「埋もれ木に花が咲く  ~名取川埋もれ木と仙台埋木細工~」

  埋もれ木について、良く分かる本    東北宮城・福島の方々に、この本を推薦します 

     名取川埋もれ木と仙台埋木の違いが確定され、その他多くの謎が解明された。
     仙台の女流作家、只野(工藤)真葛が滝沢馬琴へ贈った名取川埋木製の枝折がヒントに・・・
     扶桑木や亜炭・化石などについても考察

   本  
 「埋もれ木に花が咲く ~名取川埋もれ木と仙台埋木細工~」
      松浦丹次郎著 
   平成28年11月25日 土龍舎刊

  ●A5判組  本文全 380ページ  モノクロ写真およそ400枚  ●口絵8ページ カラー写真40枚 
  ●お譲り頒価 1,800円(税別)・・・  

 ●本書は発行所のほか、仙台市長町の「協裕堂ブックセンター」さんでも購入できます。

  ●読後の感想を弊社(土龍舎)へお寄せください。川埋もれ木製の「しおり」を差し上げます。
     Eメール doryusha@yahoo.co.jp  または FAX 024-577-6431

   名取川    しおり        仙台埋もれ木盆
        名取川埋もれ木      仙台埋木細工 しおり(復元)    仙台埋木細工の茶盆「松島五大堂」

    ☆☆☆ ☆☆☆  本書より  ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ 

「はしがき」
 中世以来、名取川に産する埋もれ木が何故に京の人々の歌に多く詠まれたかは、偏に名取川が、世に知られてしまうという意味の「名取」を冠した名称の川であり、それが「埋木」という言葉が内包するイメージと正反対の意味を持っていたためであろう。 その名取川の埋もれ木を燃やした灰が赤色で火もちが良い灰であることを誰が発見したかは知らない。室町時代、奥州の有力武将の一人であった梁川城主伊達成宗が、名取川埋木に添えて埋木灰を都人への献上品に選んで以来、埋木と埋木灰は評判となった。江戸時代には仙台藩主伊達氏は公家・大名への献上品とした。茶人・文人等の間でも、もてはやされた。
 江戸時代の中頃、佐久間洞巌がその著「奥羽観跡聞老志」に名取川の水材と怪石について記している。それらは名取川の名産品であったという。この記事を読んで以来、私はこの二つのことがいつも気になっていた。それらは古代に編まれた「陸奥国風土記」に初見するというが、その陸奥国風土記は現残していない。佐久間は水材とは川に沈んだ材木ということで、埋もれ木の別名とした。しかし怪石については特に述べることがなかった。
 私は長い間、怪石のことを、怪しい姿の石という意味にしか理解できていなかった。庭石に使うような大きな石のイメージをもっていた。硯の周りや机の上に飾り置く小さな石を「怪石」と呼ぶらしい。掌サイズのものである。書道家や文筆家の世界ではふつうに知られた存在であった。
仙台を流れる広瀬川は名取川の支流である。この川埋もれ木を全国的に紹介しようとするなら、広瀬川とは言わずに名取川という筈である。そのように考えて「奥羽観跡聞老志」の文脈を再読するとき、私は名取川の範囲を狭めて、「広瀬川の怪石」としてみたのである。竜ノ口沢から広瀬川へ流れでる珪化木(亜炭)や霊屋橋下流の広瀬川河床に露頭する珪化木こそ「怪石」になりえると直感した。この珪化木は五百万年前の遺物である。さらに私は、長崎で見つかった「名取川埋木」(実は広瀬川の亜炭)の置物を見て、その赤黒色の美しさに見惚れ、「怪石」たり得ると感じた。特に広瀬川の珪化木は珪化していない軟質の亜炭の部分が複雑に入り込んでおり、長い年月をかけてこの部分が剥がれ落ち、あるいは腐れ落ちて、魅力的な怪しげな姿作り上げていくと考えられる。日本全国でこのような珪化木片を拾える場所は仙台の広瀬川以外にない。だからこそ広瀬川の怪石は珍しいのである。
 広瀬川下流域の川原には黒色の塊がたくさん転がっている。これは一般には亜炭と呼ばれている。この黒い塊は乾燥すると小片にひび割れ、薄く剥がれて、捲れ上がる。川原のあちこちにあり、誰もが目にしていると思われる。乾燥する前に薄く剥がし、これに重しをかけて平にして、乾燥させてから磨くと、こまやかな美しい杢を有する枝折ができる。江戸でもたいへん人気があった。文人たちに「名取川埋木枝折」と呼んでいた。本来は「広瀬川埋木枝折」と呼ばれるべきであったが、本流である名取川が川埋もれ木の産地として有名であったため、「名取川」を冠したのかもしれない。
 青葉山の亜炭(山埋木)を利用した仙台埋木細工は幕末に近い文政五年に始まったとされる。角盆や茶托の類が製造され、少しずつ売れはじめた。ちょうど名取川の埋もれ木が枯渇して採集が困難となっていたため、歓迎された向きがある。鉄道が開通した明治中期以後、松島土産として盛んに製造販売された。松島の風景を刻したものが多い。後には「仙台埋木細工」と呼ばれた。その後昭和初期に生産が落ち込んだが、戦後再び生産量が増えた。しかし人気の低迷と原材料の枯渇などにより、昭和四十年代以降急激に減少し、現在の生産は微々たるものになった。
 不思議なことに仙台埋木細工も明治初期ころは「名取川埋木」の名を冠して販売されていた。先行していた「名取川埋木枝折」が同じ亜炭材料であったため、それに倣ったとも考えられる。ただし仙台埋木細工用の亜炭を燃やしても世に言う「埋木灰」は採れない。
以上は本書が述べようとする趣旨である。それは単なる仮説であると非難されるかもしれない。私としては実証したつもりであるが、その判断は読者の皆さんに委ねたい。
   平成28年11月吉日                                松浦丹次郎

「 目次 」

口絵写真
はしがき
 第一章 埋没樹 ------------------------------- 1
1埋没樹の諸相 2河川流域の埋もれ木 3海の埋もれ木と漂流樹 4石炭と亜炭と珪化木 5不灰木と木煤 6梁川町内の化石 7伊予国の扶桑木
 第二章 名取川の埋もれ木 ----------------------- 49
1名取川と埋もれ木  2橘南渓の名取川埋木探索  3名取川名産の埋木灰と怪石  (閑話休題)新井白石と伊達の霊山城  4伊達氏と香 5名取川埋木文台勧進の歌 6文台について 7名取川埋もれ木献上の記録 8名取川埋もれ木の知名度
 第三章 阿武隈川の埋もれ木  ------------------ 141
1阿武隈川の埋もれ木  2阿武隈川の埋もれ木の献上  3名取川埋もれ木の衰退と阿武隈川埋もれ木の台頭
 第四章 仙台埋木細工の前史 -------------------- 165
1青葉山亜炭と仙台埋木細工  2滝沢馬琴所蔵の「名取川埋木化石硯」  3滝沢馬琴所蔵の「名取川埋木枝折」と只野真葛  4内池永年が愛用した「名取川埋木」製の枝折  5「広瀬川埋木枝折」と「名取川埋木枝折」
 第五章 黎明期の仙台埋木細工 ------------------- 195
1奥羽戊申戦争と長崎振遠隊  2長崎へ運ばれた「名取川埋木」  3松浦玉圃の彫刻指導  4大阪にあった「名取川埋木」の菓子皿  5ウィーン万国博覧会  6東北御巡幸と埋木細工  特記 東京国立博物館所蔵の埋木細工  7第一回内国勧業博覧会と埋木細工  8ついに明かされた埋木灰生産者の名  9錦絵「陸前国松島景並埋木細工の図」
 第六章 仙台埋木細工の隆盛と衰退 --------------- 255
1鉄道の開通と松島みやげ  2埋木細工の改良  3隆盛する仙台の埋木細工  4仙台埋木細工の紹介  5仙台埋木盆に見える風景  6仙台埋木製硯について  7仙台埋木細工の衰退
 第七章 川埋もれ木の家 ------------------------- 313
1瑞巌寺埋木書院  2針久支店の埋木座敷  3擬洋風建築、旧亀岡家住宅の埋もれ木材  4埋もれ木の建具や家具など
 第八章 川埋もれ木の復権 ----------------------- 333
1川埋もれ木の風景(阿武隈川)  2川埋もれ木の引き揚げ作業  3埋もれ木の樹種名の特定  4 川埋もれ木の魅力  5埋木灰の正体  6川埋木製品の試作と展示活動  7ついに発見、名取川埋もれ木  付記 東北地方太平洋沖地震で出現した埋もれ木
参考文献等
資料提供者等
あとがき

 -------- 本文より 一部抜粋 ---------

  明治九年明治天皇の東北御巡幸
 

 明治天皇は明治5年(1872)の九州・西国方面に続き、同九年の東北・北海道へ行幸された。その後も明治11年の北陸・東海道、同12年の甲州・東山道、同14年の山形・秋田・北海道、同18年の山口・広島・岡山、と集中して行幸されている。御巡幸の目的はご自分の眼で新しい国土と国民を見ることであった。あわせて各地で国民の生活や産業や教育の様子について知事や代表者などから報告を聞いている。もちろん警備の都合上一般の国民から直に聞くことは殆どなかったようである。
 明治9年の東北への初めての御巡幸には大きな不安があった筈である。東北地方が特に戊申戦争で荒廃していたためである。東北地方は戊辰戦争の記憶も生生しく、未だ新政府に反感をもつ人たちも多い筈であった。結果的に天皇や朝廷側と対立してしまった奥羽諸藩の人たちは天皇をどのように思っているのか、安心できなかった。その人たちとの友好親善をはかっていかなければ、ふたたび戦争が起きるとも限らない。東北の平和は、維新政府はもとより天皇自らが強く望まれたことであろう。側近たちからすれば、東北の人たちが激しい恨みを持っていやしないか不安が大きかった。警護がたいへんだった。御巡幸は百人以上の規模で行われた。政府の高官・要人が大勢同行した。

 実際に東北の地へ行ってみると御巡幸一行は大歓迎をうけた。人々は「野となく山となく」いたるところで天皇を一目見ようと押し寄せた。老いも幼も集まり、天皇を敬い拝む様は子供が父母を慕う気持と一緒のようだった。そのような中にも心ある者は奉迎の歌や文を献じてきた。御巡幸に同行した侍従番長高崎正風はそれらを一つも漏らさず天皇へ御覧にいれようと努力した。高崎には想像を絶することだったらしい。高崎は不安が掻き消えた。
「埋木廼(の)花」は東北の地域住民たちから寄せられた奉迎の歌集である。侍従番長高崎正風が編集し、宮内庁から明治9年9月に出版されている。上下二巻2冊からなる。総頁は250頁ほど。上巻には福島県と宮城県域が収められている。ただし巻初に埼玉県と栃木県での奉迎歌が少し掲載されている。
「埋木の花」の意味は、数百年数千年水底に倒れて沈んでいた木が生き返って花を咲かせることなのである。ありえないことだが、花が咲いたのである。それは奇跡の花なのである。それだけ侍従番長高崎正風の不安は大きかったのである。

   埋木の花序
 ・・・(中略)・・・御車の往過所野となく山となく、老を扶け幼を抱き、所せきまて群集て拝み敬ひ奉るさま、幼児の父母を慕ふに異ならす、さる中には流石に心あるも少なからて、筑波山によそへて聖恩のかけを仰き、阿武隈川をひきて濁なき御代をたたへ、或は不忘山の忘れかたく、信夫の里の忍ハしく、思ひ奉る心々を歌に述へ、文に著して献れるか、みちみちいとおほかりけるを、正風辱くも御側に侍らひ、叡慮の下情を察に切なることを窺ひ奉り、且詠歌の事うけたまハりものすれは、捧まつるまにまに、一ひらもおとさす、御覧を供せさせ奉りき、かくて東京に還幸給ひて後に思へらく、名くハしき海や山や城の址関の余波なと珍らしき所々をは、写真師におほせて其真景を写さしめ給ひつれと、ひとりめにミえぬ人情と形なき風俗とをいかかはせむ、これか姿をうつし、これか影をととむるものは、やかて歌ならすや、されは、歌は人情風俗の写真ともいふへきものにしあれは、いかてこたひ献れるかきりを一さらに纂めものして御側に捧け置なは、万機の御暇あらん折々に彼写真とならべ見そなハさんには猶其各地を巡幸ます御心地やし給はむ、・・・(中略)・・・頓て其よし聞え上て許可を蒙り職務のいとまいとまにかくあつめ叙て二巻となし、埋木の花と名つけて献りぬ、さるは宮城野行宮におはしましける時、埋木もて作れる何くれの物とも御覧せさせ給へる折御前に侍らひて、陸奥のあぶくま川のうもれ木の花さく御代もあれは有けり、と思ひつつけしを、やがて此陸奥人のかかる盛世に遭遇て往古より例なき行幸の大御光に、人しれぬ言葉の花の世に匂ひ出たるにてなぞらへつる也、・・・(後略)
    明治九年九月               侍従番長 高崎正風 
               (高崎正風編著「埋木廼花」、宮内省蔵版、福島県立図書館蔵)

 明治9年の東北御巡幸では訪れた各地で名所旧跡を写真師に写させたという。これは写真に撮るという意味だけでなく、写生をも含めた意味と解釈したい。後で天皇がより良く思い出せるように事務方が考えたようである。しかし風景の写真だけでは民衆の人情や風俗が伝わらないと感じた高崎正風は、写真を補うのが民衆から寄せられた数多くの歌であると考えて、「埋木廼花」を編集することにしたのであった。

 「埋木の花」という題名の由来 は、仙台にお着きになった行在所で仙台の名産の一つである埋木製品を天皇がご覧になっていたとき、側仕えしていた侍従番長の高崎正風が抱いた感情が発端となっている。高崎の感情をそのまま歌にしたのが「陸奥の阿武隈川の埋もれ木の花さく御代もあれば有けり」である。この歌の意味は「陸奥の御巡幸で天皇は多くの人々に会うけれども、阿武隈川の水底に人知れず沈んでいた埋もれ木が引き揚げられて高価な埋木灰などに利用されるなどして、一花を咲かせることもあるように、御巡幸を迎えることで、陸奥の人々の思いや内なる心が世の中に認められ花開く時代がきてほしい・・・」となろう。高崎は、戊申戦争で傷ついた陸奥の人たちが新しい時代に取り残されて暗く沈んでいるかもしれないことを「埋もれ木」に喩えているのだ。高崎は、そのような陸奥人の奉迎歌の物静かな言葉の中に花が咲いたような匂いが醸し出されているのに気付いた。高崎は奇蹟の花が咲いたのを感じとったのである。繰り返すが、陸奥東北の人々の歓迎ぶりは尋常でなく、奇蹟に近いほどの、ありえないほどの素晴らしいものだった。東京出発前の大きな不安が掻き消された思いであった。奉迎歌こそが人々の人情を真実に写しとっていると感じた。それで高崎は「埋木の花」と題したのである。写真では心の中までは写せないのである。
 高崎正風(1836~1912)は、元薩摩藩士で、維新後の明治4年新政府に出仕してすぐ明治5年に欧米視察したエリートである。明治8年宮内省侍従番長に抜擢されたときは40歳であった。その後御歌係へ転じ、同19年に御歌係長、同20年御歌所長へ栄進した。
 
   ☆参考:「阿武隈川の埋もれ木」松浦丹次郎著(平成21年11月18日刊)

  
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