名取川の埋もれ木と伊達氏

          いわゆる「仙台埋木」とは別物です

 名取川埋もれ木はかつて宮中や公家・将軍家へ献上された特産品でした!

 名取川埋れ木 名取川に見られる埋もれ木(クリ材)  名取埋木 名取川埋もれ木 クリ材

古歌に見える名取川埋もれ木

 「奥羽観蹟聞老志」(佐久間洞巌編著、享保4年(1719))は名取川埋もれ木について、地元の人々はこの埋もれ木を焼いて香炉の灰を生産していると記している。これを埋もれ木灰と言い、赤黒色をしていて火をよく貯える、つまり炭火がなかなか消えない、長持ちするという特徴があるという。名取川の名品としてこの埋もれ木灰を京都のその筋の数寄者たちはこよなく愛していたようである。だからこそ仙台藩主伊達政宗を初め歴代藩主がこの名取川の埋もれ木灰の生産を保護し続けたのであった。また地元の住人たちは埋もれ木で器物を作ってもいたという。
 名取川の埋もれ木を詠んだ古歌として二十四首紹介しているが、その中から五首を挙げておく。

  名取川せせの埋れ木あらはれはいかにせむとか逢見そめけむ   古今集 よみ人しらず
  嘆かずよ今はた同じ名取川瀬瀬の埋もれ木朽ちはてぬとも    新古今 摂政太政大臣藤原良経 
  名取川春の日数はあらはれて花にそしつむ瀬瀬の埋れ木    続後撰  藤原定家朝臣
  みちのくにありてふ川の埋れ木のいつあらはれてうき名とりけん    続古今 源時清
  名取川瀬瀬にあるてふ埋れ木も淵にそしすつむ五月雨のころ    新後撰 従三位為継

名取川の埋もれ木と12代伊達成宗

 文明15年(1483)10月、伊達12代成宗(伊達郡梁川城主)は上洛した。連日の接待の中で、10月10日、幕府要人である細川政元並びに細川政国の御喝食へ信夫文字摺、名取沈木、香炉の灰の三品を献上した。平安時代からの信夫地方の名品とされる文字摺絹と名取川の名産である埋もれ木。そして香炉の灰とあるのは当然都で人気のある埋もれ木灰であろう。埋もれ木灰は赤い色をしていて、火持ちが良いのが特徴である。

    (文明15年10月10日) 細川殿(細川政元)並びに典厩さま(細川政国)の御喝食様へ 文字すり、名取むもれき、
     香炉の灰、三色進上候        (成宗公御上洛日記 伊達家文書)

 しかし名取川の埋もれ木灰か阿武隈川の埋もれ木灰か明示されてはいない。いずれにしろどちらかの川の埋もれ木灰であるに違いない。名取川の埋もれ木は大きさも木目模様も不明であるが、相当な逸品であったろうと思われる。

 灰 埋もれ木灰 阿武隈川産   灰 埋もれ木灰 名取川産

 9代伊達政宗のころ伊達郡周辺の伊具郡や刈田郡や置賜郡などの一部が伊達家の領域となり、文明年間の12代伊達成宗のころには、名取郡地方(領主粟野氏ほか)は伊達家の勢力圏に編入されつつあった。伊達成宗が献上品の中に阿武隈川の埋もれ木でなく名取川の埋もれ木を入れたのは、伊達家が勢力を名取地方へ拡大したことを幕府や公家衆へアッピールする狙いがあったのではないかとも思われる。

名取川の埋もれ木と仙台藩祖伊達政宗

 仙台を流れる広瀬川が四郎丸付近の落合で名取川に合流する。名取川は埋もれ木の産地として昔から有名であった。平安時代以降、たびたび和歌に詠まれ、都の人々にもてはやされていた。埋もれ木とはその名のとおり、名取川に埋まっている木である。
 橘南渓は伊勢生まれの医師で、文化2年(1805)に五十三歳で亡くなっている。「東西遊記」は橘が天明3(1783)〜6年に日本各地を旅し、諸国の名産や風土・人物について書き記したもの。その中で名取川の埋もれ木について記している。橘は探究心旺盛な人である。何にでも興味を持ちそれらを手に入れる才能に長けている。
 彼は仙台に来たおり、方々に名取川の埋もれ木の情報を求めた。しかし持ってきてくれるものは、百年二百年ばかり沈んでいたと思われる松の木だったり、岸辺に打ち込まれた杭の残骸だったりで、橘は「そんなものは古歌に詠まれた埋もれ木ではない」と言い捨てている。そのうちに奥田直輔という人物が名取川の堤防工事を担当したときに出土したものを持ってきてくれた。それはまさに数千年を経たように思える埋もれ木であった。
 百年や二百年の間埋まったものは埋もれ木ではなく、数千年もの長期間埋まったものが埋もれ木である、という橘の「埋もれ木感」は科学が発達していなかった当時においては珍しく、たいへん優れていると言わざるを得ない。奥田が持参した埋もれ木は木の種類は分からないが、色が黒く、磨けば光沢が出るようである。石炭などとはまったく違い、木目があざやかである。橘はこれがあの有名な名取川の埋もれ木に違いないと感動した。橘南渓は奥田に返礼の和歌を詠み与え、家に持帰った。そして自らの手で小さな香箱のようなものを造り、常に座右に置いて楽しんだ。

埋もれ木 香合 名取川埋木製(復元 クリ材)

 かつて名取川の埋もれ木をこよなく愛した武将がいた。独眼龍で知られる17代伊達政宗である。伊達政宗は天正19年(1591)、本領を伊達地方・長井地方から仙台地方へ移され、仙台藩を開いた。彼は名取川のほとりの四郎丸の村人に埋もれ木や埋もれ木灰の生産を命じ、その代わりに年貢諸役を免除していたと言われている(『宮城県史』第十五巻)。歴代仙台藩主は名取川の埋もれ木の価値を認識していたと見え、埋もれ木(灰)の生産と献上を続けた。中でも仙台藩主五代伊達吉村は公家の二条家へ埋もれ木製の硯箱を献上しているほか、公家の久我通誠へも埋もれ木を献上している。
 名取川の埋もれ木は明治以降姿を消した状態である。仙台藩が採り尽したせいか、枯渇したと見られている。

  久我通誠卿へ名取川埋もれ木まいらせしにうたそへて
   今もみよ埋もれ木ながら名取川名にあらはれししるしはかりを  (伊達吉村)
  通誠卿御返し
   名取川ふかき心の色そへて見るにえならぬせせのむもれ木  (久我通誠)

 埋もれ木 文箱 名取川埋木製(復元 クリ材)

 伊達綱村・伊達吉村時代には、関白近衛氏へ名取川埋木文台を贈り、記念の歌会を催していた(大條伊達家資料)。この宴は元禄年間に開かれたことが判明している(松浦「埋もれ木に花が咲く」)。

文台 名取川埋木文台(復原 クリ材)


 なお、名取川の埋もれ木と仙台埋もれ木は全くの別物であることに、注意されたい。

 仙台 仙台埋もれ木 龍ノ口産  仙台 仙台埋もれ木 龍ノ口産


17世伊達政宗と香

 香の歴史は古い。「日本書紀」によれば、推古天皇時代、推古天皇3年(595)、淡路島に流木が漂着して、浜の人たちがその流木で焚き火をしたところ、ものすごく良い香りがただよったという。これが日本における香木の初見とされている。香木の原産地はベトナムである。椰子の実同様、日本に流れ着くこともあったのかもしれない。あるいは中国や日本へ運ぶ途中に船が難破して流れ着いたのかもしれない。香は、薫物・空薫物として源氏物語の中に頻繁に現れており、平安時代の公家社会ではひろく使われていたようである。その後、寺院や茶道などを通じて広がった。本来の香は仏教とともに伝来したのかもしれない。香の楽しみ方はいろいろあるが、中世には焚香・聞香・組香などが一般的であった。佐々木道誉が豪快に大量の香木を焚き、バサラ大名と評されて以来、武士階級でもてはやされた。特に有力大名間で名香が取り合いになった。最も良い香りがするのは伽羅で、掌サイズの大きさで家一軒が建つほどの値段がする。
 寛永3年(1626)7月、仙台藩主伊達政宗は、三条大納言光広郷から掛香三十を与えられている。同月、伊達政宗は京で十注香会を催している。同年9月、伊達政宗は伽羅の購入を指示、細川忠利から名香「白菊」を買い、「柴舟」と名づけて家宝とした。寛永12年1月、伊達政宗、「柴舟」を将軍徳川家光に献上し、その礼状が届いた。寛文8年(1668)5月の伊達綱宗書状(藩主伊達綱村宛、名香11色。「香久山」「ねざめ」(「柴舟」「むさしの」以来の名香)、元禄12年(1699)7月の伊達綱宗書状(伊達吉村宛。「香久山」等11色)にも香の記載が見える。この伊達綱宗は元仙台藩三代藩主で、風流好きで有名であった。仙台藩の御家騒動に題材をとった歌舞伎「伽羅(めいぼく)先代(せんだい)萩(はぎ)」の中では綱宗こと足利頼兼は伽羅の下駄を履いて吉原通いしたことになっている。
 香を楽しむ風流は、江戸中期以降、裕福な庶民たちのなかにもひろまった。江戸後期の安政5年(1858)11月20日、仙台の豪商小西利兵衛が伊達郡桑折村の豪商「紙屋喜太郎」へ大量の源氏香(二百把入り六箱)を送った送り状が見つかっている(木谷徳也氏旧蔵)。源氏香は組香の一種で、簡単に言うと香の香り当てゲームである。伊達地方のなかにもゆとりのある町人たちの間に香は取り入れられていたのである。

  源氏香


参考: 「仙台埋木細工の由来」石垣博著(昭和46年12月刊)
    「阿武隈川の埋もれ木」松浦丹次郎著(平成21年11月18日刊)
    「埋もれ木に花が咲く~名取川埋もれ木と仙台埋木細工~」松浦丹次郎著(平成28年11月25日刊)


名取川の埋もれ木、ついに発見
阿武隈川の埋もれ木
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