伊達地方の養蚕製糸業史概観 

(1)養蚕のはじまり 〜小手姫伝説〜

 伊達地方の歴史を記した「小手濫觴記」や「伊達濫觴記」によりますと、伊達郡の養蚕業は奈良平安時代から始まったと伝えられています。郡内には機織りを広めたとされる「小手姫伝説」が根強く残っています。当地や信夫地方で生産された「信夫文字摺絹」が都では評判でした。室町時代にも伊達氏が都の公家たちに献上した記録が見られます。江戸時代中期には6月14日の岡・長倉の天王祭に開かれる天王市は全国から商人が糸買いに集まり市周辺の通りを埋め尽くしたといいます。その後、蚕種製造部門が大きく発展し、安永2年(1773)〜安永3年に、幕府から「蚕種本場」の称号が伊達郡地域の阿武隈川流域の村々に独占して与えられて以来、明治大正期まで全国の養蚕業をリードしてきたことは周知のとおりです。養蚕文化も大きく華開き、蚕種の研究や養蚕製糸業の世界で傑出した人物がたくさん輩出しました。このころ儒学・漢学・文学・攘夷思想など養蚕以外の分野でも優れた人物が現れました。
 近代以降、伊達地方は蚕種・養蚕・製糸・真綿・機織物など養蚕業全般にわたり地域的な特色をもちながら発展してきました。その後伊達の養蚕業は日本の経済変動とともに浮沈を繰り返しながら、戦後は昭和40年代以降急速に衰退しました。現在、伊達市内の養蚕農家数は10軒以下の状況になっています。
 

(2)蚕の成長サイクル

 一般の養蚕農家はまず蚕種製造家や蚕種組合から蚕の卵を買うことから始めました。厚紙に産み付けられた蚕の卵を「蚕種紙」と呼んでいました。「蚕種紙」は「たねがみ」と呼んでいました。「蚕種」と書いて「こだね」とか「たね」と呼ぶのが伊達地方の慣わしでした。そもそも、「かいこ」の名の由来は「飼い蚕」であったと考えられ、「飼蚕」と書いて「こがい」とも「かいこ」ともと呼んでいました。「蚕」を「こ」と呼ぶ古い慣習があったようです。「蚕種」を「さんしゅ」と呼んだのは近代に入ってからのようです。「さんたね」と呼ぶ人もいますが、これは、「蚕糸(さんし)」との混同を避けるために近年発案されたそうです。
 近代以降は「産卵台紙」「産卵紙」の呼称も普及しました。
戦後の昭和30年代、養蚕農家の人たちは稚蚕飼育場などから「毛蚕(おさな蚕)」を購入するようになりました。
 最初の孵化直前の青んだ蚕の卵を蚕種紙から蚕撫紙に羽箒で掃き下ろすことを「掃き立て」といいます。「掃き立て」の時期は気候をよく見極め早生桑の新芽が出るころに合せて行います。孵化したばかりの黒い幼虫を毛蚕といいました。蚕撫紙の大きさは方2尺8寸と記された資料もあります。
 「掃き立て」の作業の前に、まず蚕種紙を三四日間寒水に浸します。資料によっては1日に二三回水を取り替えるとの記述も見られます。寒水浸しの前後もいろいろな準備作業がありますが、各蚕種製造家はその技法は秘伝としてあまり公表していないようです。この寒水浸しの作業は全国的には行わない地域もあり、特にこの作業工程を省いても大きな影響はなかったようですが、伊達地方の蚕種製造家では長く行われてきました。
 蚕は成長するにしたがって繭を造るまで4回脱皮します。これを江戸期には獅子蚕・鷹(竹)蚕・舟蚕・庭蚕と呼んでいました。現在では一齢・二齢・三齢・四齢と呼んでいます。繭を造れる状態の熟蚕は「ひき蚕」といいました。「ひき蚕」を拾って藁マブシに宿わせることを上簇といいます。熟蚕は間もなく繭を造り始めます。「掃き立て」から繭が完成するまで江戸時代は約27日〜37日程度かかったそうです。

 蚕は成長が早く、たちまちワラダの中が一杯になります。昔は、獅子蚕のころまでワラダ数を増やすとき、給桑の前に乾いた糠をふることが多かったそうです。
 

(3)養蚕家屋

 伊達地方に残っている古い養蚕家屋は一階の天井が低いのが特徴です。これは養蚕をしていたためです。蚕を飼う場所は普通一階の座敷等で、畳を外して使用します。蚕が成長し三齢期や四齢期になると、他の部屋へ広げていきます。熟蚕期では、順次二階に設置したマブシ棚へ移します。二階の床(一階の天井)は中央部が大抵畳2枚くらい外されるようになっており、そこから熟蚕を上げます。この上げ下ろし用の笊や紐などが残されています。二階や屋根裏部屋(三階)が一杯になり、一階の養蚕部屋が空いてくると、こちらも上簇部屋に一変します。二階がない部屋も急遽、一階の梁に板張りをした俄か二階(中二階)が造られます。明かり窓も屋根裏に造られ、伊達地方では「両あづま」、「片あづま」と呼ばれる大型の養蚕兼用住宅が発展しました。
 このように養蚕室を兼用した住宅が発達しましたが、江戸後期には、養蚕専用の家屋も出現していました。当時の質地証文・借用証文などの質として、専用の蚕屋(2間*4間など)や専用の桑畑の記載が見られます。明治期には土蔵造りの大型の養蚕専用家屋が建てられたりしました。この大型の養蚕専用家屋は一般の養蚕農家ではなく、蚕種製造を専門にする農家に特徴的に見られました。
 

(4) 蚕物屋

 保原は糸・真綿の集散地として江戸期から昭和期までその仲買問屋が活躍しました。彼らは一般に「蚕物屋」と呼ばれました。蚕物屋はランク付けがあり、服装で分かったといいます。下等とは屑糸や屑繭を買い集めて紡績工場へ売る人たちで、中クラスは上質の繭や生糸や真綿を扱う人たちです。彼らはいつも渋紙と棹秤と算盤を携帯していました。三種の神器です。昔は、蚕物屋は、繭は賃挽きの糸取りへ出すか、繭を煮て賃真綿かけへ出しました。あるいはより上級の蚕物屋へ売りました。上級とは繭や生糸を大量に扱う連中です。近代以降は、繭は製糸工場へ、生糸は織物工場へ売りました。生糸は器械製糸工場が増えてからは扱われなくなりました。養蚕農家も近代以降は自家での糸取りはなくなり、養蚕組合を通して製糸工場へ売られていきました。
 繭の中の蛹は数日で繭を破り蛾となり、勝手に交尾を始めてしまいます。そうなっては、繭は売り物にならなりません。それで繭を扱う蚕物屋は蛹を殺さなければならないので、蚕物屋は必ず繭乾燥場を備えていました。このような繭乾燥場は現在殆ど残っていません。
現在、蚕物屋はなくなったに等しいですが、入金真綿という手向けの真綿だけは保原を中心に生き残っています。昭和期まで保原の真綿は結城紬の原料として大量に売られて行きました。結城紬の原料の八割は保原のものといいます。今でも結城へは供給されています。しかし近隣の養蚕農家が減ってしまい、中国から繭や真綿が相当量保原に入ってきているそうです。現在、伊達市内の養蚕農家数は10軒以下の状況になっています。
 

(5)生糸 〜奥州伊達の登せ糸〜

 成田重兵衛の著「蚕飼絹篩」(1814年稿)に拠れば、毎年6月14日の長岡天王社の祭礼日に開かれる「天王市」は生糸や真綿を売買する人たちで大変な賑わいを見せたといいます。前日の夜、近隣の村々から数千人の農民たちが新しい生糸や真綿を持ち寄り、市に出しました。境内近くの街道は人々でごった返しました。その様子が「蚕飼絹篩」に描かれています。その日の売上高は約100駄(およそ3600貫目)で、1万5千両(現代の米価換算で約7億5千万円)ほどであったといいます。信じられないような話です。江戸や京から大手の糸真綿商人が訪れたため、「天王市」その年の全国の糸値を左右したとも記されています。
 伊達地方産の生糸は奥州糸や登せ糸と呼ばれ、京では1荷9貫目の糸が40両前後の値段で売れました。1頭の馬には糸荷が4個載せられ、最大で7頭仕立て(約千両分)で送られて行ったそうです。伊達地方は蚕種の製造販売でも大きな商売をしましたが、生糸と真綿の売買でも全国に名をなしたのでした。
 天王市のほか6月7月に開かれる保原の神明市、梁川の天神市、箱崎の愛宕市、桑折の諏訪市などの祭礼市も糸市で賑わいました。このほか保原や梁川などの各町場で定期的に月六回開かれる六斎市では日常品が売買されましたが、6月から7月のころは糸・真綿の売買でたいへん賑わいました。
 現在一個の繭から取れる生糸の長さは1000mを軽く越えています。江戸期にはまだ短く700m前後であったという説もあります。それにしても蚕一匹が吐き出す糸の量はたいしたものです。
 江戸時代の糸取りは養蚕農家が自前で行い、糸にしてから売るのが普通でした。江戸中期以降は繭を渡して賃挽きさせる農家も出始めました。糸取りは、鉄鍋の中で煮だした繭の糸口を五六個手繰り寄せ、「座繰り機」で小枠に絡め取ります。江戸中期以前には、小枠でなく桐の胴に巻き取る「胴取り」・「ころばし」方式や立ち姿のまま行う「手挽き」方式でした。小枠の糸の量が一升くらいの量になったら、小枠を取り替えるそうです。その後、小枠は大型の枠に揚げ返され、束ねられました。およそ小枠12を大枠1に揚げ返し、1綛(かせ)とした。そして1綛ごとに木綿糸で括ります。12綛で1把にします。1把の糸の重さは120匁〜160匁(約450〜600g)ぐらいでした。4把で1束(約2400g)にします。これらを紙に包んで売りに出します。農民たちは把や束の単位で市へ出しました。仲買人たちはこれらを買い集め、1箇=9貫600目にして荷造りします。生糸1箇=約15束になります。伊達郡内の生糸の売り値は1箇=金38両ほどでした。これが京都では42両ほどで売れましたが、荷造り賃が1箇につき金2朱ほどかかり、福島〜京都の運賃が1箇につき 金1両ほどかかっていましたから、京都の相場が少し違うと大きな赤字になる危険がありました。生糸を取り扱う伊達地方の商人たちは糸買い資金に詰まると、糸荷を質に入れて次々に数十両・数百両単位のお金を工面しました。大手の商人たちは江戸にも出店を持って商売していましたが、大損して倒産したり撤退したりした者もいました。
 江戸期における伊達地方の生糸の出荷形態は、「提(さげ)糸(いと)」や「鉄砲(てっぽう)糸(いと)」と呼ばれました。明治初期には「提糸」は掛田の安田利作らの改良により「掛田折返し糸」に変化し、花形の輸出品になったといわれます。
 明治後期には動力を使用した器械製糸の糸取りが始まりました。五十沢製糸・梁川製糸・保原製糸など各地に製糸場が出来、大量生産の時代に移りました。このほか節糸専門の金沢製糸などもがありました。
 

(6)真綿  〜伊達特産の「入金真綿」〜

 「入金真綿」は伊達地方独特の袋真綿で、水桶の中で両手の指で繭を押し開けて蛹を取出し、汚れを取り出し、押し広げ、五六枚ほどを重ねます。さらに整形して楕円形の袋真綿にします。これは定規で測ったように30.0cm*15.0cmくらいの同じ大きさになるから不思議です。まさに名人芸です。真綿は室内で干して乾燥した後、50枚毎に束ね、その後大束にされます。
真綿かけは熟練した技術が必要とされ、地元の真綿問屋が賃掛けに出して専門の真綿掛け職人に行わせるか、農家の自家製真綿を買い取るのが一般的でした。真綿掛けに使用する繭には生糸用の上等な繭ではなく、生糸用には不向きの大繭や蚕種取りの済んだ出殻繭などが用いられました。

       真綿掛けはほとんど女性たちの手に委ねられました。この技術を娘時代に習得すれば、素晴らしい嫁入り道具の一つともなりました。真綿掛けの仕事は年中あり、しかも現金収入になりましたから農家ではたいへん重宝されたのでした。
 伊達地方には入金真綿引伸ばし専用の「塗り桶」とか「ボウズ」と呼ばれる陶製の型があります。これには大小あり、50cmから80cmまであります。ボウズはすべて中が空洞になっていて、横に丸い口が開いています。この口の中に汚れた部分を千切って入れたそうです。これは「てっちり」と呼ばれ、これも商品になったといいます。羽織用の摘み綿を造るには、更に大きな板型に移して大きくしていきます。

 「入り金真綿」はこのほか紬織りの原糸として使用されてきました。「入り金真綿」は現在ではたいへん高価な結城紬の貴重な原糸になっています。「川俣町史」によれば、享保9年(1724)や明和7年(1770)の真綿前金預かり証文が載っており、京都や江戸の真綿問屋が伊達地方の真綿を購入する際、前渡金が存在していたことが知られています。当時の袋真綿は小国村が最も上質で最高価格でした。「蛹14ほどで1袋に、1袋を2袋に重ねて」という記述があるので、当時の小国産の真綿はかなり分厚い真綿だったと思われる。前渡金があるので、入金真綿という、と記されています。このほか財布の形に似ているから、また小判の形に似ているから、入金真綿というようになったと伝えられています。
 伊達地方では昔から「入り金真綿」のほか「盤真綿」と呼ばれる真綿があります。四角い板枠に引っ掛けて製造します。大きさは 28.3cm〜35.0cmの正方形のものが中心ですが、これより大きいサイズもありました。
 

(7)機織り

 繭から引き出された生糸は撚りと練りを加えられ、絹糸となる。糸の染色も行われます。このあと「はたおり」機で織られて、絹織物(反物)となります。
 天明8年(1788)幕府巡見使古川古松軒の日誌「東遊雑記」に当時の梁川の様子が次のように描かれている。「絹を織る家多し」「梁川出立、五里貝田の駅、この間の民家何れも糸を引き、絹を織り出す」。梁川近傍で機織りが盛んである様子が描かれています。しかし梁川・保原・掛田地方では江戸時代に地元産の絹織物が商品として取引された形跡は殆ど残されていません。この地域の農家では良質の繭は生糸として売られたため、不良の生糸や繭ケバを紡いで自家用の着物や帯を織っていたようです。いわゆる「つむぎ」とよばれる絹織物ですが、現代と違って当時の「つむぎ」は高級品ではありませんでした。着物だけでなく布団生地などにもよく「つむぎ」生地が使用されていました。ただ一部の農家に複雑な織り帳が残されてもおり、少数ですが高級な織物が自家用として生産されていたか、多少は近在の商家等へ売られていたものと考えられます。
 実際江戸幕府では、「五人組帳」等で一般庶民たちに絹織物などの贅沢品を禁止し、木綿・紬の着用を勧めていました。ただし一部の上級町人には絹製品を許してもいました。
 掛田の川城屋佐藤家は寛政12年(1800)機業経営のために210両の借用願を代官所へ出しています。それによると、当時佐藤家は類焼により本業の蚕種製造が不調で、川俣地方の機業が好景気であったため、機織り業への転換を図ったのでした。機7台と織り職人の給金など1台につき30両と見込んでいます。しかしこの借金は実現しませんでした。当時の掛田地域は機織りが商業的にはなされていない現状を知ることができます。同願には「川俣筋近辺、小手郷村々は絹機渡世仕り候処、殊の外繁盛仕り、右近在の百姓は追年潤沢に罷り成り申し候」とあります。川俣地方の羽二重絹は質が良く、京都や江戸へ売買されたといいます。明治期には海外へも輸出されました。
 民俗資料の倉庫の中で、使用済みの蚕種紙の縦方向を繋ぎ合わせて、縦およそ45?・横およそ22cmにしたものが何枚か出てきたことがありました。蚕種紙は柿渋が塗られています。梁川町東大枝の遠藤家から寄贈された機織機の布巻棒に同じサイズの蚕種紙が数枚巻き付けてあり、合点がいきました。この蚕種紙は、布巻棒に巻き付けて使用していたかも知れませんが、むしろ縦糸を「おまき」に巻き取るとき、糸が乱れないように、厚紙を挟みながら縦糸を巻き付けていたと考えられます。もともと蚕種紙は厚紙で丈夫なため財布などに再利用されていました。柿渋を塗ると本皮のような質感になります。反物の幅は普通36〜39?ですが、広幅のものもあり、45?前後の長さが丁度良かったのかも知れません。
 

(8)蚕種製造の方法

 江戸時代の蚕種製造ではほとんどが一枚の産卵台紙一面に卵を産ませる平付けでした。一枚の蚕種紙の大きさは全国統一され、縦1尺2寸(36.3?)・横7寸5分(22.5?)に決められていました。これは産卵台紙の周囲を定木という細長い木で囲んだ中に交尾(受精)の済んだメス蛾を入れ、産卵させるものです。昔は1枚の蚕種紙につきメス蛾を200匹入れました。蛾が定木を滑って登れなくするため、定木にはほとんど黒色や赤色の漆が塗ってあります。さらには産卵作業直前に油を塗るそうです。多くは数枚から数十枚の蚕種紙を敷き並べ、その外側を定木で囲んだようで、その絵が残っています。
 蚕種の製造のうち交尾は夜中に行われ、産卵は午前中に終了します。すなわち蚕種の製造作業は夜中に行われるのが普通でした。

 メス蛾は1匹で300個以上の卵を産みます。およそ種紙1枚で卵6万〜8万個です。種紙1枚から6割強の確立で孵化しますから、およそ4万個前後の蚕が育ち同数の繭が出来ます。これらすべてを蚕種生産にまわすと、交配にはオス・メス合わせて400匹以上必要ですから、約100枚の蚕種が出来ます。生産コストを抜きにすれば1枚の蚕種紙がおよそ100倍の価値を生むわけです。
 江戸後期には1枚の蚕種紙に半数の100匹の雌蛾を入れる五分種(半取り種)と呼ばれるものも出現しました。実際には四分の一単位の蚕種紙もあったようです。これらの二分の一・四分の一単位の蚕種紙は主に三春・二本松・米沢など本場以外の地域で生産されました。
 

(9)伊達の蚕種  〜奥州蚕種本場〜

 日本蚕種業史の世界では、江戸時代の前期〜中期は結城地方が蚕種の本場として名が通っていたことがよく知られていました。ところが寛保2年(1742)の大洪水で結城地方の桑畑と蚕種が全滅したため、結城種商人たちは奥州伊達の蚕種を仕入れざるをえなかったのでした。結城の蚕種商人が信州へ向かわなかったのは何故でしょう。奥州伊達の蚕種が少しではありますが既に結城地方に入ってきており、その優良さが認められていたからに他なりません。この奥州伊達蚕種が予想以上に好成績だったため、以後も伊達の蚕種が結城へ移入され続けました。結城を経由して、これまで以上に信州・武州などへも伊達の蚕種は広まっていきました。寛保2年の大洪水についてはその年月に異説もありますが、災害で桑畑が全滅して結城の蚕種が廃れたのは同じです。
 結城地方の蚕種家は伊達郡の伊達崎村にある如来堂を借りて、近隣から買った繭で自ら蚕種の製造を行い、蚕種を結城へ持ち帰ったといいます。このような形式で蚕種製造された蚕種を「切り出し」「切りだし蚕種」と呼びます。普通なら伊達の蚕種家が製造した伊達の蚕種を購入していくところですが、結城地方の蚕種家たちは、結城の高い蚕種製造技術で直に製造した方がより良い蚕種が生産できると確信していたのでしょう。確かに当時の結城の蚕種製造技術は伊達より高いレベルにあったことは間違いありません。
 安永元年(1772)の蚕種役願書等(福島県立図書館蔵)によれば、江戸時代の半ばごろ、阿武隈川沿いの粟野・中瀬・向川原・伊達崎などの8村とその周辺の保原・梁川・掛田・伏黒・桑折など9村を合わせた17村は蚕種本場村として蚕種(卵)の生産が盛んでした。さらに、箱崎・高子・柳田など8村は場脇として、御代田・湯野・下飯坂など13村は場脇続きとして、蚕種製造が行われていました。これに信夫郡鼓ヶ岡が加わり計39村が後に蚕種本場冥加金を負担することになります。
 このころ、全国の養蚕農家は購入蚕種の中に悪種が混じって販売され、困っていました。伊達地方に蚕種を買いに来ていた蚕種商人たちは二本松・三春・米沢などで切出し種を購入し「本場種」として偽って販売していたのでした。これらの偽種は翌年の孵化率が低かったり、不良の繭が多く出ましたので、奥州種の評判を落としただけでなく、全国の養蚕農家に迷惑をかけました。
 そこで、上州勢田郡の庄左衛門と武州幡羅郡の直右衛門の二人が安永元年、幕府に願い出て、全国の蚕種紙の改印を引き受けようとしました。もちろん冥加金(税金)を徴収して手数料をピン撥ねするわけです。数度の交渉の結果、奥州福島・上州長沼・下総結城3箇所に蚕種会所を設置して蚕種紙改印をし、蚕種紙1枚につき銀1分、年250両の冥加金で5年間請け負おうとしました。そして再度二人は勘定奉行所へ呼び出されました。協議の結果、三箇所で25万枚、銀25貫目(金にして330両余)、手数料を差引いて冥加金260 両で5年の期間を3年間にしてでも認めてほしいと願いました。安永2年1月にも勘定奉行所は桑折代官布施弥一郎に伊達郡の実情と要望を調べさせました。
 しかし、勘定奉行所の調停の結果、奥州伊達地域以外は今後は蚕種製造をしないということで、辞退してしまいました。最も広く全国に流通している奥州伊達蚕種だけを改印して取締り、伊達地方の阿武隈川筋の39村だけが高額な負担金(冥加金180両)を払うことになりました。その見返りとして伊達地方が「蚕種本場」の称号を独占して名乗れることになったのです。冥加永は安永3年分から徴収されました。製造蚕種枚数に応じて冥加永を払いました。安永3年2月にはその年の製造予定枚数の届出があり、向川原村は9510枚でした。後に伊達の蚕種冥加永は安永7年に90両に減額され、さらに天明2年には廃止されました。しかし間もなく復活され、寛政4年の冥加永割が残されています。これによれば、この年の伊達の蚕種冥加永は20両であったようです。文化3年(1806)の向川原村の蚕種枚数は8247枚で冥加永は918文1分でした。およそ100枚で11文2分の仮割です。伊達の蚕種冥加永は天保13年(1842)には23両から26両に増額され、嘉永5年(1852)からは29両に増額されています。
 


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