仙台埋木細工の「松島五大堂」盆 と香合 仙台埋木の原材
「仙台埋木細工」は、主に茶托や盆が造られ、幕末から明治・大正にかけて仙台土産品としてかなり売れたらしい。特に観光地「松島」では相当売れたようである。旧集の「仙台市史」などによれば、この「仙台埋木細工」は江戸後期の文政5年(1822)に仙台藩の足軽山下周吉が青葉山背後の沢で山埋もれ木(亜炭)を発見し、器を造ったのがきっかけで誕生したと伝えられる。山下ら山屋敷に住む貧乏下級武士たち(約20軒)の内職として普及したという。この亜炭は500万年前の地層に埋まっている樹木で、一部が化石化して珪化木になったものもある。埋木細工に利用できるのは、化石になっていない軟質の亜炭部分である。これらの多くは圧縮を受けて年輪が高密度に詰まっている。板目部分には美しい特殊な杢が現れる。全国に希にも見れない仙台だけの特別な材料である。長期間土中にあって腐らずに生き延びた生命力が長寿の御利益となって、人々に受け入れられたのであろう。現在は原材料の入手が困難な上に後継者不足や人気の低迷等により、生産は微々たるものになっている。
明治10年(1877)年8月21日~11月30日に、第一回内国勧業博覧会が東京の上野公園で開催された。これは国内の産業振興のために開催したもので、府県別に特産物や工業機械製品などが展示された。宮城県からは当然ながら埋木細工製品も展示された。明治元年に仙台藩が解体され、下級武士たちは内職を本職として生きるしかなかった。そのため、必死に彫刻技術の改良などに励み、埋木細工の品質が向上した。明治20年代には鉄道が宮城県まで開通し、多くの観光客が松島や仙台を訪れ、盆や茶托などの埋木細工が爆発的に売れた。埋木細工の歴史について書かれるようになったのは、このころからである。特に大正時代の産業本・観光本・郷土本には詳しく紹介されている。このころの埋木細工製品の生産額は約4万円であった。
しかし、明治以前の埋木細工の様子について直接記したものは見つかっていない。ところが最近、安政年間(1854~)に山形県村山郡内の豪農で俳人・絵師でもあった方の日記に仙台埋木菓子盆や埋木菓子皿が贈答品として利用されていた記述が見つかった。仙台埋木細工が確実に販売ルートに乗っていたことが明らかである。内職が商売として成り立っていたのである。「細工」の語が使用されていないが、これは盆などにまだ図柄が描かれていない発展途上の状況を示していると思われる。だからこそ、この日記資料は価値があるのである。松島などの図柄が表現されるのは明治以後のことと推察される。
なお、埋木細工の文政5年開業説は、検討を要するかもしれない。疑念が出てきているのである。それは、この名取川埋木の中に、青葉山から崩れ落ちた山埋木が竜ノ口渓谷を経て広瀬川へ流れ、さらに名取川へ運ばれて行って、本来の純粋な川埋木に混じっている可能性が考えられるからである。その広瀬川と名取川へ流れた山埋木(すなわち亜炭)を使用して各種細工物が造られていた。それを裏付ける資料もいくつか出始めている。その一つの証拠は滝沢馬琴が所蔵していた「名取川埋木しおり」と「名取川埋木化石硯」である(「耽奇漫録」)。どちらも文政5年以前に贈与されたものてある。それらは川中の山埋木(亜炭)で作りながら、本来の名取川埋木と同じ名称を使用し、一般にも「名取川埋木」「名取川埋木化石」と呼ばれていたから、混乱が生じてしまう。詳しくは松浦丹次郎著「埋もれ木に花が咲く~名取川埋木と仙台埋木細工~」を参照されたい。
青葉山の崖から竜ノ口峡谷へ剥がれ落ちた亜炭埋木片がやがて広瀬川や名取川まで流れ込む。この亜炭埋木は黒色で、目立つので、すぐそれと分かる。この流域の川原に多数見つけられる。青葉山の亜炭埋木はおよそ五百万年前に厚い火山灰に埋まった樹木であるという。川原の亜炭埋木は乾燥風化すると薄く剥がれる性質がある。この埋木で作った「しおり」は圧縮された年輪のために、木目が細やかで美しく、江戸の文人たちに贈られ、好評だった。「名取川埋木枝折」と呼ばれていた。江戸の著名な戯作者曲亭馬琴はこの「名取川埋木枝折」と「名取川埋木化石硯」を所有しており、文政7年(1824)11月に開催された「耽奇会」に出品した(「耽奇漫録」)。「埋木枝折」は文政3年(1820)春に仙台の女流作家只野真葛から贈られたもの、「埋木化石硯」は文化年間(1804)の初めに久保田藩士茂木巽から贈られたものであった。これらの亜炭埋木は川に流れ込む以前から「山埋木」であって、ただ単に川へ流れ込んだにすぎない。これに対し、中世に和歌に詠まれた名取川埋木は流木等が数百年~数千年川底に埋まり、埋もれ木になった純粋の川埋木である。まったく異質のものである。「名取川埋木枝折」は特別の美しい杢を有していた。全国どこにもない、素晴らしい杢のある枝折なのである。純粋の川埋木からは作ることが不可能な枝折なのである。だからこそ只野真葛は馬琴へ贈ったのである。贈られた馬琴がそのことを知っていたかどうかは分からない。
一方、仙台藩下級家臣の山下周吉などが青葉山の地下数メートルに眠る亜炭埋木を発見し、内職にそれを利用した「埋木細工」を始めたのは文政5年(1822)のことであった。この埋木細工は明治中期以降「仙台埋木細工」の名を確立するが、山の埋木を材料にしているのに、何故か当初のころは「名取川埋もれ木」の名称で販売されていた。そのいくつかの証拠が最近松浦丹次郎著「埋もれ木に花が咲く」で明らかになった。その理由は、同じ山埋木(埋木化石)に起因する製品が既に「名取川埋木枝折」等として先行して存在していたからであった。
このようなことから、先行していた「名取川埋木枝折」は別系統の仙台埋木細工であるとも言えよう。
仙台埋木薄片・同埋木枝折 広瀬川産
広瀬川産 埋木化石硯 (大きさは11cm) 竜ノ口沢産 埋木化石置物(大きさ12cm)
・この置物の上下の木口にある年輪は異質で、すべてが緻密なジグザグ年輪になっている。世界的に珍しい。
「仙台埋木細工」は仙台市内はもちろん、伊達市内の一般家庭の土蔵や物置から出てきたり、時たま茶箪笥の奥に見かけることがある。鷹の飾り物などは今でも飾られていたりする。近年、高級品として茶道で使う棗などの小品も作られている。
注意したいのは、現代において、埋もれ木細工として有名な「仙台埋木」は、広瀬川の断崖やそれに続く青葉山・八木山の山中の亜炭層から出土する亜炭物で、「向山層」と名づけられた地層に含まれているということである。これはまったく名取川の埋もれ木とは別物である。学者で医師の橘南渓が仙台に来たのは仙台埋木が作られる江戸後期の天明年間で、彼が「東西遊記」の中で言っている埋木は「名取川の埋もれ木」であると考えられる。八木山や広瀬川上流竜ノ口沿いの青葉山で取れる山埋木(青葉山埋木・仙台埋木と呼ばれる)とはまったく別物であると言ってよい。
「向山層」は大部分が火山噴火物の層である。亜炭層は主に二層あり、下部の亜炭層は四五百万年前の噴火でセコイヤやメタセコイヤなどの巨木林が生い茂っていた平地を大火砕流が襲った結果出来たらしい。もちろん泥流が襲ったこともあったろう。上部の亜炭層は当然それより新しい時代に(およそ三百年前)多くの樹木が火山灰等により埋まって出来たらしいが、成因はあまりよく分からない。霊屋橋付近の広瀬川河床や竜の口峡谷の断崖にそれらの地層が見られ、亜炭片や埋もれ木の立ち木株の姿が観察されるという(「せんだい地学ハイキング」)。「仙台市史」はいまから約三百万年前〜五百万年前の亜炭層としている。「仙台埋木細工」で使う材料は上の亜炭層のものを利用している。
亜炭の不良品は明治以降風呂焚きなどの燃料としても使用された。特に燃料不足の昭和二十年代は生産量がピークで、亜炭鉱山が四十以上あったらしい。しかし燃料不足が解消した昭和四十年代には多くの亜炭鉱山が閉山し、現在では埋木細工の材料が枯渇して「埋木細工」の製造・販売はほとんどされなくなった(相原陽三「亜炭さまざま」ほか、『市史せんだい12号』所収)。最近は復活のきざしもあるようだ・・・。
亜炭埋木も埋木化石も同じ年代の地層に閉じ込められている。生成過程もほぼ同じであるが、埋木化石は、埋まった樹木に何らかの事情で珪化物質が浸潤して硬化したと思われる。
下の写真は、仙台市太白区愛宕神社北側の広瀬川愛宕緑地川原で採集した亜炭片。珪化して石化した部分と木質部分(褐色部)が共存している。
仙台市太白区八本松付近の広瀬川の石川原で亜炭(山埋木)片を採集した。ここは旧四号国道と四号バイパス道の中間地点で、長町から近い場所である。ここから約2km~3kmで名取川に合流する。竜ノ口沢や霊屋橋付近の「山埋木」片が名取川へと流れ下っていることを予感させるのに十分な資料であろう。
次は若林区飯田の広瀬川原からの採集亜炭。多数の亜炭片が拾える。名取川との合流地点はもうすぐ先である。亜炭片が名取川へ流れ下ることは確かである。湿っている亜炭は乾燥すると、ひび割れが激しく、割れがすすんで、石炭状のブロックになってしまう。主な割れの発生面は振り被った地層面に沿っている。切断の断面に、年輪はほとんど見えない。この亜炭は大木の亜炭ではなく、枝葉草類の亜炭と思われる。一部細い幹を含むが、若く軟らかいと見えて、圧縮により、ほぼぺちゃんこ(せんべい状)になっている。自然乾燥により、薄い層は捲れ上がっていく。時間が経過した断面ではこの層の重なりが見やすい。小さな破片から置物を作ってみた。
仙台埋木(亜炭) 広瀬川産 仙台埋木(亜炭) 広瀬川産
層の重なり観察 埋木置物(仙台埋木、写真左の亜炭から製作)
しかし、合流地点から下流の名取川でこの種の山埋木等が見つかっても、それは広瀬川から流れてきたとはいえない。何故ならば、この合流地点からおよそ6km上流の名取川の川底にも「山埋木」の供給源があるからである。そこは、名取川が仙台市太白区富田の浄水場・富田病院と名取市高舘熊野堂の熊野神社のラインを横断している。ここの河床には竜ノ口の向山層とそれより古い旗立層・綱木層が連続して連なり、その長さは約900mほどである。これらの層の中に山埋木を含む層が数本あり、下流域へ山埋木を供給していると考えられる。この場所から300m~400m下流の川原で実際にその山埋木片を拾うことができる。ただその供給量は広瀬川からの供給に比べ圧倒的に少ない感じがする・・・。
参考: 「仙台埋木細工の由来」石垣博著(昭和46年12月刊)
「埋もれ木に花が咲く」松浦丹次郎著(平成28年11月25日刊)
名取川の埋もれ木と伊達政宗
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