伊達氏天文の乱の端緒や経過については、伊達家の歴史をまとめた「伊達正統世次考」に詳述されているが、後世の編纂物であり、資料不足のために、誤った記述も見られる。というより、この合戦の経過は実はあまりはっきりしていない。相馬家の資料「奥相茶話記」では天文9年(1540)と天文10年に二度にわたり伊達氏15代晴宗が父稙宗を桑折西山城の座敷牢に幽閉した事件があったとし、二度目の幽閉は年を越して天文11年に父子合戦が行われたとしている。稙宗を救出した人物も小梁川氏でなく、天文9年の救出者は相馬顕胤の家臣草野肥前、天文11年の救出者は相馬顕胤本人であった。「伊達正統世次考」では天文11年に伊達稙宗・晴宗の父子合戦が開始されたとしている。
乱は息子晴宗の勝利に終わったが、乱後、伊達晴宗は自分と父稙宗が乱中に発給した多数の宛行状を整理し、新たに発給し直した。それをまとめたのが「伊達晴宗采地下賜録」である。その「奥書」に「天文十一年六月乱之後、各下し置き判形混乱して決せざるの条、乱中の判形を取り帰し、同二十二年正月十七日判形を改め、新たに編み下し置く也」とあるので、伊達氏天文の乱が天文11年6月に始まったことは否定できない事実である。ただ、乱のきっかけになった事件が、それ以前の天文9年や天文10年になかったとまでは言えないであろう。
乱の原因は時宗丸の越後守護上杉定実への養嗣子問題のほかにもいくつか伝えられている。「奥相茶話記」では、伊達稙宗は、相馬顕胤の孝行忠義に応えるために、伊達郡のうち相馬近隣の郷村を分与しようとしたことに乱の原因があるとした。相馬家へ伊達領の一部を分与すれば相馬家は大身となり伊達家滅亡の基ともなるという老臣たちの意見にしたがって、晴宗は父稙宗を西山城の座敷牢に押し込めたという。また「掛田村明細帳」や「八巻氏梁川沿革」は次のように述べている。伊達稙宗は懸田俊宗に領地を分与する際、阿武隈川を境にしてその川東を与えたという。ところがその後大洪水があって阿武隈川の流路が西へ移り、川東の領地が増えた。懸田俊宗夫人(懸田御前)はこれを懸田領と認めるよう主張した。伊達晴宗は認めなかったので、両者は合戦となり、掛田氏は滅亡したという。
しかし乱の最も大きな原因は、桑折西山城に移った伊達稙宗が次々と新施策を打ち出したことに対する晴宗とその近臣たちの反感と対立の構図にあったと見られている。
天文9年(1540)、小高城主相馬顕胤と掛田城主懸田俊宗連合軍は桑折西山城に幽閉された伊達稙宗を救出しようとしたとき、伊達郡高子の辺で伊達晴宗方の軍と戦いになった。この合戦を「高児原の合戦」という。稙宗は相馬顕胤により無事救出されたが、敵味方に多くの戦死者が出た。相馬顕胤は上保原の内山地区の高台に死骸を集め、敵味方なく葬った(これを首塚という)。
首塚(伊達市保原町上保原)
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