きていたが、間もなく全員が死亡したという。五つ子の遺体は研究のため東京大学医学部へ寄贈された。アルコール漬けにされて保管されているという。医学の進んでいなかった時代のことで、全員を救えなかったのは残念であった。なお、当時「五ツ児誕生」の記念碑が粟野地蔵尊境内裏にあったが、遺族側の要望で昭和25年に撤去されたという。この記念碑の拓本が掛軸に表具されており、毎年祭礼当日に公開されている。
                                            (参照 松浦丹次郎『伊達氏誕生』)


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