ふくしま 伊達の 桃の歴史

 昔話「桃太郎」は全国的に有名ですが、伊達地方では江戸時代から話されていました。さらに驚くことに、その「桃太郎話」が記録され出版されていました。寛政4年(1792)のことでした。また伊達地方には、桃の栽培と販売も幕末に記録されていました。どちらも日本で一番古い記録です。このことは、桃の生産量日本一よりも、すごいことなのです。素晴らしいことなんです。もっともっと知られてほしいことなんです。しかし、知る人はほとんどいません。残念です・・・。

 今から200年以上も前に、保原の高子の熊阪覇陵さんが「伊達の桃太郎」の昔話を書き残してくれていたのです!

   伊達の桃太郎は刀をささない(武器を持たない)。キジ・サル・イヌと、鬼が島へ鬼退治に行く。
        供のものたちへ、キビ団子を五個も六個もあげる気前良さ。他所の桃太郎とはちょっと違う。旅立つ浜は相馬の釣師浜か・・・。

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  熊阪さんが書き残した桃太郎の原本                「桃奴」と呼ばれた桃太郎
   ※この原文は「えほん 伊達の桃太郎」に全文が収録されています。

 「桃奴」とは桃太郎のこと
 桃は古い時代に中国大陸からやってきたことは間違いないでしょう。たぶんその伝播は一度や二度ではないと思われます。奈良市の纒向遺跡の弥生時代末期の遺構から2700個以上の桃の種が出土しています。この遺跡は女王卑弥呼に関連する祭祀遺跡とも見られ、桃は神々へのお供えとされたと考えられています。中国では早くから道教の神々へ備える果物として桃が選ばれています。桃を仙果ともいうのは仙人たちが好む果物だったのでしょう。また桃の枝は邪気祓いや悪鬼除けの効力があったようです。日本では「古事記」にも登場しています。

 江戸時代の寛政4年(1792)上保原高子地区の儒者熊阪台州さんが伊達地方で話されていた「桃太郎」の昔話を「紀桃奴事」という題で書きとめてくれていました (『含?紀事』所収) 。桃太郎のことを「桃奴」と表記しています。台州さんが子供のころおばあさんから聞いた話ですから、伊達地方で「桃太郎」の昔話が江戸時代の中期以前から語られていたことは間違いありません。ひょっとしたら江戸時代よりもっと遡るかもしれません。

 《伊達の桃は若返りの桃、美味しい桃》
 昔話の中でお爺さんとお婆さんは小川に流れてきた桃を食べて急に若返ります。桃は食べておいしい果実だったようです。また桃太郎話が語られる背景として、桃が庶民に愛される果物として認知されている必要があります。柿や梨と同じように桃が身近な果物でないと、桃太郎話は成立しません。事実、伊達地方の江戸時代中期〜後期の「農日記」「商日記」には毎年のように春の花として桜や桃などの開花状況が記されています。当時の桃は花を観賞するのが中心のようにも思われますが、桃は伊達地方で食べられていたのです。桃は稀にすばらしく甘い実を生らせることもあり、食用としての桃は改良が進んでいったと見られます(伊達町史資料叢書)。

 福島保原の桃は、江戸時代の後期から生産・販売されていた

 小幡の斎藤家大福帳によりますと、江戸後期には伊達地方で桃の実の売買がされていました。値段は1個銭2〜3文でした。これは柿の実の値段とほぼ同じでしたから、桃は現在ほど高価な果物ではなかったことが分かります。幕末ころの日本の桃は、柿の実程度かそれ以下の小さい実だったと見られます。中国では現代においても、小さな桃の実が売買されています。
 桃   桃   桃
                                             桃の実  伊達地方の主力桃「あかつき」  
 明治3年の桃の価格は、銭100文につき大は二つ、中は三つ、小は四つ〜五つ六つという記録があります。平均すると1個で30文くらいでしょうか。この年は物価高の年でしたから、平年は1個で銭2文から5文程度と見られます(信達後要記)。 また新貨幣制になって間もなくの、明治9年の梁川村の桃の値段は9貫目で1円62銭くらいでした。これは柿よりずっと高いですが、梨よりはやや高く、林檎よりは安いくらいの値段です(梁川町史)。明治中期以降、箱崎・伏黒・上保原・大田・柱沢地域で本格的な桃の栽培が始まったようです。これらの地では明治30年ころから桃を植え始めた資料や取材記録が見られます。柱沢村では明治43年に桃265本、明治44年に桃355本が記録されています。梨の木も同じくらいの本数です(保原町史)。毎日新聞福島支局発行の「明治百年」でも明治中期説を採用しています。明治後期になると、専用の桃畑が作られ、甘くて美味しい桃へと品種改良が積極的に進められ、商品価値も高められました。

 昭和14年、福島保原の桃が皇室へ献上された

 「伊達町史」によりますと、箱崎では大正八年ころに箱崎果樹出荷組合と箱崎果樹栽培組合が組織されました。伏黒村の桃木数は大正3年19200本、大正6年18000本あったそうです。信じられないくらいの、驚くべき本数です。大正10年には箱崎の聖天森と大平山を開墾して果樹園にする願が出されています。この面積は1町6反にも及ぶ大規模な開発でした。多分、果樹は桃か林檎と思われます。「保原町史」によると、この時期上保原地区でも桃の木の植付が盛んでした。桃の品種は天津・花魁・日の丸・日月・田中などがあり、天津が中心でした。昭和2年に上保原村果樹栽培組合が設立、昭和5年には上保原村果樹出荷組合と改称されました。昭和14年には上保原の青木農園が皇室へ桃を献上しています(高子中年同志団七十五年のあゆみ)。昭和28年の「福島県の文化事典」によると、上保原では「桃の里 上保原村」が定着し、町村としては当時全国一位の桃の生産量を誇ったそうです。
 昭和も戦後になると伊達郡の基幹産業であった養蚕業が暫時衰退し、果樹や蔬菜の生産が急増しました。平地や丘陵に広がっていた桑畑がいっせいに桃園に変わりました。特に山を開墾してつくった場合は「桃団地」などと呼ばれたりしました。次第に伊達郡内の平地でも桃栽培が導入されていきました。昭和30年代の粟野地区では、桑畑を潰して桃の苗木を植えていた姿がよく見かけられました。その決断に迷う人たちもいて、時流に乗り遅れた人たちもいました。確かに、養蚕は価格は安いけれども、すぐに現金収入があったので、なかなか魅力的であったのです。
 桃の品種は大久保や白鳳が多かったと思います。ぶどう・プラムなど他の果物の栽培も増えました。現在、桃はあんぽ柿、林檎、梨などとともに福島県を代表する果物になっています。現在人気の桃は早生の「日川白鳳」、中生の「あかつき」、晩生の「川中島白桃」・「黄金桃」、晩晩生の「ゆうぞら」などです。
 現在、JA伊達みらい桑折総合支所(桑折町)が皇室へ桃の献上を続けていますが、その献上桃の始まりは平成6年からですから、青木農園が伊達の桃を献上してから56年後のことになります。

  ◎参考 幕田一「伊達の桃〜その歴史と桃太郎ばなし〜」(「川原町のあゆみ」所収)

 えほん昔話「伊達の桃太郎」(まくたろう)

 お問い合わせ先      伊達の香りを楽しむ会

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