松平氏桑折藩と五十沢陣屋、半田銀山

        日本三大銀山の一つ、半田銀山

 松平忠弘は山形藩十五万石、宇都宮藩十五万石を経て、天和元年(1681)白河藩十五万石の藩主として迎えられました。徳川家康は江戸城入城後まもなく関八州の要所に重臣たちを配しましたが、その一環として、奥平美作守信昌を上州甘楽郡小幡藩主に任じ、三万石を与えました。その子奥平(松平)家治には近隣の上州多胡郡長根に七千石を与えたといいます。信昌の曽祖父は織田信長です。家治の死後その弟の忠明が長根七千石を継ぎました。忠明はその後三河作手一万七千石、伊勢亀山五万石、大坂十万石、大和郡山十二万石、姫路十八万石と、きわめて順調に封を伸ばしました。そして正保元年に隠退、嫡子忠弘に十五万石、次子清道に三万石を分与しました。松平忠弘が山形藩へ転封となったのは慶安元年でした。

  奥平(松平)忠明-------------------- 忠弘-------------- 清照-------------忠雅
      姫路十八万石         白河十五万石             白河十五万石

              夫人は忠弘女子
  松平忠弘------------養子乗守(忠尚)①-----------養子留之助(忠暁)②-----------------忠恒③

 松平忠尚、白河新田藩二万石から桑折藩二万石へ
        さらに、篠塚藩・上里見藩を経て、小幡藩へ

 白河藩主松平忠弘の子供たちは早世や病弱が多く、白河着任後すぐの天和元年に唐津七万石松平乗久の嫡子乗守を養子に迎え、娘を配しました。乗守は名を忠尚と改めました。松平忠尚は順調にいけば白河藩十五万石の次の藩主になれる筈でした。そのために唐津七万石の地位を弟の乗春に譲って出てきたのです・・・。しかし不幸にして天和三年(1683)忠弘の病弱の子清照に男子(忠雅)が生まれてしまいました。そして元禄元年(1688)10月15日に忠雅が忠弘の嫡子になる手続きが完了してしまったのです。同10月21日、忠尚に白河藩領内の新懇の田地二万石が分与されました。実はこのとき38歳の忠尚は子供たちが皆早世で跡継ぎがいなかったのが大きく災いしたと考えられます。さらには、忠尚は家老たちと不和であったといいます。「土芥寇讐記」はその理由を「賢過テ」としていますが、詳細は不明です。忠雅だってこの先丈夫であるという保障はありません。また忠尚には今後丈夫な男子が誕生するかもしれません。三十歳を過ぎた忠尚がなかなか嫡子と認められず、六歳の忠雅が嫡子に決定された背景には相当複雑なものがあったと思われます。 さて新懇の田地二万石が分与されてもなお、忠尚と家老たちの間は不仲であったに違いありません。一つ城の中にいて、それはますます激しくなったかもしれません。ついにはそれが将軍の耳に達しました。元禄5年7月、藩主松平忠弘と忠尚に閉門が命じられました。家老たちは遠流となりました。あわせて城地没収・五万石の減封が決定。8月16日には山形十万石への転封が決定されました。忠弘にとっては二度目の山形移封でした。同時に忠弘と忠尚は閉門を赦され、代わりに逼塞が命じられました。12月には逼塞が赦され自由の身となりました。この日、忠弘は忠雅に封を譲っています。
 幕府が忠弘を十五万石から十万石に減封したということは、忠尚に与えられていた新懇の田地二万石は「込め高」で、公称高である白河藩十五万石の内に含まれていることが判明します。すなわち白河藩の実高は十七万石以上あったことになります。このような場合、忠尚の藩名は「白河新田藩」ということになります。独立の藩庁も陣屋もない、本藩にすべておんぶです。忠尚は山形転封にも忠弘に従って行ったのは言うまでもありません。ただし忠尚には減封の措置はなかったとみられます。そうでなければ、元禄13年1月11日、松平忠雅が十万石のまま山形から備後福山に転封された同じ日に松平忠尚が伊達郡桑折藩二万石に転封(実際は新知二万石)されている事実を理解できるでしょうか。
 松平忠尚は元禄13年2月28日、将軍綱吉から新領知(桑折藩)の御朱印を賜っています。それらの村々は次の二十村です。

桑折村・北半田村・南半田村・谷地村-------------------------------------------------現桑折町
藤田村・小阪村・貝田村・内谷村・泉田村・山崎村・鳥取村・石母田村 ・森山村・塚野目村・光明寺村・西大枝村・東大窪村・西大窪村-------------現国見町
東大枝村・五十沢村---------------------------------------------------------------------現伊達市梁川町
   

系図 
         松平氏系図    


 藩主松平宮内少輔忠尚の子息たちは皆早世しています。桑折へ移って半年後の9月、忠尚は生家から実弟乗利(忠泰)を養子に迎えました。生家の当主は弟乗春の嫡子乗邑で、鳥羽藩六万石を領していました。鳥羽藩では正徳2年8月3日お家騒動があって、藩主乗邑は逼塞を命じられました。この事件にどのように関与したか不明ですが、同年月日、桑折藩主松平忠尚も逼塞、忠泰は拝謁停止の処分を受けました。同年9月8日忠泰は赦されましたが、9月26日死去しています。29歳でした。10月7日には乗邑が赦され、10月17日には忠尚も赦されました。
 養子忠泰の死去により、忠尚は正徳2年12月再び生家から養子を迎えました。乗春の五男留之助です。名を忠暁と改めました。忠暁は享保4年11月桑折藩主となり、享保17年には寺社奉行になっています。元文元年死去。父の忠尚は享保11年に死去。
 桑折藩第三代の藩主は忠恒です。忠恒は忠暁の実子で、享保5年の生まれです。元文元年父の遺領を継ぎました。宮内少輔のあと摂津守に任じられています。

 変遷図   分村 分村
        松平氏支配の変遷理解図         東大枝陣屋所属村々      五十沢陣屋所属村々
         (※松浦丹次郎「桑折藩と五十沢陣屋」より 昭和56年3月)

 女郎橋
  この橋はなぜか女郎橋と呼ばれている。羽州街道を跨いだ橋は半田銀山から出たズリを運ぶトロッコが走った。橋の向こうに見える山が半田山である。ときどき山の斜面が崩れ、禿げている。「はげっぺ半田山、登ればつーるつる・・・」と歌われる。

  半田銀山の佐渡奉行支配と桑折藩主松平氏の上州移封

 半田銀山は最盛期には日本三大銀山の一つといわれました。半田銀山の開発は、江戸初期に入部した上杉氏が開発したと伝えられています。上杉氏は越後で佐渡金山を経営しており、高い鉱山技術をもっていたと考えられます。
 延享2年、幕府は生野銀山の山師と買石を半田銀山に派遣しました。彼らがどのような報告を幕府にしたか不明ですが、半田銀山を有望と見たことは間違いありません。
 半田銀山の価値が高まると、幕府は延享4年(1747)に半田銀山を含む桑折村など12村(1万2250石)だけを桑折藩から収公し、幕府直轄の佐渡奉行支配としました。言うまでもなく佐渡は日本最大の金山を稼業しており、その腕を見込んでの支配替えでした。既に石見銀山と生野金山は江戸初期から幕府直轄として稼業しており、半田銀山も私藩の所有にしておくことは最早許されない時代だったのです。

 東大枝陣屋と五十沢陣屋  松平氏は上州篠塚へ所替え

  桑折藩主松平忠恒は上州篠塚藩(群馬県)へ所替えとなりましたが、東大枝村・東大窪村(514石)など8村(7750石)は引き続き飛領として東大枝村に陣屋を置いて支配しました。その村々は別表のとおりです。
 ところが翌寛延元年(1748)には、篠塚藩松平氏はさらに上州上里見藩へ所替えになり、飛領として伊達郡内の8村のうち五十沢村・光明寺村・森山村・西大窪村・東大窪村(270石)など5村は引き続き松平氏が支配し、五十沢村に陣屋を置きました。東大枝村・西大枝村・塚野目村・東大窪村(236石)など4村は佐渡奉行支配の半田銀山付に加わりました。すなわちこのときも東大窪村(514石)は分村の憂き目に遭い、村がさらに二分されてしまったのでした。このほかに幕料岡陣屋支配の東大窪村(249石)があり、村は三分されたことになります。
 一方、半田銀山と桑折村など16村は寛延二年(1749)に佐渡奉行支配を離れました。半田銀山の経営を遠隔地の佐渡から役人を派遣して行うより、近くの幕料代官所が直営で行う方が何かと便利が良いと判断されたと考えられます。このとき幕府は岡代官所を廃して幕料桑折陣屋を復活設置しました。当然、東大窪村(236石)を含む桑折村など16村は桑折陣屋付になりました。しかしそれだけでなく、旧岡陣屋付の東大窪村(249石)など32村もすべて桑折陣屋付とし、幕料大森陣屋付の丸子村など9村も桑折陣屋付としました。桑折代官には岡代官所に着任したばかりの神山三郎左衛門が赴任しました。さらには、宇都宮藩戸田氏の分領であった下村など12村が寛延2年7月に藩主が所替えとなり、新藩主松平忠祇がやって来るまでの間、神山代官が12村を一時預かりました。つまり桑折陣屋付の村数は69村になったのです。村高でいうと約七万石になります。ただし東大窪村は旧岡陣屋付の東大窪村(249石 古料東大窪村と呼ばれました)と旧佐渡奉行支配の東大窪村(236石 新料東大窪村と呼ばれました)が同じ幕料桑折陣屋付となり、これを一村とみなすと68村となります。

  本家織田氏と入替わりに小幡藩主に

 実際、寛延二年(1749)に桑折代官所に所属した二つの東大窪村はこのときとばかりに神山代官へ合併願いを提出しました。神山代官は最初合併を容認したようですが、正式に許可する前に罷免されてしまいました。東大窪邑は寛延4年にも次の岡田代官へ合併願いを出しましたが、合併が認められることはありませんでした。
 明和4年、上州小幡藩主織田氏は天童へ移封となり、替わって、上州上里見藩松平氏が再村替えとなり古巣の小幡へ移封されました。小幡は主家織田家が長く支配した故地で、松平氏は本家筋の後釜に入った感じです。五十沢村や東大窪村(270石)など5村は幕府に収公(上知)され、幕料桑折陣屋に属しました。この東大窪村(270石)は古料東大窪村・新料東大窪村と区別して上知東大窪村とよばれました。三村とも一時桑折陣屋に属したこともありましたが、合併が認められることはありませんでした。その後寛政11年に古料東大窪村と上知東大窪村が木下氏足守藩分領の瀬上陣屋に属したこともあり、維新まで三村の合併はありませんでした。

  三分割された伊達郡東大窪村

 東大窪村249石  岡陣屋   桑折陣屋    足守藩   桑折陣屋              → (古料東大窪村)
 東大窪村514石 桑折藩 篠塚藩 ( 270石) 上里見藩 桑折陣屋 足守藩 桑折陣屋        → (上知東大窪村)
            東大窪村(236石) 佐渡奉行  桑折陣屋                 → (新料東大窪村)

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