梁川亀岡八幡宮と別当亀岡寺、龍宝寺

   伊達氏の守護神「亀岡八幡」

 伊達市梁川町八幡字堂庭地区の阿武隈川の畔近くにある。正式名称は八幡神社という。若宮八幡の古称もあったらしい。古い時代から梁川の八幡宮として信仰があった。鎌倉初期に伊達氏が伊達郡に入部して、伊達氏の氏神亀岡八幡宮を合祀してから、亀岡八幡宮と呼ばれるようになった。伊達氏の厚い保護を受け、伊達六十六郷の惣社として威容を誇った。鐘楼、観音堂、三重塔跡、園池などが長い参道の両側に残り、いまも往時の面影を残している。近年は、富野八幡の呼称もある。最近は梁川八幡の呼称をも用いるようになった。
梁川八幡宮 梁川八幡宮(亀岡八幡宮)

 「伊達正統世次考」によれば、伊達持宗は応永33年(1426)3月八幡宮を造営している。天文元年(1532)伊達稙宗が居城を梁川から桑折西山へ移したのに伴い、梁川の亀岡八幡を桑折の北方の地へ移したが、間もなく、子の晴宗が居城を米沢へ移してしまい、亀岡八幡宮は廃れてしまった。
梁川城 梁川城本丸跡、庭園

西山城 桑折西山城跡遠景

川内亀岡 西山八幡宮(桑折町南半田)

 その後元亀2年(1571)11月、伊達晴宗の子の輝宗が亀岡八幡を梁川に戻し再建している。弘治4年(1558)の「梁川八幡宮議定書」によれば、秋の例大祭の8月15日に六十六郷内の神主や禰宜などが参集して祭礼が行われ、流鏑馬の神事では山野川の八巻但馬、金原田の畑五郎左衛門等が射手を勤めていた。現在の八幡宮本殿は延享2年(1745)9月の建立。完成するまで6年余がかかった。今も礎石が残る三重塔は平泉藤原秀衡の建立の伝えがある。
三重塔跡礎石 梁川八幡宮 三重塔跡礎石

 代々の亀岡八幡宮神主は菅野氏で、伊達氏に従ってきたとされる。菅野氏は梁川天神社の神官も兼務していた。現梁川中学校の南側に神官菅野氏の古い墓地があり、この付近に菅野家の初期のころの屋敷があったと思われる。江戸期も引続き菅野神尾が梁川八幡の大宮司職を全うし、明治に至っている。ただし江戸中期に菅野氏は苗字が関根に替った。
龍宝寺 龍宝寺(旧梁川八幡宮別当 亀岡寺)

観音堂 鬼石観音堂(信達三十三観音第33番札所)

 梁川八幡宮の参道東側にある観音堂は、坂上田村麻呂の伝説があり、鬼石観音の別称もある。龍宝寺が管理している。中世には十二代伊達成宗が再建したという伝えがある。信達三十三観音巡礼の最終札所になっている。

 梁川八幡宮の別当(管理者)は江戸期には亀岡寺(真言宗)であった。神事は神官菅野氏と亀岡寺が共同で行った。神仏混淆の社であった。それ以前の室町期の別当は光明院であったと伝えられる。「小手濫觴記」などは光明院は亀岡寺の前身であると伝える。また「関根文書」によれば、天正期に龍宝寺が梁川から完全に去ったのち、八幡宮境内にあった塔守別当で掃除番のものが大和長谷寺豊山派小池坊の直末寺として「亀岡寺」を名乗り、八幡宮別当の地位に就いたという。そしてこの塔守別当は慶長期に宝仙院と称していたともみられる。

 仙台の龍宝寺旧蔵の弘法大師像胎内銘に「梁川菖蒲沢恵沢山龍宝寺奥院大師也、当山住侶長井庄歌丸に蘇生、本願主澄順、享徳四年(1455)」とあった。梁川の龍宝寺の大師像を移しているから、梁川の龍宝寺を本寺として龍宝寺が長井歌丸に開山されていたと見られる。歌丸の龍宝寺は後に成島八幡別当として移ったと思われる。天正末期に米沢の龍宝寺は仙台へ移った。同時に弘法大師像も米沢から仙台へ移された。最初の恵沢山龍宝寺が梁川城東の菖蒲沢にあったことも明らかである。この梁川龍宝寺は遺跡や資料が残されておらず、詳細は不明であるが、ここに小さな仏堂跡が残っている。
成島八幡 米沢市 成島八幡宮
米沢龍宝寺 米沢市 成島八幡宮近くにある龍宝寺歴代住職の墓

 実は仙台の龍宝寺は山号を恵沢山といい、梁川の龍宝寺と同じである。江戸時代には大崎八幡宮の別当寺で、寺格は仙台でもっとも高い。米沢成島の龍宝寺が仙台に移ったことも寺伝にある。
 文明10年(1478)龍宝寺は成島八幡宮の社務別当を務めており(棟札)、歌丸から成島に移ったと考えられる。しかし梁川の龍宝寺は引続き梁川に残っていた。天文2年(1533)10月30日の寒河江市慈恩寺実海印可状に「伊達郡龍宝寺霊場」とあり、僧実海が梁川の龍宝寺で印可を受けているのである。印可を授けるほどの格式のある寺だったのである。一方、「信達三十三番札所縁起」に拠れば、この梁川菖蒲沢の龍宝寺は当時、信達三十三番札所観音堂(鬼石観音)の管理や、梁川八幡宮の別当職に関っていた事実が濃厚に見られる。鬼石観音の古い由来書に、文明五年伊達成宗再建を伝え、その開眼供養を勤めたのは梁川の龍宝寺第二住範済であった。このとき高野山宝性院良雄が御使として往無坊を遣わしているから、龍宝寺は高野山宝性院の直末寺の可能性が高い 。光明院は梁川の龍宝寺の塔中の一つで、八幡宮の別当代の地位にあったのであろう。範済は龍宝寺の第二代であるから、龍宝寺も梁川に開山してまだ新しいと考えられる。ほかにかつて八幡村に夜叉院龍宝寺という真言の寺があったが、これも菖蒲沢の龍宝寺の塔中の一つであろう。

 天正12年(1584)伊達輝宗正月行事に「りゅうほう寺之しゅと」とある。これは米沢成島の龍宝寺の衆徒であろう。また弘治3年の「梁川八幡宮祭礼規式」に千手院が見える。天正14年政宗黒印状千手院宛に「衆徒中之頭と為す之事」とある。この千手院は梁川のではないのか・・・。余談だが、後年、仙台の亀岡八幡宮別当に千手院がなっている。
参道 梁川八幡宮 古色蒼然の神さびた参道
  名産の赤石の石畳が歴史を感じさせる。伊達政宗もこの参道を歩いたことであろう。

参道 梁川八幡宮 拝殿とその前の石橋 
 かつては、拝殿の中を通り抜けて本殿へ直接参拝できる、割り拝殿であった。

 天正10年4月1日、若き日の伊達政宗が梁川八幡宮に参拝している。この日は春の例大祭日だった。残念ながら、この日の祈願は巷に噂される初陣祈願ではなかった。政宗は前年の天正9年夏、伊具金山の合戦に父輝宗にしたがって相馬氏と戦った。これが政宗の初陣であった。しかし政宗は、梁川八幡社前で、戦勝祈願とともに伊達家のますますの隆盛を祈願したことであろう。また政宗は天正16年5月20日に良覚院栄真を使者として鎧具足や太刀を梁川八幡へ奉納させている。

鳥居額 梁川八幡宮 大鳥居に掲げれた社額
 享保年間の頃の書。当時江戸で最高位の書家、佐々木玄龍の書である。この額は風雨に晒されて傷んだため、安永2年(1773)に修繕された記録がある。当時の額は、漆黒色の地に金文字であつた。現在のものは配色が逆で、金色(木地色)地に漆黒色の文字になっている。松島の「観瀾亭」の扁額の書も玄龍の書である。

 亀岡寺は明治維新期の廃仏毀釈に合い、一旦廃寺となったが、明治9年新寺「龍宝寺」として復興した。旧縁の名刹の寺名をそのまま戴いたと伝えられる。現龍宝寺の山門と鐘楼は茅葺でたいへん趣がある。観音堂は「鬼石観音」ともいい、田村麻呂にちなむ伝説が残っている。信達三十三観音札所の第三十三番札所でもある。観音堂は文明3年(1471)伊達成宗が再建したが、文明5年4月大風で倒壊、文明5年11月に材木取り集め、再建したと伝える。現在の観音堂は享保3年(1713)の建立である。山門と鐘楼と観音堂の三建築は市指定文化財。八幡神社境域は県指定史跡名勝となっている。

 ところで、仙台の亀岡八幡は、慶長6年に梁川八幡の禰宜山田宮太夫が亀岡八幡のご神体を盗み出し、丸森の六角という所に一時お休みさせた。山田はここで伊達政宗の意向を伺ったところ、政宗は慶長7年仙台同心町に亀岡八幡の仮宮を建てることを許した。さらに天和3年に政宗は川内の現在地に亀岡八幡を移したという。山田はその神官となった。伊達氏とともに関東から伊達郡に下り梁川八幡(亀岡八幡)の宮司におさまっていた菅野神尾は伊達の梁川に残ったままだった。実は山田は伊達氏が伊達郡に来るまで梁川八幡の宮司であった人物であった。菅野が来たために降格されて長い間禰宜の職にあったのである。本来であれば、菅野こそが亀岡八幡のご神体を持ち出すべきであったのだが、歴史とは不思議なものである。

丸森亀岡 丸森 亀岡八幡跡

川内亀岡 仙台 亀岡八幡宮



 ◆参考:松浦丹次郎著「伊達氏誕生」(「梁川八幡宮と龍宝寺」を併収)  土龍舎刊 




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