名取川埋もれ木とは、名取川に沈む流木古材である。数百年数千年の埋没樹木で、黒色を帯びている。勅撰集にも名取川埋木を詠んだ歌が散見する。
名取川に見られる埋もれ木(クリ材) 名取川埋もれ木 クリ材
「奥羽観蹟聞老志」(佐久間洞巌編著、享保4年(1719)刊)は名取川の埋もれ木を詠んだ古歌として33首紹介しているが、その中から5首を挙げておく。
名取川せせの埋れ木あらはれはいかにせむとか逢見そめけむ 古今集 よみ人しらず
嘆かずよ今はた同じ名取川瀬瀬の埋もれ木朽ちはてぬとも 新古今 摂政太政大臣藤原良経
名取川春の日数はあらはれて花にそしつむ瀬瀬の埋れ木 続後撰 藤原定家朝臣
みちのくにありてふ川の埋れ木のいつあらはれてうき名とりけん 続古今 源時清
名取川瀬瀬にあるてふ埋れ木も淵にそしすつむ五月雨のころ 新後撰 従三位為継
この時代は、仙台地域が伊達氏の支配をうける以前の時代である。
「奥羽観蹟聞老志」も名取川埋木灰について、地元の人々はこの埋もれ木を焼いて香炉の灰を生産している、と記している。これを埋木灰と言い、赤黒色をしていて火をよく貯える、つまり炭火がなかなか消えない、長持ちするという特徴があるという。埋木灰は名取川の名品であった。数寄者たちに愛され、茶人文人諸侯に珍重された。
伊達政宗は天正19年(1591)、本領を伊達地方・長井地方から仙台地方へ移され、仙台藩を開いた。仙台を流れる広瀬川が四郎丸付近の落合で名取川に合流する。政宗は名取川のほとりの四郎丸の村人に埋もれ木や埋もれ木灰の生産を命じ、その代わりに年貢諸役を免除していたと言われている(『宮城県史』第十五巻)。伊達氏が仙台地方を支配するようになって、伊達氏はさらに「名取川埋木」を使って硯箱や文台などを造り、幕府要人、大名、公家衆へ献上しはじめた。
橘南渓は伊勢生まれの医師で、文化2年(1805)に53歳で亡くなっている。「東西遊記」は橘が天明3(1783)〜6年に日本各地を旅し、諸国の名産や風土・人物について書き記したもの。その中で名取川の埋もれ木について記している。橘は探究心旺盛な人である。何にでも興味を持ちそれらを手に入れる才能に長けている。
彼は仙台に来たおり、方々に名取川の埋もれ木の情報を求めた。しかし持ってきてくれるものは、百年二百年ばかり沈んでいたと思われる松の木だったり、岸辺に打ち込まれた杭の残骸だったりで、橘は「そんなものは古歌に詠まれた埋もれ木ではない」と言い捨てている。そのうちに奥田直輔という人物が名取川の堤防工事(直輔の父が担当)で出土したものを持ってきてくれた。それはまさに数千年を経たように思える埋もれ木であった。
百年や二百年の間埋まったものは埋もれ木ではなく、数千年もの長期間埋まったものが埋もれ木である、という橘の「埋もれ木感」は科学が発達していなかった当時においては珍しく、たいへん優れていると言わざるを得ない。奥田が持参した埋もれ木は木の種類は分からないが、色が黒く、磨けば光沢が出るようである。石炭などとはまったく違い、木目があざやかである。橘はこれがあの有名な名取川の埋もれ木に違いないと感動した。橘南渓は奥田に返礼の和歌を詠み与え、家に持帰った。そして自らの手で小さな香箱のようなものを造り、常に座右に置いて楽しんだ。
香合 名取川埋木製(復元 クリ材)
歴代仙台藩主は名取川の埋もれ木の価値を認識していたと見え、埋もれ木(灰)の生産と献上を続けた。中でも仙台藩主五代伊達吉村は公家の二条家へ名取川埋木製の硯箱を献上しているほか、公家の久我通誠へも埋もれ木を献上している。また伊達家が禁中へ献上した名取川埋木が九條家へ下賜され、さらにその埋木を戴いて茶道家元武者小路千家が拵えた香合や櫛が伝存している。それらはいずれも「名取川」と銘うたれている。このうち櫛の「名取河」については東京都青梅市の「澤乃井櫛かんざし美術館」に所蔵され、時々展示されており、見ることができる。名取川の波文様が金泥で描かれていて美事な作品である。硯箱 名取川埋木製(復元 クリ材)
文箱 名取川埋木製(復元 クリ材)
伊達綱村・伊達吉村時代には、関白近衛氏へ名取川埋木文台を贈り、記念の歌会を催していた。歌集「名取川埋木文台勧進歌」がのこされている。この宴は元禄年間に開かれたことが判明している(松浦「埋もれ木に花が咲く」)。
名取川埋木文台(復元 クリ材)
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伊達の香りを楽しむ会