伊達氏天文の乱 稙宗・晴宗の父子合戦 

       南東北を戦乱にまき込んだ伊達氏父子合戦・・・  

 8代伊達宗遠の長井庄侵攻

 伊達宗遠は天授6年(1380) 10月、置賜郡長井庄に進出、領主長井道広の軍を破り、家臣の石田左京亮に長井庄鴇谷郷を与えている。このとき「歌丸の戦い」で討ち死にした小松城主新田氏の墓が歌丸に残されている。続いて9代伊達政宗は嘉慶2年(1388)7月に国分彦四郎に長井萩生郷内を与えている。また永徳3年(1383)に伊達氏の菩提寺東昌寺が長井庄屋代庄夏刈へ移っている。同年伊達宗遠は長井の成島八幡宮を造営している。下って享徳4年(1455)10月、僧澄順が梁川の龍宝寺の仏像を下長井歌丸へ移して開眼蘇生している。澄順は寛正6年(1465)長井市宮の遍照寺も開山している。確実に伊達氏の置賜郡長井支配は進んでいった。

 歌丸   新田の墓 
         歌丸地域(長井市)            新田氏の墓(長井市歌丸、金鐘寺)

 「阿賀北(あがきた)」進出を狙う伊達氏

 室町幕府将軍足利義量と関東公方足利持氏の関係が悪化したころ、越後では室町幕府に味方する守護上杉氏と関東公方に味方する守護代長尾氏が対立していた。応永30年(1423)、越後守護上杉頼方に与する山浦の上杉頼藤と鳥坂城(新潟県胎内市中条町)の中条房資らは11代伊達持宗の援軍(伊達一族滑沢氏)を得て、越後守護代長尾邦景方に寝返った黒川城主黒川基実を襲った。基実は自刃。中条房資は何故か基実の幼子(後の氏実)を火中から救い出し、かくまったという。一般に阿賀野川以北の地域を「阿賀北」「揚北」と呼び、この地には新発田氏・加地氏・中条氏・黒川氏・色部氏・本庄氏ら有力国人衆がそろい、越後国守護上杉氏も手を焼いていた。このときの合戦で滑沢氏は黒川基実が借りていた乙宝寺(胎内市)の仏舎利を奪った。乙宝寺は奥山荘の海岸近くにある真言宗の古刹で大寺である。伊達家臣の滑沢氏は恩賞として荒河保(胎内市の荒川、関川あたり)を与えられ、そこに居を構えたというが、確証はない。荒河保は荒川下流域に広がる豊穣の地である。広さも伊達郡くらいはある。家臣一人に与えられる地としては大きすぎるだろう。後に、黒川一族と同族である中条氏は伊達家から仏舎利を二十余貫で買い戻し、乙宝寺に返却したという。(ずっと後の江戸時代に伊達箱崎の福巖寺住職天英が乙宝寺の住職に転任している。)

 荒川保 荒河保地域(胎内市荒川)

乙宝寺  三重塔 
           乙宝寺(胎内市)            三重塔(胎内市、乙宝寺)
 

 14代伊達稙宗の婚姻政策  《 太平洋から日本海まで広がる伊達領国の夢 》

 13代伊達尚宗の正室は越後国守護上杉定実の娘(妹という説もある)であった。伊達稙宗はその長子で、稙宗正室は葦名盛高(黒川城)の娘であった。また稙宗の妹は最上義定(山形城)の正室となっていた。稙宗は他に側室数人をもち、男女21人をもうけたという。まず長男晴宗に岩城重隆の娘を配し、女子は葦名盛氏・相馬顕胤・田村隆顕・懸田俊宗・相馬義胤などに嫁した。男子では義宣を大崎氏に、宗殖を村田氏に、綱宗と元宗を亘理氏に、晴胤を葛西氏に、清三郎を極楽院(伊達郡岡村)に、四郎を桑折氏に入嗣させたほか、宗清に梁川氏を開かせ、康甫大有には東昌寺を継がせた。こうして稙宗は伊達領国周辺のほとんどの大名・国人たちと縁戚関係を結んでしまった。これ以前にも尚宗の父成宗の正室は大崎教兼の娘であったし、成宗の弟郡宗は留守重家の養子となり、もう一人の弟盛宗は小梁川氏を開いていた。これらの縁組は、大名や国人の間の抗争への武力介入した結果成立したものが多く、武威を傘に着た強引な政略結婚であった。嫁や婿は人質同然であった。
 稙宗の野望の中には、越後国北部の揚北地方を征し日本海まで領したい気持があったかも知れない。この地域は越後国守護上杉氏の領域であるが、かなり独立性が高く、上杉氏も手を焼いていたほどである。下越の荒河保が既に伊達家臣滑沢氏の領地になっていたが、日本海に接する揚北一円が伊達氏領になれば、長井と伊達信夫を介して、既に伊達領国となっている伊具・名取の太平洋地域が連結される。これは平泉藤原氏が成し遂げたのみで、奥羽の諸大名は誰も成し遂げていなかった。奥羽だけではない。本州各地のどの大名も成し遂げ得なかった夢の領国なのである。後に強引なまでに子息時宗丸を上杉家へ入嗣させようとした稙宗の気持ちの中に、このことが読み取れるのである。揚北には北方の武藤氏、最上氏も触手を伸ばしていた。
 梁川城 梁川城本丸跡(伊達市梁川町)
        

 伊達稙宗の陸奥国守護補任

 永正14年(1517)3月、伊達氏14代伊達次郎に「稙」字と「左京大夫」任官の願が許可された。さらに大永2年(1522)暮、幕府は伊達稙宗を、鎌倉時代以来設置がなかった陸奥国守護とすることに決定、翌年早春に通知が梁川城の稙宗のもとに届けられた。当時は大崎氏が奥州探題職を世襲していた。探題職は軍事指揮権をもつ職で守護より実権があったという。しかし大崎氏はたびたび伊達氏を頼るなど実力は伊達氏が上位だった。幕府は大崎氏が足利一門であり、伝統のある一門であり、大崎氏を解任することはしなかった。

 西山城 西山八幡 
       桑折西山城跡(伊達郡桑折町)           西山八幡宮(伊達郡桑折町南半田)

このような中、伊達稙宗は天文元年(1532)、長年住み慣れた梁川城から奥州街道沿いの桑折西山城へ居城を移した。亀岡八幡宮も梁川から桑折の北方の南半田の地へ移した。9代伊達政宗以来、伊達領は確実に長井・北条地方へ拡大しつつあった。梁川城は阿武隈川が阻んで不便だったと思われる。桑折は奥州街道沿いであるばかりでなく、羽州へ出るのに便利がよい。桑折からは板谷峠経由で長井庄米沢へ、小坂峠・七ヶ宿経由で北条庄高畠へ行くことができる。天文2年「蔵方の掟」(質屋・金融に関する法律)を制定。天文4年「棟役日記」(家屋税の台帳)を作成。天文5年「塵芥集」(伊達領国における法律)を制定。天文7年「段銭帳」(田畑税の台帳)を作成。伊達稙宗は矢継ぎ早に新しい施策を実行していった。その背景には伊達氏の領国支配を整備強化する目的があった。
 

 伊達時宗丸を越後守護上杉定実の養嗣子に

 同じころ、伊達稙宗の子息時宗丸(晴宗弟)を越後守護上杉定実へ養嗣子に出す縁組が進められていた。時宗丸は上杉定実の曾孫に当たる。天文7年 (1538)10月には時宗丸迎えの費用が領内から調達されているから、越後国内では既成の事実であった。稙宗の側室の一人は越後国北部の揚北衆中条弾正左衛門藤資(鳥坂城)の娘であった。時宗丸はその息子であったから、この入婿の話が実現すれば揚北衆のバランスが崩れるのは必至だったため、揚北衆の色部氏や本庄氏らは強くこれに反対していた。
 既に伊達家からは御使として門目丹後守が、上杉家からは御使として平子豊後守が訪れ、上杉定実から「実」の字と竹に雀の家紋と名刀宇佐美長光が伊達家へ届けられていた。養嗣子縁組は上杉定実からの要請であり、伊達稙宗の希望でもあった。数年来の約束であったが、上杉家の領国内の混乱と、時宗丸(9歳)が幼かった理由で、正式の入嗣は延び延びになっていたのであった。
 天文11年とされる6月14日付けの岩城重隆家臣の神谷常陸介宛書状で、伊達稙宗は次のようにのべている (伊達家文書)。「上杉名跡、時宗丸に相続あるべき分に候、愚老に於いては遠慮の旨数か度、辞退に及び候と雖も、定実骨肉の間に、猶子に致されるべき方之なく候上、頻りに競り望み候て、先年、平子豊後守迎えとして越され候き、然りといえども彼国の乱劇、未だ落去せずに候故、遅延、去々年以来、両使節差し越し、国中一統の調法候うえ、違背の族も一両輩退治に及び、残徒色部一ヶ所迄に候条、近日彼の口に向かい出馬致すべく候、然れば御合力之義申し述べ候・・・・・」
 稙宗は近々色部氏の退治に出馬するので、岩城氏に合力をお願いしたい、といっている。稙宗が出馬しようとしているのは、色部氏討伐のことと時宗丸入嗣強行のためである。稙宗に留守景宗が同行することも決まっていた。
 

 伊達稙宗、桑折西山城に幽閉される

 「伊達正統世次考」に拠れば、痺れを切らした伊達稙宗は時宗丸を連れて越後の上杉定実のもとへ向かおうとし、その出発の日を6月23日と決めていた。このとき稙宗は時宗丸に精兵百騎を付けて送り出そうとしたという。精兵百騎を付け送れば伊達家は蝉の抜け殻同然となると、側臣の桑折氏と中野氏に諫言された伊達晴宗は、6月20日、父稙宗の鷹狩りの帰途を襲い、西山城の座敷牢に監禁した。これを聞きつけた稙宗近臣の小梁川宗朝日双は稙宗の娘の嫁ぎ先である相馬顕胤・懸田俊宗・田村清顕らに連絡、自らは変装して西山城に入り稙宗を救出したという。このとき稙宗55歳、晴宗24歳であった。
 しかしこの事件はこれで終わりにならなかった。晴宗は父稙宗の奪還を求めて兵を起こしたのである。稙宗方もこれに応じて転戦した。
 

 相馬顕胤が築いた首塚

 天文9年(1540)、小高城主相馬顕胤と掛田城主懸田俊宗連合軍は桑折西山城に幽閉された伊達稙宗を救出しようとしたとき、伊達郡高子の辺で伊達晴宗方の軍と戦いになった。この合戦を「高児原の合戦」という。稙宗は相馬顕胤により無事救出されたが、敵味方に多くの戦死者が出た。相馬顕胤は上保原の内山地区の高台に死骸を集め、敵味方なく葬った(首塚という)。顕胤は、勇敢に戦って死んだ武士たちの誉れを後世に伝えるために塚を築いたのであって、決して自身の美名を後世に残すためではなかった、と「奥相茶話記」にある。江戸時代には首塚が二つ残っていた記録があるが、現在は一基だけしかない。高さ2メートル、直径5メートルほどの塚である。昭和9年に日本赤十字社が首塚を調査に訪れている。相馬顕胤の行為に平等博愛の精神を見たからであった。
 

 首塚  懸田城 
首塚(伊達市保原町上保原)               掛田城跡(伊達市霊山町)
 

 伊達氏天文の乱

 合戦の端緒や経過については、伊達家の歴史をまとめた「伊達正統世次考」に詳述されているが、後世の編纂物であり、資料不足のために、誤った記述も見られる。というより、この合戦の経過は実はあまりはっきりしていない。相馬家の資料「奥相茶話記」では天文9年と天文10年に二度にわたり稙宗の幽閉事件があったとし、二度目の幽閉は年を越して天文11年に父子合戦が行われたとしている。稙宗を救出した人物も小梁川氏でなく、天文9年の救出者は相馬顕胤の家臣草野肥前、天文11年の救出者は相馬顕胤本人であった。「伊達正統世次考」では天文11年に伊達父子合戦が開始されたとしている。
 乱は晴宗の勝利に終わったが、乱後、伊達晴宗は自分と父稙宗が乱中に発給した多数の宛行状を整理し、新たに発給し直した。それをまとめたのが「伊達晴宗采地下賜録」である。その「奥書」に「天文十一年六月乱之後、各下し置き判形混乱して決せざるの条、乱中の判形を取り帰し、同二十二年正月十七日判形を改め、新たに編み下し置く也」とあるので、伊達氏天文の乱が天文11年6月に始まったことは否定できない事実である。ただ、乱のきっかけになった事件が、それ以前の天文9年や天文10年になかったとまでは言えないであろう。
 乱の原因は時宗丸の越後守護上杉定実への養嗣子問題のほかにもいくつか伝えられている。「奥相茶話記」では、伊達稙宗は、相馬顕胤の孝行忠義に応えるために、伊達郡のうち相馬近隣の郷村を分与しようとしたことに乱の原因があるとした。相馬家へ伊達領の一部を分与すれば相馬家は大身となり伊達家滅亡の基ともなるという老臣たちの意見にしたがって、晴宗は父稙宗を西山城の座敷牢に押し込めたという。また「掛田村明細帳」や「八巻氏梁川沿革」は次のように述べている。伊達稙宗は懸田俊宗に領地を分与する際、阿武隈川を境にしてその川東を与えたという。ところがその後大洪水があって阿武隈川の流路が西へ移り、川東の領地が増えた。懸田俊宗夫人(懸田御前)はこれを懸田領と認めるよう主張した。伊達晴宗は認めなかったので、両者は合戦となり、掛田氏は滅亡したという。
 しかし乱の最も大きな原因は、桑折西山城に移った伊達稙宗が次々と新施策を打ち出したことに対する晴宗とその近臣たちの反感と対立の構図にあったと見られている。

 乱の広がりと経過

 この戦いは、最初は様子見的な戦いが展開され、早期の和睦も予想された。しかし意外な長期戦となり、戦況は一進一退を繰り返した。伊達領国周辺の諸大名・国人領主たちおよび伊達一族たちは伊達稙宗の娘婿や稙宗息子の養嗣子たちが多く、最初は稙宗方に味方するものが多かったようである。合戦の舞台は伊達郡が中心であったが、巻き込まれた大名は、南は白河氏・二階堂氏・石川氏・岩城氏・佐竹氏、東は相馬氏・亘理氏、西は葦名氏・揚北衆、北は最上氏・留守氏・大崎氏・葛西氏、近場では掛田氏・田村氏・畠山氏・白石氏などである。現在のほぼ福島県・宮城県・山形県の三県域が「伊達氏天文の乱」に取り込まれたといえる。家中や一族内でも意見が割れ、複雑な動きが展開された。数年を経て、晴宗方の優位が確定的となったころ、晴宗方に就いていた岩城氏や葦名氏らの調停で、天文17年9月に和議がなった。その結果、稙宗は丸森城に引退、ここで永禄8年6月19日死去した。78歳であった。子の晴宗は米沢城へ居城を移した。西山城は廃城になった。この合戦は「伊達氏御洞の乱」とも「伊達氏天文の乱」と呼ばれている。このころ、大名家の父子合戦や不和は珍しいものではなかった。伊達家でも成宗・尚宗父子、晴宗・輝宗父子の間などにも見られた。

 丸森城  稙宗墓 
         丸森城跡(宮城県丸森町)       伊達稙宗墓(宮城県丸森町、丸森城跡)
 

 越後国守護上杉定実と養嗣子伊達時宗丸のその後

 越後国では伝統的に守護の上杉定実(府中の館)より守護代の長尾為景(春日山城)の方が実力が上であった。子の長尾晴景が守護代になってもそれは変わらなかった。やがて天文17年に病身の晴景が隠居し、弟の景虎が家督を継承して守護代になってからは、上杉定実の影響力はもはや地に落ちていた。天文19年に上杉定実が後継者のないまま死去、越後国守護職はその後置かれなかった。永禄4年閏3月、越後守護代長尾景虎は関東管領の上杉家の養嗣子となり上杉政虎と改名、関東管領職を襲った。越後守護代は空席とした。同年12月には将軍の一字を拝領して輝虎と名乗った。元亀元年には上杉謙信と名乗った。
 春日山城絵図 春日山城案内図

 春日山本丸  本丸からの眺め 
        春日山城本丸跡(新潟県上越市)            春日山城本丸からの眺望

結局、伊達時宗丸の上杉定実入嗣は実現しなかった。しかし破談になっても、竹に雀の家紋と名刀宇佐美長光は上杉家へ返却されず、伊達家は「実」の一字も貰い受けて、時宗丸は「伊達実元」と名乗ってしまった。このことは何を意味するのか。伊達家にとって、この縁組は正式には成立していたと見てよいのかも知れない。成立後に入嗣が実現されなかっただけなのである。伊達実元は大森城主として活躍、その子伊達成実は伊達政宗の右腕として活躍した。実元は天正12年(1584年)頃、八丁目城に隠居し、天正15年4月16日に61歳で亡くなった。大森城近在の陽林寺に墓地がある。伊達晴宗は実元から竹に雀の紋を譲ってもらい、伊達家の家紋に加えたという(「武辺咄聞書」)。晴宗は杉目城に隠居後、天正5年12月5日59歳で死去した。杉目城近くの宝積寺に墓地がある。

 大森城  晴宗  
       大森城跡(福島市)          伊達晴宗墓(福島市、宝積寺)

 稙宗  実宗
       伊達稙宗墓(福島市、陽林寺)     伊達実元墓(福島市、陽林寺)

 なお、伊達家の守護神である西山八幡宮(亀岡八幡)は天文の乱後に廃れ、伊達晴宗の子の輝宗が元亀2年(1571)11月、亀岡八幡を梁川に戻し、再建している。
 梁川八幡宮 梁川八幡宮(亀岡八幡宮)

 

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