奥州の極小藩 下手渡藩  しもてどはん 

 文化2(1805)11月、九州筑後三池藩6代藩主立花種周(若年寄)は機密漏洩で罷免、隠居させられた。さらに7代立花種善は文化3年(1806)遠く奥州伊達郡下手渡(福島県伊達市月舘町)の地へ転封、左遷されたのである。領知は1万石。旧高も1万石(実質は14000石)で あった。旧三池藩領の1万4千石は西国筋郡代(日田代官)が支配した。 

 そもそも三池藩は、豊臣秀吉方の武将高橋紹運の次男種次が慶長18年(1613)、徳川家康から常陸の柿岡5千石を拝領、兄の柳川藩主立花宗茂と同じ「立花姓」を名乗ることを許された。そして、元和7年(1621)、五千石加増されて故郷の三池へ移され、三池藩1万石(17)の藩主となった。初代藩主立花種次である。太祖の高橋紹運は勇猛で義理がたいことで知られ、柳川藩主三池藩主の両立花氏は幕府要職につくなど名家であった。

 下手渡藩1万石の領内は 下手渡 御代田 石田 牛坂 山野川 小島 小神 羽田 西飯野 飯田の10村であった。いずれも山間の小さな村々である。中央を小手川が流れている。陣屋は下手渡村の高台の天平に築かれた。藩主の菩提寺は同村の耕雲寺である。家臣たちは全員新領地へ移るのが筋であるが、下手渡へ移ったのは三分の一で、三分の一が三池に留まり、残りは江戸詰めであった。(正確な数字は江戸詰め家中 70人、下手渡家中 42人 、三池居残家中 56人) 三池に残った家臣たちは俸禄は支給されたであろうが、自藩の地でない土地に住むわけだから、いろいろな不都合が多々あったと想像される。すぐにでも旧地に戻りたい気持が強かったのであろう。

陣屋

           下手渡陣屋跡(伊達市月舘町)

 文化13年、西国筋郡代支配となっていた旧三池藩領1万4千石の村々は隣藩の柳川藩立花氏が預かることになった。柳川藩立花氏と三池藩立花氏は藩祖が兄弟で、身内同然の親藩であった。 

 嘉永4年(1851)には、下手渡藩領内の村替えが行なわれた。陳情が実り、旧地三池に5千石(5071)が分領として与えられた。その代わり伊達郡内の3千石(3078)が幕府へ返上された。したがって柳川藩の旧三池藩領預かり地は実質9千石に減った。下手渡藩と下手渡陣屋は継続された。

 墓地   

    藩主と家臣たちの墓所(伊達市月舘町 耕雲寺)

 戊辰戦争のさなか慶応4年(1868)3月2日 幕府の会計総裁(老中格)を辞した立花(たね)(ゆき)は、官軍側につく決意をし、下手渡に帰藩したが、3月30日には、新政府軍へ参加するため下手渡を去った。一方家老屋山外記は奥羽越列藩同盟に調印し、藩内で対立が生じた。8月14日~16日、下手渡村は仙台兵らに焼き払われた。慶応4年9月、仕方なく、立花氏は藩庁を三池の分領の地へ移した。(伊達郡内の立花氏領の村々は逆に分領扱いとなった)

もう一つの小藩 松前氏梁川藩

 なお、立花氏とほぼ同じ時期に北海道から伊達郡に転封されてきた小藩がある。松前氏である。幕府は北方の警備に不安を感じ、松前氏から蝦夷地全域を収公した。当時北海道は米が獲れず、無高であったが、貿易により莫大な利益を上げており、実質数万石の大名に負けていなかった。文化4年(1807)、北海道の福山藩主松前章広は奥州伊達郡梁川(福島県伊達市梁川町)にわずか9千石で転封となった。松前氏梁川藩の誕生である。家老は蠣崎波響で、高名な絵師でもあった。松前氏は梁川村・大門村・金原田村・泉沢村・大久保村・五十沢村の6村を支配した。陣屋は梁川城本丸跡に築いた。松前氏は盛んに福山への復領運動を展開し、文政4年(1821)、松前氏は北海道福山に戻された。6村は幕府領となった。

 興国寺

     藩主松前道広公揮毫の「興国禅寺」の額 (伊達市梁川町 興国寺)

しかし幕府の北方政の変更により、安政2年(1855)蝦夷地の一部が幕府に収公されると、その目減りを補填するため、再び梁川地域6村他が松前氏領となった。松前氏の本城は福山で、梁川には出張り陣屋が置かれた。松前氏の梁川地域支配は幕末維新期まで続いた。

 それぞれ転封の事情は違うが、三池藩と福山藩はともに伊達郡の地にやってきた極小の藩である。彼らは裕福な伊達の地に着たことを全く喜ばなかった。旧地へ帰る復領運動をしつこく繰返し、願いが叶い、帰って行った。地元民たちと様々な交流が生まれ、伊達の人々は日本の北と南の動静や文化を知ることとなった筈である。それらについて調べてみたら面白いに違いない。

松前藩の絵師 熊坂適山

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