幕末の奥州志士 太宰清右衛門と菅野八郎

    農民出身の二人は日本の将来を思って立ち上がった!

 菅野八郎   かんの はちろう 1813〜1888

 文化10年(1813)、伊達郡金原田村(現伊達市保原町金原田)に生まれる。八郎は父和蔵の影響を強く受け、親への孝行および国への孝行の道を説き、役人の不正に対しては果敢に正そうとした。嘉永元年(1848)2月、36歳のとき、砂子堰碑建立に関して亡父の貢献が無視されたことに腹を立て、堰世話役へ公開の訴状を出している。「汝ら三人の生肉を取りて父の霊前に供えん」と書くほどの激しい気性の持ち主でもあった。後日八郎は言い過ぎたことを反省し、詫び状を出している。
 また八郎は海外にも目を向け、外国の脅威から日本を守ろうと必死に考えていた。嘉永6年(1853)6月に米国ペリー提督が黒船で来航した翌嘉永7年正月、白髪の老人が夢に現れ、海防策十か条を八郎に示したという。そのことを桑折代官所を通じて幕府へ知らせようとしたが、受け入れられなかった。2月、八郎は江戸へ出て、神奈川まで黒船を見に行った後、老中阿部伊勢守へ駕籠訴をしようとして失敗した。4月、八郎は、夢のお告げに名を借りて、幕府の弱腰の政治を批判した手紙を目安箱に投函している。そのとき描いたと見られるペリー提督の似顔絵が残されている。実は前年9月に、八郎は菅野家開祖517年回忌にもかかわらず、早めて五百五十年祭供養を催している。後顧の憂いを断った決死の出府であったことがわかる。なお嘉永7年には妻を離縁し、長男は欠落している。もう一人長女がいたがすでに他家(妻の実家)へ嫁いでいた。捕縛・打ち首を覚悟しての偽装離縁と考えられなくもない。このとき八郎は42歳であった。

500回忌 500回忌
       菅野家開祖碑と五百五十年供養碑 嘉永6年9月(伊達市保原町金原田)

自刻の碑 八郎自刻の碑 安政4年3月(伊達市保原町金原田 吾妻山)

 これより少し前、八郎は近隣村の親友太宰清右衛門と共に水戸藩主徳川斉昭の思想に共鳴しており、水戸藩の侍になろうと決心していたが、資金が足りず、断念したといわれる。一方、太宰清右衛門は大店の跡取りであったため、400両もの大金を献金して簡単に水戸藩士になることが出来た。安政3年(1856)のころ、八郎、幕政を批判した手紙(『秘書後之鑑』)を水戸の太宰清右衛門に書き送った。
 安政4年3月、八郎、自宅前の吾妻山の自然石に「八老の魂、此に留めて直なることを 祈る」と彫った。
 安政大獄事件等の一連の粛清を受け、水戸の攘夷思想に連なる一派は捕縛され、あるいは指名手配となった。太宰はかろうじて逃亡に成功したが、江戸の太宰宅が捜索を受け、ここで『秘書後之鑑』が見つかった。このため江戸から奥州伊達郡金原田村まで捕縛の役人がやって来て、八郎は安政5年(1858)11月2日に捕縛された。八郎は厳しく長い取調べの挙句、安政6年10月、遠島の判決を受けた。八丈島への島流しである。このときの判決で、八郎は一農民でありながら尊王攘夷思想派として高名な「吉田松陰、頼三樹三郎、橋本左内」らの列に名を連ねたのであった。八郎にとってそれは大変な名誉なことであったかもしれない。
 八郎は遠島中でも学問に励み、多くの著書を残した。八丈島では養蚕の指導もし、養蚕書も著している。八丈島は思想犯たちの送り島(流人島)になっており、かなり優秀な人材が集まっていた。八郎は梅辻飛騨規清と出会い感化されたと伝えられる。その後、文久2年(1862)12月、一橋慶喜や松平春嶽らの意見を取り入れた幕府により、大獄で刑に服していた者たちへの特赦が検討され始めた。文久3年4月に赦免の噂がながれたが、実際に赦免されたのは文久4年8月であった。文久4年9月、八郎は金原田村に戻った。しかし天狗党に与して逃亡中の太宰清右衛門は10月に自害し果てた。
 帰郷してすぐの元治元年、諸悪から村々を守るため自衛組織「誠信講」を結成し、剣術等の修練に励んだ。
 しかし不運にも慶応2年(1866)6月に蜂起した「信達世直し一揆」の首謀者として、八郎は桑折代官所から指名手配された。数千とも数万とも言われる農民たちの集団が蚕種新税にからむ利益を独占しようとする悪徳商人とその仲間と目される豪農の家々を次々に襲ったのだった。一揆勢は阿武隈川原などに集まり、気勢を上げた。八郎の仲間たちの幾人かは既に桑折代官所に捕縛され、きつい拷問を受けていた。桑折代官所に捕まれば死罪の可能性もあった。これら悪徳商人たちと誼を通じた桑折代官から自分の命を守るため、八郎は自分の住む金原田村が所属する梁川代官所に出頭し、自ら進んで入牢の身となり、潔白を訴えた。一揆は福島藩や仙台藩白石城主の片倉氏の応援を得て、漸く鎮圧された。当時の江戸の瓦板や「信達騒動実記」には、八郎は「金原田村世直し大明神」と喧伝され、通称「金原田八郎」と呼ばれていたらしい。
 八郎は明治元年、官軍により釈放された。八郎が亡くなったのは明治21年1月2日である。76歳であった。
 八郎には『菅野実記』『判段夢の真暗』『あめの夜の夢咄し』『闇之夜汁』『小児早道案内』『八丈島物語』などの多くの著書がある。

 

 太宰清右衛門  だざい せいえもん 1828〜1864

 太宰清右衛門は保原村に生まれる。父は真綿糸問屋「淀屋」の26代文蔵。少年のころから剣道を好み、14才で刈谷藩土井大隅守家臣若林謙吉に師事する。
 菅野八郎の妻の実妹と結婚したが、妻と死別後、二女を残し、家業を弟の音五郎に譲り江戸へ出(25歳頃)、「淀屋」江戸店(本石町十軒店)の旦那(店長)となった。まもなく剣豪千葉周作の道場に入門、土浦藩家老大槻氏と知り合う。
 後、商売上の理由から、水戸家に近づき、大槻氏を介して水戸藩士竹内百太郎(仙右衛門、安食村〔現出島村〕)と親友となる。竹内の勧めで水戸藩に献金して郷士となった(竹内家の分家、25石取り)。安政2年(1855)6月、清右衛門28歳、元遊女せいと再婚する(せいは22歳、天保4年生まれ。越後の出身。竹内仙右衛門の養女)。竹内は熱心な攘夷論者であった。太宰清右衛門は強い影響をうけ、急速に尊皇攘夷思想に傾いていった。竹内とともに安食村近郷の郷校小川館の塾頭を務めるなどリーダー格でもあった。また太宰清右衛門を通じて菅野八郎と竹内の交流も始まり、八郎が水戸思想に染まる一因ともなった。


太宰碑  太宰清右衛門天達供養碑 仙林寺(伊達市保原町)

 安政5年8月、水戸家へ密勅。太宰清右衛門ら指名手配。清右衛門は逃亡。 安政7年(1860)3月、太宰清右衛門「桜田門外の変」に参加予定が遅刻して果たせず。8月、清右衛門ら薩摩藩へ意見書を出して、水戸に幽閉される。
文久2年(1862)12月、清右衛門ら許される。文久3年2月、清右衛門ら将軍上洛に随行する。元治元年(1864)3月、天狗党(急進攘夷派)が、幕府の開港策に反対して筑波山に挙兵(藤田小四郎、武田耕雲斎、竹内百太郎ら)。6月、天狗党、諸生党や幕兵と争う。10月19日、水戸天狗党の内紛による戦いの中、太宰清右衛門は絶望して、宍倉村の杲泰寺で自殺した。
 

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