「霊山城」および北畠顕家と奥州南朝軍の忠節を顕彰した新井白石の詩

       福島県伊達市霊山町大字石田・大石地区、相馬市玉野

    まだ無名だった新井白石が霊山城跡を訪れて詠んだ漢詩「霊山鎮」、《霊山城跡》顕彰の好資料

  陸奥国守北畠顕家と奥州南朝軍勢の忠節と武功をうたいあげた名作である。

 まだ無名のころの新井白石が伊達郡の霊山城跡を訪れていた。当時の新井白石は福島藩堀田正仲に仕えていた関係で福島にいた。相馬中村藩に仕える義兄の郡司弥一右衛門正信を訪ねる途中に霊山城跡に寄ったのだった。ここ霊山城跡で新井白石は一つの漢詩を詠じた。「霊山鎮」である。「鎮」は城の異称。
 元弘3年(1333)11月陸奥守兼鎮守府将軍北畠顕家は後醍醐天皇の皇子義良親王を奉じて陸奥国府多賀城に赴き、乱の平定にあたった。建武2年(1335)秋、足利尊氏は鎌倉を陥れ、次いで京を占拠した。後醍醐天皇は吉野へ逃れた。北畠顕家は伊達氏や結城氏など奥羽の大軍を率いて西上し、建武3年(1336)1月には尊氏らを京から追い払った。建武3年5月ころ顕家らは多賀城に戻った。しかし奥羽の北朝勢に追い詰められて、北畠顕家は、延元2年(1337)1月8日、義良親王とともに伊達郡霊山城へ移り、ここを奥羽南朝の拠点とした。奥羽南朝勢の形勢不利の状況で、「僅かに霊山城を守りて有るも無きが如き有様」であった(太平記)。同年8月、北朝勢に支配された京の都を奪還するため、北畠顕家らは奥羽の大軍勢を率いて上洛した。途中、鎌倉を奪還した後、延元3年1月、美濃国青野原の合戦に勝利するなど各地で勝利を収めながら、京へ向った。畿内に入ると、一進一退の激戦が続いたが、5月にはついに、泉州(大阪府堺市)堺浦の「石津の戦い」で、北畠顕家は戦死してしまった。21歳であったという。
 新井白石の漢詩はこのときの顕家らの奮戦雄姿を讃えたものである。新井白石は元禄2年(1689)に福島に移っているので(次掲資料)、「霊山鎮」の漢詩は元禄2年~同3年のころの作と考えられる。

 霊山城   国司館
         霊山城跡 遠望                霊山 国司沢の紅葉

    霊山鎮  白石   (「新井白石全集」所収)
  霊山開巨鎮、郷月照雄藩、
  鐘鼓千峯動、貔貅萬竈屯、
  出師資上略、刻日復中原、       ※上略は上洛の誤記か
  一夕長星堕、年年哭嶺猿、
   (読み下し) 
  霊山、巨鎮を開き、郷月、雄藩を照らす
  鐘鼓、千峯を動かし、貔貅、萬竈に屯す        ※貔貅(ヒキュウ)=猛獣
  出師、上洛を資り、刻日、中原を復す
  一夕、長星、堕ち、年年、哭す、嶺の猿
   (意訳)
  霊山に聳える巨大な山城、霊山鎮。月が南朝方の伊達郡の地を照らしている。
  鐘や鼓の音が千の嶺々に響き、屈強な兵たちが万の家々に屯している。
  奥羽の大軍勢を率いて上洛した北畠顕家公は一旦京都を平定した。
  しかし、ある日の夕方、長大な彗星が墜落した。それを悲しんで 霊山の嶺々の猿が今でも毎年泣いている。

 「霊山開巨鎮、郷月照雄藩」。巨大な峻厳な山城、霊山城を、一言で的確に表現している。霊山城のなんと雄大なことか・・・。「鐘鼓千峯動、貔貅萬竈屯」。霊山城に集結している南朝軍の雄姿が目に見えるようである。新井白石は視覚的に霊山を捉えている。「一夕長星堕、年年哭嶺猿」。大阪阿部野での顕家と奥州軍の敗死を、白石は、長大な彗星が堕ちたと表現した。彼らの憤死を悲しみ、今も霊山の猿たちが哭いているという。ここには南朝への新井白石の愛が窺える。顕家の父北畠親房の著「神皇正統記」は新井白石の愛読書の一つであった。

  次の漢詩は新井白石(33歳)が福島城下にやって来た元禄2年(1689)秋に、相馬にいる義兄郡司正信(54歳)に送ったもの。正信は白石が年少のころ生活費を支えてくれていたことがあった。「馬邑」は相馬をさす。「信夫郡」は福島の属する郡名である。「郡を去ること八十里に止める」とは福島から久留里の間の距離を言っていると思われる。この漢詩は、北畠顕家が後醍醐天皇の名代義良親王を奉じて都から陸奥国へ赴く姿を謳ったものと思われる。また山形や福島へ飛ばされた主君堀田氏に臣従する白石自身の心境が重ねられている。「霊山鎮」と対をなす漢詩であろう。郡司正信は元禄16年に亡くなった。68歳であった。

   己巳秋到信夫郡奉家兄  兄在馬邑去郡止八十里            白石
 遠送朱輪出武城、清秋孤剱賦東征
 故園丘墓松楸冷、長路関山鴻雁驚
 芳草池塘他日夢、夜床風雨此時情
 登楼相望浮雲隔、空寄愁心対月明
           (「白石詩草」所収)
     ※己巳は元禄2年(1689)。このころ白石は福島藩主堀田家臣として福島にいた。

    (読み下し)
  遠く朱輪を送りて武城を出つ、清秋孤剱東征を賦す
  故園丘墓松楸冷に、長路関山鴻雁驚く
  芳草池塘他日の夢、夜床風雨此の時の情
  楼に登りて相望めば浮雲隔つ、空く愁心を寄せて明月に対す

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  元禄2年からおよそ30年が経った享保6年(1721)8月、新井白石は水戸彰考館総裁安積澹泊に宛てて、次のような手紙を書いている。白石の義兄(相馬藩士郡司正信)に関する質問に答えたものである。義兄を訪ねて相馬へ行く途中に霊山城跡に立ち寄ったことが分かる。その季節は秋8月と見られるので、牡丹の咲く季節ではない。だから霊山城跡の庭園に今でも牡丹が咲いているというのは、地元民の話であることが分かる。ただ山上の霊山城跡は高山植物帯なので、牡丹の栽培は無理かと思われる。山下の部落なら可能と思われる。このころ保原地域の熊阪家では牡丹を京都から買い入れ栽培していた事実がある。建物の礎石が残っていて時々焼けた籾殻が出るともある。現在でも当時の建物礎石は残っている。南北朝の合戦で霊山城が全焼したという伝えも根強く残っている。
 「福島より中村迄は僅に六里に候」とあるが、福島~相馬間は十六里あるので、誤記であろう。なお福島~大石間は六里半で、福島~石田間も同程度である。霊山登山の入口は大石村と石田村にある。新井白石は相馬街道沿いの石田村から霊山城跡へ登ったとみられる。

 ●享保6年(1721)8月9日新井白石書状 水戸彰考館総裁安積澹泊宛(抄)
「 一、奥州に家兄の事、『白石詩草』にて御覧に及ばれ、御尋にて候。某事は亡父の時より
故土屋民部少輔家人にて、民部少輔第二子相馬の家へ養子に罷成り候時に、某兄にて候
者をも附属し、つかはし候に付、相馬の城下中村に居住し候。是は三十年許以前に死去
し候て、子供も両人迄候ひしも打続き死し、今は孫の代に罷成り候。
さて某事は民部少輔子伊予守代に浪人仕り、堀田筑前守(正俊)家へ罷出、下総守(正仲)
代まで彼家に罷在り候。その時に福島へ一度、山県(山形)へ一度、罷越し候事に候ひ
き。信夫郡は即ち福島を申し候。
 兄の名は弥一右衛門正信と申し候ひき。『白石詩草』の中の人名の事、いかにもいかにも
忘れ申さず候。追て書付進呈致すべく候。彼福島より中村迄は僅に六里に候。中路に顕家
中納言(北畠顕家)の遺跡霊山鎮是あり候て、今も昔の庭の跡に牡丹など春を忘れず候。
礎石等も元のままにて、焦穀時々あなたこなたより出候と申す事に候。」
                (「新井白石全集〕所収)
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  かつて新井父子は、久留里藩主土屋直樹が仕えるに足らざる人物と知り、延宝5年(1677年)ころに土屋氏のもとを去った。その後新井白石は大老堀田正俊へ仕え、正俊刺殺の後、子の堀田正仲の山形藩および福島藩10万石に仕えた。白石が堀田氏に従って福島へ移ったのは元禄2年のころと思われる。しかし福島藩が財政難で苦しかったので、数年して自ら致仕(退職)してしまった。
 その後白石は江戸へ出て、朱子学者木下順庵の門人となり、さらに修行に励んだ。元禄6年(1693年)、木下順庵は新井白石を甲府藩主徳川綱豊への仕官を推挙した。白石が37歳の時である。ここから新井白石は夢のような生活が始まる。宝永6年(1710年)徳川綱豊は乞われて将軍世子となり、名を徳川家宣と改め、幕府の6代将軍となった。白石は能力を買われて「将軍侍講」の大役を仰せつかった。白石は次の7代将軍徳川家継にも仕えた。白石が行ったさまさまな幕政改革は「正徳の治」と呼ばれた。

 以上のことを、千葉県の歴史家、坂井昭氏が「書物への愛 桜田御文庫と新井白石」(平成28年3月31日出版)の中で新事実を発表されている。

    本

 坂井昭氏は「新井白石記念館の設立を応援する会」の代表でもある。同会は千葉県君津市久留里で活動している。久留里は新井白石の旧主土屋忠直が初代藩主であった久留里藩の地である。新井家は白石の父の代から土屋家へ仕えていた。白石は子供時代から青年期まで久留里で生活した。いわば白石の学問の下地が養われた地であった。
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   霊山の遺跡と紅葉

 国司館 霊山館跡
 伝国司館跡に残る礎石列    伝霊山城跡に残る片付けられた礎石
 霊山城之碑   義良親王霊山在御蹟碑
 霊山城之碑 明治21年   義良親王霊山在御蹟碑 明治22年


 風景写真 風景写真 風景写真
         国司沢、護摩壇、紫明峰などの秋景


毎年10月下旬からたくさんの登山客で賑わう。登山道は押すな押すなの盛況となる。屹立する岩の背腹を縫うように歩く爽快感は他の山では味わえない。新緑のころの登山もとても気持ちがいい。2時間から3時間あれば、十分に山上の歴史と景色を満喫して下りてこれる。トイレは登山口に一箇所、山上に一箇所ある。飲み水が湧き出ている箇所もあるが、安全は保証できない。水筒持参が望ましい。

 風景写真
   蟻の戸渡付近の紅葉  中央の沢谷は左方へ行くと、二つ岩、旧霊山寺跡に出る。
 風景二つ岩

 風景写真
   旧霊山寺 寺屋敷跡   山奥にひっそりと寺堂の礎石が並ぶ

南北朝時代の霊山寺と霊山城

 元弘3年(1333)暮れ、建武新政権下、新しい奥州政府開府のため後醍醐天皇の皇子義良親王が陸奥国司北畠顕家とともに多賀の国府へ下った。このとき伊達行朝は結城宗広入道とともに奥州府の式評定衆に名を連ねていた。しかし多賀城が危うくなると建武4年(1337)1月8日義良親王(陸奥国大守)、北畠顕家(鎮守府将軍)らは伊達郡霊山城に移った。同日付けで北畠顕家は霊山に着いたことを天皇に報告している。霊山寺の勢力と南朝の雄伊達行朝・結城宗広入道を頼ってのことであった。当時、霊山の山を境に西側の伊達郡が伊達氏の領、東側の宇多郡が白河結城氏の領となっていた。

 建武3年の石田孫一着到状によれば、建武2年(1335)12月から石田孫一は霊山館で警護にあたっているから、多賀城着任時まもなくから霊山寺は南朝奥州政府の重要な基地として整備が開始されていた。有力な大将(広橋修理経広か)が在城していたと見ることができる。
 顕家らは京都の北朝を追い払うため、8月11日霊山城を離れ、再び大軍を率いて西上した。そして延元2年(1337)和泉国(石津境浦阿倍野)で戦死した。21歳であった。
 同年9月顕家の跡を継いだ弟北畠顕信ら奥羽南朝方の一行は北畠氏の故郷伊勢から船で奥州へ向かった。しかし嵐に遭い、伊達行朝・北畠親房らは常陸に流れ着いた。北畠顕信・結城宗広入道らは伊勢に吹き戻されたという。北畠親房らは小田城や伊佐城を中心に勢力を挽回しようとした。興国元年(1340)6月顕信らと合流した伊達行朝らは奥州へ向かった。
 合戦は全国的なものだったが、伊達郡内では霊山城や藤田城など各地で合戦が行われた。南朝と北朝で活躍した武将たちの軍忠状や着到状が残されている。霊山城の落城は貞和3年(1347)8月ころで、霊山寺の建物群は全焼したといわれる。林の中に当時の大伽藍を物語る多くの礎石が残されている。いま霊山神社に伝わる青磁の花盆と皿は中国龍泉窯の優品で、輸入されたもの。義良親王在城のころ使用された可能性がある。南北朝の合戦は最終的に北朝方の勝利に終わった。

霊山碑、北畠顕家公顕彰 白河藩主松平定信

 霊山碑 霊山碑 (伊達市霊山町大石 日枝神社境内、篆額 揮毫 松平定信、撰文・書 白河藩儒広瀬典)

    霊山碑
 霊山は伊達郡大石村に在り、天地初めて陶し山川形を結で此の竒秀を生ず、命して以て霊山となす、而るに此に棄損して遐掫顧みざるもの何ぞ、それ先に與ひて後に奪ふものならざらんや、建武の頃北畠顕家、義兵を擁して是の墟を保ち、屡屡挫折し、復ふ賑ふ、然る後、山因って顕る、顕家の忠誠尽国、其の隠伏を顕すに足る、而して蒼生をして心を南朝に帰向せしむる能はざるもの、何ぞ其れ物を得て人を失ふと云ふべし、而して今其の時を去る四百年人忠孝を重んじ、風俗義を尚び、農人商夫猶山を指して故事を説く、顕家生ては奥羽を以て根拠と為し、身は泉州に死すといひども、魂魄反て常に此の山に在るが如し、村民碑を樹て酒食を以て山霊と人神とを祀る、朕蠹来り食し其れ斯民を祚するや必せり、然り則ち相得て、顕著なる者、将に以て愈々久遠を極めんとする也
     文化十四年八月

 文化14年(1817)8月、白河藩主松平定信が建立した。南朝方の北畠顕家公の忠誠を顕彰したもの。題額は定信の自筆、本文の撰文と書は白河藩儒広瀬典。「顕家生ては、奥羽を以て根拠と為し、身は泉州に死すといえども、魂魄反(帰)りて常に此の山に在るが如し」とある。新井白石の漢詩と文が似ている。広瀬典は明らかに白石の「霊山鎮」の漢詩を踏まえている。当時白河藩の預かり支配地2万石20ヶ村が伊達郡保原地域にあり、碑のある大石村はその領内の一村であった。霊山城と関わり深い霊山寺も同村にあったが、何故か定信は、霊山の古社「山王二ノ宮」の伝がある日枝神社境内へ建碑した。霊山寺は古くは霊山山上にあり、その守護として山王二十一社が祀られていたので、両者は一体であったと見てもいい。
 新井白石の「霊山鎮」の漢詩は、松平定信より遙かに旧い「顕彰碑」とも言える。内容も良い。白石の漢詩は、碑に刻して霊山のどこかに建ててほしいものである。

 ※参考 
     信達二十九番札所観音、霊山寺千手観音堂


 お問い合わせ先      伊達の香りを楽しむ会

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