中世奥州伊達氏の野望

 大進の局とその子貞暁、中村氏(伊達氏初代)の娘と孫

 大進局は中村入道念西の娘で、源頼朝の側室であった。息子貞暁が生まれたのは文治2年(1186)で、奥州合戦の3年前だった。合戦の前から中村氏と源頼朝は縁戚であったことになる。しかも男の孫が生まれたのだから、将来源氏の大将として期待される。将軍だって夢ではない。中村家ではたいへんなお祝いだったけれども、頼朝には正妻北条政子がおり、既に嫡子頼家も生まれていたから、北条政子とその一族の妬み嫉みは尋常でなかった。貞暁のお産も隠れ家で行い、子育ても同様だった。

 伊達氏の誕生 初代伊達入道念西と四人の息子たち

 源氏の棟梁源頼朝が大軍を率いて平泉の藤原氏を攻め下った「奥州合戦」。その前哨戦が伊達郡あつかし山の麓で展開された。文治5年(1189)8月のことである。10万の兵たちが二重濠を間にしてにらみ合い、戦った。この戦いで、源頼朝の配下の中村入道念西が四人の息子たちとともに信夫伊達の荘司佐藤氏を倒すなど大活躍した。頼朝軍の多さに腰を抜かした藤原氏勢が退散して、さほどの激戦はなかったようだった。最終的に藤原氏は全滅して平泉は陥落平定された。頼朝は褒美として中村氏に伊達郡を宛がったと伝えられる。後に中村氏は一族を引きつれ伊達郡へ移住、最初は高子岡城に居城したという。中村氏は姓を「伊達」とし、伊達郡地頭の地位を得たとされる。その後の伊達氏は子どもたち、孫たちを郡内各地に配し、村々の開発に当たった。石田氏、山戸田氏、桑折氏、伊達崎氏などが分流した。

 伊達氏の陰謀、貞暁将軍への夢

 貞暁は6歳のとき、京都の仁和寺へ入れられた。体よく鎌倉を追い出されたのである。仁和寺は天皇や公家の子どもたちが入る格式の高い寺であった。学問をするうえでは申し分のない環境である。貞暁は学問だけでなく武術にも励んだと思われる。
 やがて鎌倉では父頼朝が死に、次の将軍位に就いた長男の頼家はまだ若く、執権北条氏が実験をにぎる政治が続いたが、頼家が一人前の男になっても思いのままに将軍の仕事をさせてもらえない。反発する頼家に手を焼いた北条氏は頼家を引退させ殺してしまう。次に将軍になった実朝はさらに若かったが気弱で文学好きの実朝は将軍の仕事に興味がもてなかった。青年に達すると反発が手に負えなくなる。子の頃、北条氏は次の将軍候補として、頼家の遺児公暁や側室の子貞暁に目を向けた。
 一方伊達氏も自分たちの血をひいた貞暁をぜひ将軍に就けたいと密かに暗躍していた。承元2年(1208)3月、伊達氏の動きが執権北条氏に知られ、伊達氏と貞暁は命を奪われることとなった。北条氏の動きをすばやく察知した貞暁は高野山へ逃れた。高野山の行勝上人を頼ったのであった。伊達氏(宗村)は貞暁と京都で密会して相談し、若狭湾に面する「粟野」という里にいる親戚に匿ってもらった。
 それから10年後の建保5年(1217)2月貞暁は鎌倉に呼ばれ、北条政子と会った。翌建保6年2月北条政子は熊野参詣の旅に出て、高野山下の天野宮で貞暁とあった。このとき政子は「次の将軍になる心はきまったか」と貞暁に訊いた。貞暁は自ら潰した眼の眼帯を外して「このような片目の者が将軍になったら、誰が喜びましょう」と言って将軍を辞退したという。実は前年に鎌倉に貞暁を呼んだとき、政子は貞暁に話はしてあったのだった。貞暁は思った。「これで、伊達氏は安泰だ」「これで伊達氏は赦される」と。以後の伊達氏の隆盛を考えれば、この貞暁の判断は正しかった。
 なぜか総理大臣の椅子を断った伊東正義代議士が思い出される。この時代は北条氏に対し陰謀を企んでバレてしまい、抹殺されとしまった有力御家人が何人もあった。和田氏、畠山氏、平賀氏、比企氏、三浦氏しかりである。
 建保7年(1219)1月、将軍実朝と甥の公暁が殺された。予定通り殺されたと言っていいだろう。

 南朝方の砦、臨時の国府霊山城を死守   7代伊達行朝の野望

 南北朝時代初期、伊達行朝は白河の結城宗広とともに奥羽南朝政府(陸奥守北畠顕家)の要として活躍した。

 伊達郡から米沢へ進出  9代伊達政宗の野望

 室町時代前期、9代伊達政宗は梁川城に居城、刈田郡を経由して高畠から置賜へ進出した。米沢城主長井氏を攻略した。置賜へ臨済宗の東昌寺・観音寺など有力寺院を移した。

 伊達郡から太平洋へ   11代伊達持宗12代伊達成宗の野望

 室町後期、伊達持宗・成宗父子は梁川城に居城、置賜全域を平定し、伊具郡・名取郡へも進出した。置賜地方へ積極的に家臣団や有力寺院を移住させた。真言宗の龍宝寺などが移った。

 伊達郡から日本海へ   14代伊達稙宗の野望

 越後守護上杉氏との縁組をするなど、日本海に面する越後蒲原(現在の胎内市・新発田市・村上市)への進出を試みた。稙宗の息子を越後守護上杉定実へ養嗣子縁組をすすめた。また北蒲原の名刹乙宝寺の舎利を奪い、のち返還している。一方太平洋に面する相馬氏・留守氏などと縁戚となる。国分氏・秋保氏・粟野氏なども伊達氏の勢力下になった。さらにその北の大名大崎氏・葛西氏も伊達家と友好関係にあった。

 置賜米沢から奥州制覇へ   17代伊達政宗の野望

 会津の葦名氏、岩城の佐竹氏、山形の最上氏など有力な奥羽の大名たちと覇権を争い、ほぼ南奥州を手中にした。それは伊達氏誕生以来最大の領土であったが、豊臣秀吉に屈し、天正19年、先祖代々の故地伊達郡ほかを失い、大崎地方(今の宮城県域)へ領地替え(62万石)となった。しかし政宗は仙台城を中心に産業と文化を発展させ、実質百万石の大大名となった。

 

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