「霊山城」と新井白石

       福島県伊達市霊山町大字石田・大石地区、相馬市玉野

     まだ無名だった新井白石が霊山城跡を訪れて詠んだ漢詩「霊山鎮」

  陸奥国守北畠顕家と南朝勢の忠節と武功をうたいあげた名作である。

 まだ無名のころの新井白石が伊達郡の霊山城跡を訪れていた。当時の新井白石は福島藩堀田下総守正俊・正仲父子(大老)に仕えていた関係で福島にいた。元禄2年(1689)相馬中村藩に仕える同族の郡司弥一右衛門正信(白石の義兄)を訪ねる途中に霊山に寄ったのだった。
新井白石は霊山城跡で一つの漢詩を詠じた。
 陸奥国府多賀城にいた陸奥国守兼鎮守府将軍の北畠顕家は、延元2年(1337)1月8日、後醍醐天皇の名代義良親王とともに伊達郡霊山城へ移り、奥羽南朝の拠点とした。奥羽南朝勢の形勢不利の状況で、「僅かに霊山城を守りて有るも無きが如き有様」であった(太平記)。同年8月、北朝勢に支配された京の都を奪還するため、北畠顕家らは奥羽の大軍勢を率いて上洛した。途中、鎌倉を奪還した後、延元3年1月、美濃国青野原の合戦に勝利するなど各地で勝利を収めながら、京へ向った。畿内に入ると、一進一退の激戦が続いたが、5月にはついに、泉州(大阪府堺市)堺浦の「石津の戦い」で、北畠顕家は戦死してしまった。21歳であったという。新井白石の漢詩はこのときの顕家らの奮戦雄姿を讃えたものである。

    国司館  霊山城
        霊山 国司沢の紅葉                            霊山城跡 遠望

    霊山鎮  白石
  霊山開巨鎮、郷月照雄藩、
  鐘鼓千峯動、貔貅萬竈屯、
  出師資上略、刻日復中原、
  一夕長星堕、年年哭嶺猿、

 これらのことを、千葉県の歴史家、坂井昭氏が「書物への愛 桜田御文庫と新井白石」(平成28年3月31日出版)の中で新事実を発表されている。

    本

 坂井昭氏は「新井白石記念館の設立を応援する会」の代表でもある。同会は千葉県君津市久留里で活動している。久留里は新井白石の旧主土屋忠直が初代藩主であった久留里藩の地であった。新井家は白石の父の代から土屋家へ仕えていた。白石は子供時代から青年期まで久留里で生活した。いわば白石の学問の下地が養われた地であった。

 漢詩の解釈はいろいろあろうが、私の訓読と意味はこうである。

  (読み下し)
  霊山鎮  白石
霊山、巨鎮を開き、郷月、雄藩を照らす
鐘鼓、千峯を動かし、貔貅、萬竈に屯す
出師、上洛を資り、刻日、中原を復す
一夕、長星、堕ち、年年、哭す、嶺の猿
  (意訳)
 霊山に聳える巨大な山城、霊山鎮。月が南朝方の伊達郡の地を照らしている。鐘や鼓の音が千の嶺々に
響き、屈強な兵たちが万の家々に屯している。奥羽の大軍勢を率いて上洛した北畠顕家公は
一旦京都を平定した。しかし、ある日の夕方、阿倍野の戦いで敗死した。それを悲しんで
霊山の嶺々の猿が今でも毎年泣いている。


 「霊山開巨鎮、郷月照雄藩」。巨大な峻厳な山城、霊山城を、一言で的確に表現している。霊山城のなんと雄大なことか・・・。「鐘鼓千峯動、貔貅萬竈屯」。霊山城に集結している南朝軍の雄姿が目に見えるようである。新井白石は視覚的に霊山を捉えている。「一夕長星堕、年年哭嶺猿」。彼らの憤死を悲しみ、今も霊山の猿たちが哭いているという。ここには南朝への新井白石の愛が窺える。顕家の父北畠親房の著「神皇正統記」は新井白石の愛読書の一つであった。

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  《資料》
 ●享保6年8月9日安積澹泊(水戸彰考館総裁)宛の新井白石書状(抄)
一、奥州に家兄の事、『白石詩草』にて御覧に及ばれ、御尋にて候。某事は亡父の時より
故土屋民部少輔家人にて、民部少輔第二子相馬の家へ養子に罷成り候時に、某兄にて候
者をも附属し、つかはし候に付、相馬の城下中村に居住し候。是は三十年許以前に死去
し候て、子供も両人迄候ひしも打続き死し、今は孫の代に罷成り候。
さて某事は民部少輔子伊予守代に浪人仕り、堀田筑前守(正俊)家へ罷出下総守(正仲)
代まで彼家に罷在り候。その時に福島へ一度、山県(山形)へ一度、罷越し候事に候ひ
き。信夫郡は即ち福島を申し候。
 兄の名は弥一右衛門正信と申し候ひき。『白石詩草』の中の人名の事、いかにもいかにも
忘れ申さず候。追て書付進呈致すべく候。彼福島より中村迄は僅に六里に候。中路に顕家
中納言(北畠顕家)の遺跡霊山鎮是あり候て、今も昔の庭の跡に牡丹など春を忘れず候。
礎石等も元のままにて、焦穀時々あなたこなたより出候と申す事に候。(新井白石全集)


  己巳秋到信夫郡、奉寄家兄  兄在馬邑去郡止八十里      白石 

遠送朱輪出武城、清秋孤剱賦東征
故園丘墓松楸冷、長路関山鴻雁驚
芳草池塘他日夢、夜床風雨此時情
登楼相望浮雲隔、空寄愁心対月明
                    (「白石詩草」)

     ※己巳は元禄2年(1689)。このころは白石は堀田家中であったと思われる。
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 新井父子は、久留里藩主土屋直樹が仕えるに足らざる人物と知り、延宝5年(1677年)ころに土屋氏のもとを去った。その後新井白石は堀田氏福島藩10万石(貞享3年~元禄13年)に仕えた。白石が堀田氏に使えたのは元禄年間の初めのころと思われる。しかし福島藩が財政難で苦しかったので、数年して自ら致仕してしまった。
 その後白石は江戸へ出て、朱子学者木下順庵の門人となり、さらに修行に励んだ。元禄6年(1693年)、木下順庵は新井白石を甲府藩主徳川綱豊への仕官を推挙した。白石が37歳の時である。ここから新井白石は夢のような生活が始まる。宝永6年(1710年)徳川綱豊は乞われて将軍世子となり、名を徳川家宣と改め、幕府の6代将軍となった。白石は能力を買われて「将軍侍講」の大役を仰せつかった。白石は次の7代将軍徳川家宣にも仕えた。白石が行ったさまさまな幕政改革は「正徳の治」と呼ばれた。

   霊山の遺跡と紅葉

国司館 霊山館跡
伝国司館跡に残る礎石列    伝霊山城跡に残る片付けられた礎石集
霊山城之碑   義良親王霊山在御蹟碑
   霊山城之碑 明治21年   義良親王霊山在御蹟碑 明治22年
風景写真 風景写真

風景写真
        国司沢、護摩壇、紫明峰などの秋景

 毎年10月下旬からたくさんの登山客で賑わう。登山道は押すな押すなの盛況となる。屹立する岩の背腹を縫うように歩く爽快感は他の山では味わえない。新緑のころの登山もとても気持ちがいい。2時間から3時間あれば、十分に山上の歴史と景色を満喫して下りてこれる。トイレは登山口に一箇所、山上に一箇所ある。飲み水が湧き出ている箇所もあるが、安全は保証できない。水筒持参が望ましい。

風景写真
   蟻の戸渡付近の紅葉  中央の沢谷は左方へ行くと、二つ岩、旧霊山寺跡に出る。
風景二つ岩

風景写真
   旧霊山寺 寺屋敷跡   山奥にひっそりと寺堂の礎石が並ぶ

南北朝時代の霊山寺と霊山城

 元弘3年(1333)暮れ、建武新政権下、新しい奥州政府開府のため後醍醐天皇の皇子義良親王が陸奥国司北畠顕家とともに多賀の国府へ下った。このとき伊達行朝は結城宗広入道とともに奥州府の式評定衆に名を連ねていた。しかし多賀城が危うくなると建武4年(1337)1月8日義良親王(陸奥国大守)、北畠顕家(鎮守府将軍)らは伊達郡霊山城に移った。同日付けで北畠顕家は霊山に着いたことを天皇に報告している。霊山寺の勢力と南朝の雄伊達行朝・結城宗広入道を頼ってのことであった。当時、霊山の山を境に西側の伊達郡が伊達氏の領、東側の宇多郡が白河結城氏の領となっていた。
  城 霊山城跡全景 825m

 建武3年の石田孫一着到状によれば、建武2年(1335)12月から石田孫一は霊山館で警護にあたっているから、多賀城着任時まもなくから霊山寺は南朝奥州政府の重要な基地として整備が開始されていた。有力な大将(広橋修理経広か)が在城していたと見ることができる。
 顕家らは京都の北朝を追い払うため、8月11日霊山城を離れ、再び大軍を率いて西上した。そして延元2年(1337)和泉国(石津境浦阿倍野)で戦死した。21歳であった。
 同年9月顕家の跡を継いだ弟北畠顕信ら奥羽南朝方の一行は北畠氏の故郷伊勢から船で奥州へ向かった。しかし嵐に遭い、伊達行朝・北畠親房らは常陸に流れ着いた。北畠顕信・結城宗広入道らは伊勢に吹き戻されたという。北畠親房らは小田城や伊佐城を中心に勢力を挽回しようとした。興国元年(1340)6月顕信らと合流した伊達行朝らは奥州へ向かった。
 合戦は全国的なものだったが、伊達郡内では霊山城や藤田城など各地で合戦が行われた。南朝と北朝で活躍した武将たちの軍忠状や着到状が残されている。霊山城の落城は貞和3年(1347)8月ころで、霊山寺の建物群は全焼したといわれる。林の中に当時の大伽藍を物語る多くの礎石が残されている。いま霊山神社に伝わる青磁の花盆と皿は中国龍泉窯の優品で、輸入されたもの。義良親王在城のころ使用された可能性がある。南北朝の合戦は最終的に北朝方の勝利に終わった。

霊山碑、北畠顕家公顕彰  松平定信

 霊山碑
 霊山碑 文化14年(1817)8月、白河藩主松平定信が建立した。南朝方の北畠顕家公の忠誠を顕彰したもの。題額は定信の自筆、本文の撰文と書は白河藩儒広瀬典。「顕家生ては、奥羽を以て根拠と為し、身は泉州に死すといえども、魂魄反(帰)りて常に此の山に在るが如し」とある。当時白河藩の預かり支配地2万石20ヶ村が伊達郡保原地域にあり、碑のある大石村はその一村であった。霊山城と関わり深い霊山寺も同村にあったが、何故か定信は、霊山の古社山王二ノ宮の伝がある日枝神社へ建碑した。霊山寺は古くは霊山山上にあり、その守護として山王二十一社が祀られていたので、両者は一体であったと見てもいい。霊山碑は伊達市霊山町大石、日枝神社境内にある。

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