名取川の埋木灰と伊達氏   

 名取川埋もれ木はかつて宮中や公家・将軍家へ献上された特産品だった!

 名取川埋もれ木とは、名取川に沈む流木古材である。数百年数千年の埋没樹木で、黒色を帯びている。勅撰集にも名取川埋木を詠んだ歌が散見する。

 名取川埋れ木 名取川に見られる埋もれ木(クリ材)  名取埋木 名取川埋もれ木 クリ材

 古歌に見える名取川埋もれ木

 「奥羽観蹟聞老志」(佐久間洞巌編著、享保4年(1719)刊)は名取川の埋もれ木を詠んだ古歌として33首紹介しているが、その中から5首を挙げておく。

  名取川せせの埋れ木あらはれはいかにせむとか逢見そめけむ   古今集 よみ人しらず
  嘆かずよ今はた同じ名取川瀬瀬の埋もれ木朽ちはてぬとも    新古今 摂政太政大臣藤原良経 
  名取川春の日数はあらはれて花にそしつむ瀬瀬の埋れ木     続後撰  藤原定家朝臣
  みちのくにありてふ川の埋れ木のいつあらはれてうき名とりけん   続古今 源時清
  名取川瀬瀬にあるてふ埋れ木も淵にそしすつむ五月雨のころ    新後撰 従三位為継

 この時代は、仙台地域が伊達氏の支配をうける以前の時代である。

 名取川埋木灰と12代伊達成宗

 文明15年(1483)10月、伊達12代成宗(伊達郡梁川城主、仙台藩開祖伊達政宗の五代前先祖)は上洛した。連日の接待の中で、10月10日、幕府要人である管領細川政元(17歳)並びに細川政国(政元の補佐人、典厩家当主、幕府の重鎮)の御喝食へ信夫文字摺、名取沈木、香炉の灰の三品を献上した。平安時代からの信夫地方の名品とされる文字摺絹と名取川の名産である埋もれ木。そして香炉の灰とあるのは当然都で人気のある埋木灰であろう。埋もれ木灰は赤い色をしていて、火持ちが良いのが特徴である。「喝食」とは食事担当の若い男子を意味したが、転じて若い奉公人や若い後継者さえも指す言葉となった(いずれも男子)。この文明15年の時点で、17歳の細川政元には子供がいない。また細川政国の子息政賢(養子)は25歳~30歳とみられる。この日記中でも政国にも政賢にも専属の喝食がいたことが知れる。ほとんどの武家に喝食がいたのである。ただしこの喝食は、伊達成宗から御土産がもらえたのだから、相当な有力武家の子弟であったろうと思われる。

 灰 埋もれ木灰 阿武隈川産   灰 埋もれ木灰 名取川産

  (文明15年10月10日) 細川殿(細川政元)並びに典厩さま(細川政国)の御喝食様へ 文字すり、名取むもれき、
   香炉の灰、三色進上候           (「成宗公御上洛日記」 伊達家文書)

 名取川の埋もれ木は大きさも木目なども不明であるが、相当な逸品であったろうと思われる。また名取川の埋木灰か阿武隈川の埋木灰か明示されてはいない。いずれにしろどちらかの川の埋木灰であるに違いない。
  9代伊達政宗のころ伊達郡周辺の伊具郡や刈田郡や置賜郡などの一部が伊達家の領域となり、文明年間の12代伊達成宗のころには、名取郡地方(領主粟野氏ほか)は伊達家の勢力圏に編入されつつあった。伊達成宗が献上品の中に阿武隈川の埋もれ木でなく名取川の埋もれ木を入れたのは、伊達家が勢力を名取地方へ拡大したことを幕府や公家衆へアッピールする狙いがあったのではないかとも思われる。

 「奥羽観蹟聞老志」も名取川埋木灰について、地元の人々はこの埋もれ木を焼いて香炉の灰を生産している、と記している。これを埋木灰と言い、赤黒色をしていて火をよく貯える、つまり炭火がなかなか消えない、長持ちするという特徴があるという。埋木灰は名取川の名品であった。数寄者たちに愛され、茶人文人諸侯に珍重された。
 伊達政宗は天正19年(1591)、本領を伊達地方・長井地方から仙台地方へ移され、仙台藩を開いた。仙台を流れる広瀬川が四郎丸付近の落合で名取川に合流する。政宗は名取川のほとりの四郎丸の村人に埋もれ木や埋もれ木灰の生産を命じ、その代わりに年貢諸役を免除していたと言われている(『宮城県史』第十五巻)。伊達氏が仙台地方を支配するようになって、伊達氏はさらに「名取川埋木」を使って硯箱や文台などを造り、幕府要人、大名、公家衆へ献上しはじめた。

 名取川の埋もれ木と仙台藩主伊達氏、献上された硯箱や文台

 橘南渓は伊勢生まれの医師で、文化2年(1805)に53歳で亡くなっている。「東西遊記」は橘が天明3(1783)〜6年に日本各地を旅し、諸国の名産や風土・人物について書き記したもの。その中で名取川の埋もれ木について記している。橘は探究心旺盛な人である。何にでも興味を持ちそれらを手に入れる才能に長けている。
 彼は仙台に来たおり、方々に名取川の埋もれ木の情報を求めた。しかし持ってきてくれるものは、百年二百年ばかり沈んでいたと思われる松の木だったり、岸辺に打ち込まれた杭の残骸だったりで、橘は「そんなものは古歌に詠まれた埋もれ木ではない」と言い捨てている。そのうちに奥田直輔という人物が名取川の堤防工事(直輔の父が担当)で出土したものを持ってきてくれた。それはまさに数千年を経たように思える埋もれ木であった。
 百年や二百年の間埋まったものは埋もれ木ではなく、数千年もの長期間埋まったものが埋もれ木である、という橘の「埋もれ木感」は科学が発達していなかった当時においては珍しく、たいへん優れていると言わざるを得ない。奥田が持参した埋もれ木は木の種類は分からないが、色が黒く、磨けば光沢が出るようである。石炭などとはまったく違い、木目があざやかである。橘はこれがあの有名な名取川の埋もれ木に違いないと感動した。橘南渓は奥田に返礼の和歌を詠み与え、家に持帰った。そして自らの手で小さな香箱のようなものを造り、常に座右に置いて楽しんだ。

  埋もれ木 香合 名取川埋木製(復元 クリ材)

 歴代仙台藩主は名取川の埋もれ木の価値を認識していたと見え、埋もれ木(灰)の生産と献上を続けた。中でも仙台藩主五代伊達吉村は公家の二条家へ名取川埋木製の硯箱を献上しているほか、公家の久我通誠へも埋もれ木を献上している。また伊達家が禁中へ献上した名取川埋木が九條家へ下賜され、さらにその埋木を戴いて茶道家元武者小路千家が拵えた香合や櫛が伝存している。それらはいずれも「名取川」と銘うたれている。このうち櫛の「名取河」については東京都青梅市の「澤乃井櫛かんざし美術館」に所蔵され、時々展示されており、見ることができる。名取川の波文様が金泥で描かれていて美事な作品である。
 名取川の埋もれ木は明治以降姿を消した状態である。仙台藩が採り尽したせいか、枯渇したと見られている。なお、明治初期のころにまだ継続して四郎丸村の高橋家では埋木灰の生産が続けられていたことが確認された(松浦丹次郎著「埋もれ木に花が咲く」参照)。

  久我通誠卿へ名取川埋もれ木まいらせしにうたそへて
   今もみよ埋もれ木ながら名取川名にあらはれししるしはかりを  (伊達吉村)
  通誠卿御返し
   名取川ふかき心の色そへて見るにえならぬせせのむもれ木  (久我通誠)

 九代将軍徳川家重が宝暦11年(1761)6月に亡くなったとき、遺品として名取川埋木製の料紙硯箱が巨勢利啓に与えられた(寛政重修諸家譜1368巻)。おそらく仙台藩主六代伊達宗村あたりが献上した品であろう。また寛政7年(1795)ころ白河藩主松平定信(楽翁)は入手した名取川埋木で文台を造り、灘の豪商吉田道可に与えている。

 埋もれ木 硯箱 名取川埋木製(復元 クリ材)

 埋もれ木 文箱 名取川埋木製(復元 クリ材)

 伊達綱村・伊達吉村時代には、関白近衛氏へ名取川埋木文台を贈り、記念の歌会を催していた。歌集「名取川埋木文台勧進歌」がのこされている。この宴は元禄年間に開かれたことが判明している(松浦「埋もれ木に花が咲く」)。

文台 名取川埋木文台(復元 クリ材)


参考: 「仙台埋木細工の由来」石垣博著(昭和46年12月刊)
    「阿武隈川の埋もれ木」松浦丹次郎著(平成21年11月18日刊)
    「埋もれ木に花が咲く~名取川埋もれ木と仙台埋木細工~」松浦丹次郎著(平成28年11月25日刊)


名取川埋木文台勧進の歌
名取川の埋もれ木、ついに発見
阿武隈川の埋もれ木
仙台埋木細工の歴史

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