松島の天麟院から与謝蕪村へ譲られた名取川埋もれ木

 俳人与謝蕪村は「新花つみ」の中で、名取川の埋もれ木について触れている。

  松しまの天麟院は、瑞巌寺と甍をならべて尊き大禅刹也、余、其寺に客たりける時、長老古き板の尺余ばかりなるを余にあたへて曰、仙台の太守中将何がし殿はさうなき歌よみにておわせし、多くの人夫して名取河の水底を浚せ、とかくして埋れ木を堀もとめて、料紙、硯の箱にものし、それに宮城野の萩の軸つけたる筆を添て、二条家へまいらせられたり、これは其板の余りにて、おぼろけならぬもの也とて、たびぬ、槻の理のごとくあざやか也、水底に千歳をふりたるものなれば、いろ黒く真がねをのべたるやうに、たたけばくわんくわんと音す、重さ十斤ばかりもあらん、それをひらつつみにして、肩にひしと負ひつも、からうじて白石の駅までもち出たり、長途の労れ、たゆべくもあらねば、其夜やどりたる旅舎のすの子の下に押しやりてまうてぬ、そののちほどへて、結城の雁宕がもとにて譚北にかたりけれハ、譚北はらあしく余を罵て曰、やよ、さばかりの奇物うちすて置たるむくつけ法師よ、其物我レ得てん、人やある、ただゆけと、須賀川の晋流がもとに告やりたり、晋流ふミを添て、其人にをしへて、白石の旅舎を尋ね、いついつ法師のやとりたるか、しかしかの物遺れおけり、それもとめにまうてぬ、といハせけれハ、駅亭のあるし、かしこくさかし得て、あたへけれは、得てかえりぬ、後、雁宕つたへて、魚鶴といへる硯の蓋にしてもてり、結城より白石までハ七十里余ありて、ことに日数もへたたりぬるに、得てかへりたる、けうの事也、                    (刊本「新花つみ」)

  天麟院 宮城県 松島町 天麟院

 「新花つみ」は安永6年(1777)与謝蕪村の亡母五十回忌に合わせて、蕪村が実施した追善発句集である。蕪村は天明3年(1783)に死去、「新花つみ」は弟子の月渓が蕪村の死後その草稿を見つけて、翌天明4年4月8日の仏生日に、自ら序を書いて巻子として残した。挿絵は月渓が描いている。「新花つみ」はその後寛政9年(1797)に出版された。
「新花つみ」は何故か途中で発句を止め、途中から数本の紀行文に切り替っている。ここに引用した部分はその一つで、「松しまの天麟院」の書き出しで始まる。内容は松島天麟院の長老からもらった名取川埋木の話である。 天麟院は臨済宗妙心寺派の大寺瑞巌寺の西側にある円通院のさらに西側にある。天麟院には伊達政宗の長女五郎八姫の霊廟がある。五郎八姫は越後高田藩六十万石の城主松平忠輝に嫁いだ。しかし忠輝は大阪の陣に遅参したため改易配流となり、五郎八姫は離縁して仙台に戻った。天麟院は五郎八姫の法名であり、寺院としての天麟院は万治元年(1658)瑞巌寺の洞水和尚を開山として創建された。五郎八姫はここで余生を送り、寛文元年(1661)5月8日、六十八歳で死去した。
 与謝蕪村が訪れたときの天麟院長老は五世江南東隆和尚であろう。彼は寛保2年(1742)11月28日に亡くなっている。六世曹源祖水は天明5年(1785)に八十四歳で亡くなっている。「松しまの天麟院」の話は一般には蕪村が二十代後半の寛保3年(1743)のころ実施した松島行きを回想している紀行文とされている。しかし天麟院五世と六世の死去の年次を考えると、蕪村の松島行きは寛保2年秋頃とすべきであろう。
 寛保2年6月6日、江戸日本橋の夜半亭で師の早野巴人が亡くなると、蕪村は同門の俳諧仲間である結城の砂岡雁宕(いさおかがんとう)宅へ身を寄せた。時に蕪村は二十七歳であった。それから三年の間、蕪村は上野国・下野国・常陸国など北関東域で俳諧修行する傍ら、奥州各地の芭蕉縁りの地を旅した。
 天麟院長老の話は顛末が実に面白い。「仙台の太守中将何がし」とあるのは名君といわれた仙台藩五代藩主伊達吉村である。
伊達吉村は名取川の埋もれ木で「料紙硯箱」を造らせ、筆軸を宮城野萩で造った筆を添えて、公家である二条家へ献上したというのである。どういうわけか天麟院長老がその埋木の残りの端材を譲り受け、所蔵していたのであった。「料紙硯箱」は料紙箱と硯箱がセットの箱である。料紙箱の中に料紙と硯箱が納まるようになっている。名取川埋木は平安期からたびたび和歌に詠まれ、仙台藩の名産品であった。名取川埋木製の硯箱や文台や栞は文人には垂涎の品であった。また筆軸に宮城野の萩枝を使った仙台筆も仙台名産であった。

 埋木硯箱 名取川の埋もれ木で作った硯箱(参考例)

 伊達吉村は名取川の川浚(さら)いをして埋木を手に入れたようである。「名取河の水底を浚(さぐら)せ」という蕪村の表現は、もちろん長老の言葉をそのまま伝えていると思われるが、川埋もれ木の採集方法を具体的に記していて、貴重である。何故かというと、私の体験からすると、ふつう埋木を探す場合は川原やその近くの草むらに転がっているもの、または川原に埋まっていて少し顔を出しているもの等を見つけ出す。或いは川面に姿が出ているものを探して引き揚げる。深い川底を川浚いしてまでしては行わない。それをやらせたのは、埋もれが見つからない状況が長期間続いていたからだろう。埋もれ木は見つかったとしても、最上のものでなければつまらない。献上しようとすれば良い埋もれ木でなければならない。大変な苦労が強いられた筈である。名取川の埋もれ木は伊達吉村時代から既に採り尽くされ、欠乏しつつあったのである。後の幕末から明治期にかけての時代には名取川の埋もれ木はほとんど採れなくなった。
 天麟院長老から蕪村がもらった埋もれ木は槻(つき、ケヤキ)のような鮮やかな木理(木目)をしていた。実際埋もれ木は葉も実もないので、樹種の鑑定は難しい。その埋もれ木は千年ほど水底にあったので色が黒いという。千年の根拠はどこから来るのかわからないが、私の体験からしても色がすこし黒ければ千年以上、おそらくは二千年程度とみて差し支えない。真金(鉄)を延べたように、叩くとカンカン音がしたというから、かなり硬く重厚な埋もれ木である。大きさは尺余(三十センチメートルほど)の板で、重さは十斤(六キログラム)ほどあったという。長老の住職は「おぼろげならぬもの(格別なもの)」と言って蕪村に渡した。「たびぬ」とは「給ぬ」で、くださったという意味である。「ひらつつみにして、肩にひしと負ひつ」とあるから、蕪村は埋もれ木を風呂敷に包んで肩に掛け背負ったようだ。仙台で一泊したあと、蕪村は名取川を渡った。背負っている埋もれ木が仙台の広瀬川産であるか名取川産であるかなどについて、蕪村は何も記さない。蕪村は岩沼を経て白石へ向かった。「長途の労れ、たゆへくもあらねハ」とは、長旅の疲れがひどく耐えることもできないので、という意味である。蕪村は埋もれ木の重さが肩に食い込み、辟易していたのである。蕪村は、白石宿(白石市)で旅籠に泊まった翌朝、仮住まいとしていた結城の砂岡雁宕宅まで持ち帰るのをあきらめ、埋もれ木を旅籠の「すのこ」の下に押し込めて、旅立ってしまった。「すのこ」は外縁であろう。
 蕪村が、結城の俳友砂岡雁宕家に帰ってから、那須から遊びに来ていた俳人仲間の常磐譚北にそのことを話すと、「そんなに由緒ある素晴らしい埋もれ木を捨ててくるなんて、このバカやろう」と罵られた。譚北は、それなら自分がもらうと言い、使いを呼び寄せ、須賀川の俳句仲間藤井晋流のもとへ走らせた。ここで晋流に一筆してもらい、白石宿の埋もれ木を取戻すことができたのであった。潭北は六十六歳、同門の長老格で毒舌家としても知られていた。白石~結城間は約七十里あり、往復の距離も時間も長大であるから、そのうえ「ことに日数もへたたりぬるに」とあり、蕪村が結城に戻ってからすぐの出来事ではなかったと見られる。数日どころか数十日後のことであったらしい。だからその埋もれ木が無事にその宿にあったのは「けう(希有)」のことであった。その後、その埋もれ木は「魚鶴」と名付けられた硯の蓋に作られ、雁宕家に伝わったという。これほどまでして取り返した名取川埋木は硯の蓋一個にしかならなかったのだろうか。おそらく他にも何か作られたとは思う。たとえば、埋もれ木を取り返した中心人物の譚北は自分が貰うと宣言しながら自分用に何も作らなかったとは考えにくい。
 この天麟院長老の話は、中国伝来の由緒ある釘隠しを大事に所持している人物を酷評した話、同じく歌の名所名物である「長柄橋の橋杭のかんな屑」と「井出の干しカワズ」を蔑んだ話、譚北が所持していた名物の茶碗を譲られた蕪村が簡単に他人にくれてしまった話の後に、記されている。名器古物の由緒や伝聞を信用しない俳人与謝蕪村の気質がよく示されている。
 それにしても蕪村が埋もれ木などの年代物に関心がなかったのは残念である。松尾芭蕉も埋もれ木には関心を示さなかった。芭蕉は「おくの細道」の旅で阿武隈川と名取川を何度か渡っているが、埋木の記述はない。曾良の随行日記の方には名取川の埋木について一行だけ記されてはいるだけである。かつて芭蕉は師の北村季吟から由緒ある鳥羽文台と俳句の秘伝書「俳諧埋木」を譲られ、大切にしていた。芭蕉が名取川の埋もれ木を句にしなかった理由の一つにこの秘伝書の存在が意識されていたからのようにも思える。
 ところで、蕪村が背負った名取川埋木は硯箱を作った余材だという。しかし、カンカンと音がなったという表現は正しいだろうか・・・。少し疑問に思う。叩いてカンカンと音がなるのは埋木化石であるからである。これは箱物の工作には適さない。ただし、盆や茶托の製作に適す、硬質の亜炭(仙台埋木)もそれに近い音がするかもしれない。    



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