箱崎村の松五郎とその遺愛の馬、忠孝の名馬

 江戸時代後期の文政年間(1818~)のころである。伊達郡箱崎村に高橋伝兵衛という百姓の家があった。

 高橋伝兵衛家は元禄年間ころに箱崎村に土着してから数代つづく中堅農家であった。伝兵衛の息子松五郎は数年ほど前から栗毛の馬を飼っていた。馬は伝兵衛の従弟の亀次郎に馬市で買ってもらったもので、はじめは乗馬用として訓練したが、田舎道は平らでないので、走るのに向かなく、荷駄運搬用としていた。馬の世話はすべて自分でやるほどに、松五郎は馬が大好きだった。田畠へ牽き行くにも下僕にはひかせず自分で手綱を牽いた。松五郎の家族は祖母、両親、姉妹3人の七人暮らしだった。松五郎は長男だった。伝兵衛は親に孝養を尽くした。松五郎も親に負けない孝行息子だった。残念ながら、松五郎は文化14年(1817)の夏から病気になり、文政元年(1818)10月27日に死去した。20歳だった。  

 29日に葬儀が行なわれた。亡骸を棺に納めるとき、祖母は松五郎ゆかりの品々をたくさん入れようとして、ひと騒ぎがあった。手伝いに来ていた四五人が祖母の騒ぎを耳にした。土葬のあと、彼らは密儀をかわした。夕暮れから酒を呑みはじめた。彼らは酔うにつれ、秘かに松五郎の新墓へ行き、墓を掘り始めた。金目のものを盗ろうとしたのである。
 そのころ、何かを感じた松五郎の馬が厩の桟を破って、脱走した。下僕たちが物音に気付き、追いかけた。馬は松五郎の墓へまっしぐらに走って行き、墓泥棒たちを蹴散らし、踏みつけた。ここに下僕たちが到着した。様子を見て、下僕たちはびっくりした。遅れて、主の伝兵衛も駆けつけた。馬は忠義の馬として評判になった。
 泥棒たちは顔見知りの、葬儀手伝いに来ていた連中だった。理由を尋ねると、連中はすべてを白状した。命ばかりは助けてくれ、と懇願した。伝兵衛は五人を公儀へ訴追しようとしたが、よく考えてみれば、五人は隣村の顔見知りの者であるし、墓穴は掘られたが、棺の中までは開けられておらず、よくよく諫めて解放してやった。
 高橋伝兵衛家の墓所は自宅から東南へ2~3町離れた田の畔にあったという。ここに松五郎の亡骸が葬られたという。また、この村の福厳寺から見て、墓所は東南へ約5町の距離であるという。そして伝兵衛宅は福厳寺と墓所の中間にあるという。この記述に従えば、現地の地形から見ると、墓所は山の上になる。伝兵衛家も山の上になってしまう。しかしこの付近は水が出ないので、水田は考えられない。しかも、隣村である高子村内になってしまうではないか。この部分は誤記で、墓所から東南方向に5町のところに寺があるというのが正解と思われる。水田の位置も伝兵衛家の位置もこれなら現地の地形に叶い、理解できる。

 特異な馬好きで知られる松前藩前藩主松前道広公をも降参させた・・・

 ことさら松前藩(梁川藩)の前藩主松前道広公はこの話を耳にし、その馬を買ってまいれと、梁川にいる家臣に命じた。当時、松前氏は北海道福山から伊達郡梁川の地に移されていた。箱崎村は天領で桑折代官所支配だった。たとえ他領の百姓であっても、金額はいくら積んでもいいから、買ってこいという。
 家臣某が箱崎村に行き、交渉した。しかし伝兵衛は、いくら黄金を積まれても売らないと拒否した。伝兵衛は息子が生前していたようにこの馬を寵愛したという。

 この話は、実は、箱崎の鍼灸医師正宅という者が松前家の家老蠣崎波響の子蠣崎廣伴に手紙で告げ、翌年6月に家臣たちが調査を命じられたらしい。江戸藩邸に伝わると、老君道広公にも知らされて、家臣長尾友蔵(所左衛門)をして解(滝沢馬琴)へ知らされたのはさらに翌年の1月だった。雑記の中に記しておいたのを、いま思い出してここに書いていると、馬琴はいう。

 松五郎の遺愛の馬は、中国宋の国の周密の「斉東野語」巻七に載っている「畢再偶が遺愛の名馬、黒丈虫」にも優るくらいの、得難い美譚というべきものだという。


松前藩梁川近村で飼主が馬に噛殺された話
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