高子七境の確定とネーミングの手法

   二十境の一番丹露盤から七番将帰阪までは
            すべて高子山にある

 熊阪台州著「永慕編」「二十境記」によると、玉兎巖の西に丹露盤・長嘯嶺・龍脊巖・帰雲窟がきて、さらにその西側に採芝崖・将帰阪・狸首岡がくる。その距離関係は不明である。一番から八番までの場所は高子山のどこなのか。「二十境記」の文章だけでは良く分からない。「二十境記」の後につづく「二十境図」を見れば、丹露盤がどこなのか見当がつく。こんな岩は高子村中を探しても壱ヶ所しかない。
 もっときちんとした証拠がほしい方のために次の資料を提供したい。台州は寛政7年(1795)に白雲館の南庭に真隠亭という小亭を建てた。さらに享和3年(1803)にこの建物を白雲館の西側に移築した。この真隠亭の由来記(文化2年5月5日記)を岡部忠保が次のように書いている。
 「其の眺望、東より南へ環る、雩山、愚公谷、返照原、走馬嶺、白鷺峰の諸景、岑然列然たり、谺然洼然の状、坐して見るべきなり」「目を挙げて亭後を望めば、山勢逶迆たり、離坎の位、長松従森、龍鱗凌雲、鳳翼垂天、雑樹絵之、清音迭奏、如吹塤篪、此れ国風の称する所、大隈山の処なり、所謂、丹露盤、玉兎巌、長嘯嶺、龍脊巌、採芝崖、帰雲窟、将帰坂、皆其中に在り」(「真隠亭記」岡部忠保記(熊阪盤谷編「継志編」所収))

高子山 高子山の現風景

七境図 七境の詳細位置図


 熊阪台州著「永慕編」「二十境記」によると、二十境の第一番の丹露盤から第七番の将帰阪までが高子山(阿武隈山)内にある。 台州の自宅(白雲館)は高子山を背にして建ち、自宅前方に水田が広がっている。台州は自宅の正面を真南方向(S3)とし、裏山の高子山を北方向(N3)と認識している。したがって自宅から見て東方向(E3)は山が途切れている。現在の阿武隈急行電車のトンネル入口辺は西方向(W3)になる。なおN1は真北、N2は磁北である(偏角7度30分)。いずれも白雲館から見た方角である。

 
 熊阪台州の高弟岡部忠保は「目を上げて真隠亭の後ろを望めば、山の形は南北にくねくねしている。」としている。岡部は高子山が「離坎之位」すなわち南北に長いと見ている。岡部は白雲館が高子山を背にして東を向いていると理解している。岡部は藤田に住む弟子で、しばしば熊阪家に出入していた。岡部の方位感覚はほぼ正常と考えていい。岡部に従えば高子村は周囲を山で囲まれた平淡な地で、山は北側だけ切れて開いていることになる。台州は東側が開いていると「二十境記」に書いている。この点、台州の方位感覚と異なることにも留意しておきたい。さて、この山は和歌に「大隈山」とか「阿福麻山」と詠まれている山である。「信達歌考証」にその歌が収録されている。岡部忠保は「いわゆる丹露盤、玉兎巌、長嘯嶺、龍脊巌、採芝崖、帰雲窟、将帰阪が皆その中にある」と述べている。つまり一番の丹露盤から七番の将帰坂までが真隠亭(白雲館と言い換えてもいい)の裏山(高子山)に集中しているというのである。この記述はたいへん重要である。「二十境」を解明する上で最も重要な資料かもしれない。高子山はやや南北に長い山で、標高は91.5mだが、西北側の断崖の比高は40m、東南側の比高は30mほどある。白雲館は山の東側の麓にあり、東面している(実際は東南東に向いている)ことも明瞭である。真隠亭は享和3年に白雲館の西側に移築された。ただし真隠亭は南向きに建てられている。岡部は真隠亭に坐したまま、東南の方向に雩山、愚公谷、返照原、走馬嶺、白鷺峰の諸景を見ることができるともいっている。熊阪台州も「旧海左園記」(寛政12年11月記、「永慕後編」所収)で海左園の楽天塢からの眺めを、「南に白鷺峰・走馬嶺・雩山・及び返照原を望むことができる」と述べている。この岡部忠保の記述は台州の「二十境記」を補強して余りある貴重な資料である。

  丹露盤 第一番 丹露盤

  将帰阪 第七番 将帰阪
   左の山が高子山。西方から高子山を見ている。将帰阪は中央の三本の松の木がある白色のガードレール付近。右奥の小山は第二十番の古樵丘。

 一番の丹露盤から七番の将帰阪までが高子山にあると決まれば、現地形から判断して将帰阪は熊阪家墓所の脇を通る坂道ということになる。しかし台州の七律「将帰阪」の題註に「先人客を好む、緇素遠至、其の帰るを送る毎に必ず此の阪に於てす、因て名く、爾か云ふ、阪は先塋の西数十歩に在り」とある。将帰阪は熊阪家の墓地の西方、数十歩の距離にある。つまり墓地のすぐ脇の道ではない。歩は人間の歩幅で日本の二歩分が中国では一歩とされる。時代によっても歩の長さは変化している。いずれにしろ数十歩の距離は30m~50m程度と実感される。すぐ脇という距離ではない。「阪は先塋の西数十歩に在り」という文学的表現はやや誇張されていると考えられる。しかしまた熊阪家墓地はもっと屋敷に近くあった可能性もある。「先考覇陵山人行状記」に覇陵の死についての箇所で「明和元年甲申(1764)十一月十五日壬戌病を以って卒す、享年五十六、高子西門外先塋の右に葬る」と記してある。白雲館の西門から出てすぐのところに高子熊阪家の墓地が営まれている感じがする。覇陵・台州の時代は小規模だった。母の五十回忌の寛政4年(1792)に台州が墓地の大改葬整備をしたことが知られている。白雲館屋敷の整備に合わせて、墓地を少し移動させたとしたら、「阪は先塋の西数十歩に在り」の表現は間違いではなくなる。「永慕編」の出版は遅れに遅れて墓地改葬の4年前の天明8年(1788)であった。
 なお、五番の採芝崖について、台州の五絶の漢詩は「茅廬猶咫尺」と詠んでいる。「茅廬」は白雲館を指すと考えられるから、採芝崖は白雲館から極近距離ということになり、これも採芝崖が高子山にある証拠となる。
また当然、八番の狸首岡は高子山の中に入らないのであるから、高子山より更に西の方向にあることになる。つまりは西方の字長嘯嶺の山が狸首岡とならざるをえない。

 覇陵創始の二十境のうち1番丹露盤から7番将帰阪までの七つは高子山という小さな山に集中して設定された。また14番走馬嶺から20番古樵丘までの七つも、数珠繋がりに近い場所に連続して字名が設定されたことが分かった。

 しかし明治9年の山野改正で、二十のうち半数は移動してしまった。明治の初期ころには、熊阪氏の「二十境」を理解できる人物は高子や上保原にいなかったのである。というより、漢詩文の文化は時代の流れにはなかったのかもしれない。かろうじて覇陵・台州・盤谷の三代が必死で守りぬいたというのが真実であろう。台州が叫んだ通り、覇陵の偉業を活字にして一冊の本に残し、不朽ならしめたのは正解であった。そうしなかったら、台州は大不孝者の烙印を押されたであろう。

間違った標柱の存在

 平成の世である今現在、このような明らかな事実を認めず、あるいはそれを否定してまで、誤った二十境の場所を宣伝し、標柱まで立てて正当化しようとする人々がいることは、悲しいことである。その方々のたゆまぬ努力で、間違った場所に、いまだに二十境の標柱が建っている。訪れる方々は信じているのだろうか。疑いをもっているのだろうか。間違った場所とは、明治9年に熊阪さんが設定した地名を移動してしまった場所である。移動された場所では、熊阪さんは漢詩を詠んでいないのに、まるでその場所で漢詩を詠んだように解説されている。熊阪さんの漢詩を味わうには本当の場所へ行くべきであろう。この項で触れた最初の七境のうち丹露盤を除く六境が明治9年に移動したことをぜひ知ってほしいと思う。

覇陵のネーミング手法と真実の高子二十境の位置

ネーミング 覇陵のネーミング手法理解図

 これまで高子二十境の位置を検討する中で、覇陵のネーミングの方法について一部見てはきていたが、ここでは、それを整理しておきたい。次の四つのグループに分類することができよう。
A.その場所の地名を採用し、モジル(美称化する)方法
  高子陂 白鷺峰 隠泉 古樵丘
B.同一方向の延長線上にある地名を採用し、モジル(美称化する)方法
  禹父山 雩山 狸首岡 
C.その場所の風景や雰囲気を反映させる(美称化する)方法
  拾翆崖 不羈坳 返照原 龍脊巖 走馬嶺 帰雲窟 採芝崖 白雲洞 
D.中国の古典に材をとり、美称化する方法
  丹露盤 玉兎巖 将帰阪 長嘯嶺 愚公谷

   これらのうち、AとBは基本的には同じシステムで、比較する距離があるかないかの差でしかないので、同一の部類と見て、第一分類としてもいい。CとDも基本的には同じシステムで、第二分類としてもいい。
 ではグループ毎に確認していこう。まずAグループ。高子陂は高子沼の言い換え、白鷺峰は羽黒山または羽山岳の言い換え、隠泉は覇陵より前に義州が既にネーミングしていたものを借りたもの。また隠泉は隠れ泉の名も古くからあったようだから、それを美称化したとも言える。古樵丘は小性山の言い換えである。次にBグループ。禹父山は内山入から採用し、美称化したもの、雩山は南隣村の天乞山から借用し美称化したもの、狸首岡は西隣村のムジナ森から借用し美称化したものである。なお雩山については、この場所で昔雨乞いの行事をしていた伝承があるとする一説もあることを付記しておく。次にCグループ。拾翆崖は、高子沼の水面の色が美しく翆色(みどりいろ)であるとし、それを手に掬って飲んでみたいという気持を表したもの、不羈坳は蕗が生えている窪地のイメージを表したもの(菅野宏先生)、返照原は夕方の残照の照り返しを表したもの、龍脊巖は龍の背びれのイメージを表したもの、走馬嶺は走る馬の形をした岩石から採用したもの、帰雲窟は金鉱山の坑口(岩穴)から立ち上る雲を表したもの、採芝崖は霊芝(きのこ)を採るイメージを表したもの、白雲洞は白雲が似合う岩山を表しているといえよう。次にDグループ。丹露は中国の伝説の国畢勒国の飲み物という。玉兎は月に住むというウサギ。長嘯は、覇陵が好きな王維の漢詩「竹里館」にも「独り坐す幽篁の裏、琴を弾じ、復た長嘯す」と詠われている。 将帰は屈原の弟子宋玉の漢詩「送将帰」からの引用で、長嘯は「晋書」阮籍伝にある挿話からの引用という(菅野宏先生)。愚公は「列子」にある「愚公、山を移す」から採っている。
 ここに示したネーミング手法を使えば、台州の「二十境記」に記された二十境の位置はきわめて正確であると理解できる。逆に、このネーミング手法を使わなければ、いつまでも台州の「二十境記」の謎は解けないであろう。この結論に達するのに二十年以上の歳月が流れた。分ってみれば何てことはない。簡単な謎解きだった。
 十年前まで私は狸首岡の位置が分らなくて苦しんでいた。「二十境記」を何度読み返してみても狸首岡の前後で矛盾に苦しんでいた。何よりも、谷文晁の狸首岡の図に見える狸首岡はあまりに急峻な山で、高子村には存在しない山だった。谷文晁の禹父山図も同様に急峻であった。「二十境記」を忠実に読むと、この二つの場所の推定地にはまったく低い山しか存在しない。山の高さを数倍から数十倍に描くようなデタラメを熊阪台州はするだろうか・・・。

新発見 ≪初午山は当然二十境に入るべき美しい山≫ ≪なのに、入っていない≫

 このような疑問と苦悶が続くなか、初午山(旧グリーンランド遊園地の山)は何故二十境に入らなかったのだろうか、と私はある日思った。高子沼の周囲でこの山は際立って山容が良く富士山のように美しい。白鷺峰(羽山、羽黒山)もいいが、私にはそれ以上に見える。高子村に二十境を設定するなら、初午山はぜひ入れたくなる山である。それなのに覇陵は二十境に入れなかった。その理由は初午山が箱崎村内にある山だからである。高子村内の山でないからである。このことに気付いた私は、すべての不可解が氷解した気分だった。覇陵はあくまで高子村内に拘泥していることを理解したのである。覇陵(実際は台州)は初午山をどうしても入れたかったと見え、この山を谷文晁高子陂の図の中の遠景としてそっと何気なく入れている。もちろん描いているのは谷文晁であるが、台州の意見が取り入れられたか、画家自身の直感によって挿入されたと考えられる。
 安田初雄先生は狸首岡を箱崎村の熊野山に比定され、採芝崖と帰雲窟も箱崎村の聖天森(タンク山)に比定された。また安田先生と菅野宏先生は禹父山を上保原村の内山入の山に比定され、愚公谷を上保原村の内山沼に比定された(既述)。これらはすべて高子村外であり、誤りであることに気付き、そのことに自信がもてたのであった。
 初午山の謎が解けて、覇陵のこだわりに気付き、二十境はすべて高子村内に設定されていることが理解されたころ、覇陵のネーミングの手法も解明できた。残る疑問はただ一つ、山の高さの問題であった。しかしこれは山を見る位置と角度によっては低い山も高く見えることが発見できた。谷文晁の図ほどに高くは見えないが、狸首岡と禹父山は一人前の山の高さには見えた。一般的に山水画では山は高く表現される。それに、覇陵は高子の山々の名勝の実景を漢詩にしたのではなく、実景を美化しようとしたのである。実景を基にココロに想う別世界(理想郷)を詠ったと言ってもいい。

位置図 高子二十境の真実の場所地図

 この地図に点在する二十境はほぼ旧高子村の周縁(村境)にあることに気付くであろう。すなわち、これが、熊阪台州が「永慕編」「二十境記」で述べたところの「二十境は村の内外にある」とする意味なのである。

☆参考: 松浦丹次郎著「高子二十境」

   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ふくしま DC ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

高子二十境
高子の熊阪氏と白雲館

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