伊達吉村は歴代仙台藩主のなかで最も多くの和歌をつくり、家集も多く残している。名取川埋もれ木の歌も十首近くある。
元禄16年(1703)8月仙台藩主となった伊達吉村は、文化的に、この時期「名取川埋木文台勧進之歌」という勧進歌を完成させているのが注目される。この勧進歌は、名取川埋木製の「文台」が完成したので、それを披露・勧進するためにつくられた歌集である。
名取川埋もれ木とは、名取川に沈む流木古材である。数百年数千年の埋没樹木で、黒色を帯びている。燃やすと赤茶色の灰になり、香炉灰として珍重され、また材は硯箱や文台などに利用され、これまた文人諸侯に珍重された。仙台藩の名産品で、幕府要人、大名、公家衆へ献上された。勅撰集にも名取川埋木を詠んだ歌が散見する。
名取川埋木文台勧進之歌(江戸後期の写)
名取川埋木文台勧進之歌
1●な 漸待花 近衛関白基熈
名取川いつあらわれて咲をみん はなや埋木春乃日かつは(原文、以下同じ)
(名取川いつ顕れて咲きを見む 花や埋木春の日数は)(解意文、以下同じ)
2●と 栽花 〔仙台左中将〕綱村
年をへて色香ふりせぬ種なれや この家さくらうへそふるより
(年を経て色香古りせぬ種なれや この家桜栽へ添ふるより)
3●り 尋花 〔仙台侍従〕吉村
りう水のたよりをとめて尋ミむ 奥ある山の花の盛を
(流水のたよりを求めて尋ねみん 奥ある山の花の盛りを)
4●か 花初開 武者小路三位実陰
かきりあれは下紐とりぬつれなさも 今日に見はつる花の心に
(花季にあれば下紐解かぬつれなさも 今日に見はつる花の心に)
5●ハ 見花 吉田侍従兼連
春の日をなかしとたにもをもはすに あかぬ色香の花に暮して
(春の日を長しとだにも思はづに 厭かぬ色香の花に暮らして)
6●は 独翫花 久我大納言通誠
はなさかり人はとはぬもうらみしな 我のミ見るもあかぬ色香に
(花盛り人は訪はぬも恨みしな 我のみ見るも厭かぬ色香に)
7●る 折花 「平松宰相時方」 ※「 」内、詠者脱落。大條伊達家本により補う
類もなき花ならはこそおる人に ゆるせなみ木の中の一枝
(類もなき花ならばこそ折る人に 許せ並木の中の一枝)
(31番まであるが、以下略)
※31番までの全文はこちらに掲載されています。 → 名取川埋木文台勧進之歌(1)
「 」内は脱落部分。大條伊達家本により補った。
〔 〕内は大條伊達家本にはない部分。
※印は筆者註。
( )内の和歌は解意文の一例。
この歌集の詠み人たちの、歌の初めの文字(●印)を順番につなげると、次の和歌となっている。
「なとりかわはるのひかすはあらはれてはなにそしすむせせのむもれき」
この和歌は藤原定家の歌「名取川春の日数は顕れて花にぞ沈む瀬瀬の埋もれ木」(続後撰集)である。つまり、完成した、あるいは完成しつつある、名取川埋木文台の前で、定家の有名なこの歌を本歌とし、三十一人で冠字和歌をつくったのであった。歌題はいずれも花に関するものである。
まず驚くのは歌集参加メンバーの豪華さである。仙台藩主伊達綱村・吉村父子、一関藩主田村宗永(伊達氏)、連歌師猪苗代兼寿の四名のほか、関白近衛基熈を筆頭とする主な公家たち二十七名が勧進歌をつくっている。公家たちは朝廷の有力メンバーでもある。伊達家は他の公家たちとも付合いがあった。例えば中院通躬・武者小路実陰らは伊達吉村の和歌添削の先生であった。さらに伊達政宗公百回忌追善供養に寄せられた公家衆の和歌短尺を見ると、伊達家と交流があった公家はもっと多い。
勧進歌への参加者は次のとおり。算用数字は勧進歌の順番。
1近衛関白基熈、2綱村(仙台藩四代)、3吉村(仙台藩五代)、4武者小路三位実陰、5吉田侍従兼連、6久我大納言通誠、7平松宰相時方、8山井修理権大夫景、9進藤修理亮長之、10石井侍従行康、11高野宰相保春、12穂波宰相経尚、13櫛笥宰相隆慶、14裏松中納言意光、15堀川三位康綱、16石井三位行豊、17冷泉三位為綱、18交野左兵衛権佐時香、19萩原三位員従、20近衛右大臣家熈、21岡崎右兵衛督国久、22竹屋三位光忠、23桜井刑部少兼供、24兼寿(仙台藩お抱え連歌師)、25白川神祇伯雅光、26日野西宰相国豊、27慈光寺中務権輔冬仲、28山本宰相実富、29宗永(仙台支藩一関藩主田村氏)、30難波中納言宗景、31鷹司右大臣兼熈。
歌題は順番に「漸待花・栽花・尋花・花初開・見花・独翫花・折花・交花・暁花・花映日・夕花・夜花・山花・嶺花・谷花・岡花・林間花・野花・関花・河辺花・浦花・里花・庭上花・花枝・花本・花雲・花雪・花衣・花鏡・寄花夢・寄花祝」であった。勧進歌は、歌題に使用される文字を必ず歌の中に使用する決まりであった。ないしは歌題のもつ歌意が詠みこまれるのが常である。この勧進歌もそれに則っている。なお、31首のうち「埋もれ木」を詠っているのは4首のみである。ただし、名取川の埋もれ木を詠っているのは1首のみである。
文台の完成披露にあわせて、伊達家は公家たちと一緒に桜の花を題にして和歌をつくり、名取川埋木文台の完成を祝った。そして素晴らしい一つの歌集に編んで残したのである。
この勧進歌には式目や年紀が一切ない。この歌集は歌仙形式でなく、勧進歌や続歌(つぎうた)と呼ばれる形式である。題の設定や歌の順序は猪苗代兼寿が主導したと見られる。この歌集の第一番目が近衛基熈の歌、二番目が伊達綱村、三番目が伊達吉村であったから、主賓は明らかに近衛基熈で、この名取川埋木文台は伊達家から関白近衛基熈に贈られたのかもしれない。近衛基熈の関白就任を祝っての計画だったかもしれない。近衛基熈の関白在位は元禄3年(1690)~同16年であった。この間鷹司兼熈は左大臣であり、近衛基熈の息子近衛家熈が右大臣であった。鷹司兼熈は基熈のあと元禄十六年から関白職に就いている。
この勧進歌はおそらく仙台藩のお抱え連歌師猪苗代兼寿がまとめ役(コーディネーター)を担ったと思われる。猪苗代兼寿は関白近衛基熈から「古今伝授」を受けており、十分な実力とサロンをもっていた。ところが兼寿は元禄7年(1694)5月に死去してしまい、弟子の猪苗代兼郁が引き継いでこの事業を完成させたと考えられる。兼寿の歌は元禄七年以前に作られたと見なければならない。
伊達吉村は久我大納言通誠の娘を正室としている。婚礼は元禄15年(1702)であった。伊達綱村の父綱宗と一関藩主田村宗永の父宗良は実兄弟であるが、吉村が伊達綱村の養子になる直前に、吉村を宗永の養子とする縁組がなされていた関係にあった。田村宗永は三万石の小藩主ながら、吉村にとって伊達綱村に次ぐ存在であった。ただそれだけの理由で勧進歌の泳者に選ばれたのではない。田村宗永は文学に明るいうえに幕府奏者番をつとめる信頼の人であった。
なお、この埋木文台勧進の歌は最終的には藩主伊達吉村時代の元禄17年前後に完成したと推定される(松浦丹次郎著「埋もれ木に花が咲く」)。
名取川埋木文台(復元 名取川から出土した埋木のクリ材を使用。およそ2000年以上前のもの)
参照 → 名取川埋もれ木と仙台埋木細工
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