白雲洞(はくうんどう)は「高子二十境」の第19番です。「高子二十境」の創始者である熊阪台州は、自著「永慕編」の中で、「白雲洞ハ則チ、愚公谷ノ西、敝廬ノ東ニ在リ」と記しています。「愚公谷」は岩谷沼のある沢です。すなわち白雲洞は岩谷溜井の西側にあると記しているのです。「敝廬」は謙遜して我が家の意味です。すなわち白雲洞は白雲館の西方にある、と記しているのです。
「白雲洞」は二十境のうちで最も人気がある場所の一つでしょう。秋の紅葉のころが一番です。またこの岩山の「てっぺん」から白雲館を眺めるのも最高の気分です。
高子駅から東の方へ細い道をたどると、10分~15分くらいで、「淡島神社」の境内に着きます。この境内から細い階段を小丘の頂上めざして一直線に登って行きます。階段の両側は目いっぱいに百庚申の碑が立ち並でいます。荘厳です。赤石の階段はかなり急こう配です。階段の下からは、白雲洞は全く見えません。階段の途中から白雲洞のごつごつした小丘が見えてきます。この辺から、わくわくしてきます。周りと全く違う岩質の、穴のあいた岩山で、びっくりします。岩質は伊達市の名峰「霊山」の岩に似ています。この岩を台州は太古この地域が湖だった頃の波涛の痕跡と見ています(「信達歌」)。
白雲洞の名前の由来は良く分かりませんが、覇陵や台州の漢詩を読むと、この岩山には白雲が良く似合うかららしい。漢詩の題註に「一に琉璃窟と名づく」とあります。岩山の大きめの穴に、瑠璃光薬師如来や阿弥陀仏など小仏が祀られています。いまでもこの岩山に来ると、身震いするもの(霊感のようなもの)を感じることがあります。この岩山の周辺の畑から土製の勾玉がかなり出土しています。奈良時代のころから信仰の山だったことが知られます。
白雲洞の地は一般には岩谷山とか岩谷薬師と呼ばれていました。岩谷は、本来は岩屋(岩家)の意味である。
明治13年4月の上保原村地図に「字小性山」の地を「字白雲洞」と記したものがあります。もちろん間違って、そうなったと思われますが、明治初期の混乱していた状況を示しています。結局この字は成立しなかったのですが・・・。
白雲洞への石段 百庚申の碑が並ぶ 絵葉書
●白雲洞の漢詩 白雲洞の秋景色を詠んだ熊阪盤谷の歌は的確に秋を捉えて、解りやすい。このころの盤谷はまだ青年でした。
難しい知識をもてあそぶ傾向が強い祖父覇陵や父台州とは対照的です。白雲洞は覇陵と台州も漢詩に詠んでおり、それがよく分かります。
白雲洞 熊阪盤谷
独歩す幽洞辺
山中秋色の夕
丹楓遊子に媚び
白雲過客を留む
(漢詩の解釈例)
独り幽玄な岩屋の辺を歩く
山中 秋色が見え隠れする夕方
紅葉した楓は 遊覧する人に媚び
山上にたなびく白雲は 過ぎ行く人の足を留めさせる
※他の漢詩の鑑賞はこちらをご覧ください。 → 高子二十境漢詩鑑賞
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●「高子村灯籠」
参道入口の階段前にある。寛政元年(1791)三月の造立。三つの書体で「高子村」と彫られている。
●「台州大明神」の小祠
「白雲洞」の磐山のそばにある。享和4年(1804)の造立。最初は村人たちが高子沼の小島の上に建てた。後に白雲洞へ移された。熊阪台州は享和3年3月21日に亡くなっている。気をつけないと見過ごしてしまう。
「雩山」から「愚公谷」・「禹父山」・「白雲洞」・「古樵丘」を見る
高子二十境「愚公谷」と「禹父山」のこと|
高子七境の確定とネーミング手法|