戦国大名伊達政宗の手紙

 戦国武将として文人として一気に天下人たちに近づいた伊達政宗の息吹き

 伊達政宗の手紙は数千通残っているという。この道の第一人者佐藤憲一先生によると、政宗の手紙は自筆書状がきわめて多く残され、その書風は芸術性が高く、武将の茶掛けとして茶人たちに最も人気があったらしい。

 手紙    伊達政宗の手紙  文禄3年5月29日 細川与一忠興宛

   

此中御見廻申度存候へともよきつとをと見合申内送日数、無所詮候、金雲透次第に以参謁、種々可得堅意候、恐惶謹言。
尚雲□□□仕候て、参可申入候、仍太閤様明日伏見へ御上洛之由申承候、但如何為御心得、如此候、かしく又申候、浅左へ便宜候、若御便書有間敷候哉、かしく
  仲夏念九蓂                        政宗(花押)
(捻封上書き)「 与一様人々御中           越前司
                                  政宗   」
  
 朝鮮へ出陣していた伊達政宗は、文禄2年(1593)閏9月に京都に戻った。翌年2月、28歳の政宗はかねて招待を受けていた太閤豊臣秀吉の「吉野観桜」に参加、並み居る大御所文人大名たちに伍して立派な観桜の和歌を詠んだ。政宗自筆のそのときの和歌が今仙台市博物館に所蔵されている。和歌の出来もたいへん良く、書跡もしごく流麗で、誰もが嫉妬したであろうと思われる。若いころ野蛮で残酷なイメージが強かった政宗であったが、教養や美意識は彼自信の努力で身につけたものと思う。もちろん年少時の英才教育の土台の上に築かれたものである。
 この手紙はそれから約三ヵ月後の自筆書状である。宛先の細川忠興(当時は丹後宮津城主、のち豊前小倉藩40万石を経て、肥後熊本藩54万石の藩主)とはよく気が合ったらしく、後に政宗は天下の名香「白菊」を譲ってもらい「柴舟」と名付けて家宝としている。「明日太閤様伏見へ御上洛」とある。金森出雲可重(飛騨高山城主)や浅野左衛門左氏重(甲斐府中城主浅野長政の家老で、秀吉と縁戚)の名も見える。
 このころの政宗は天正19年(1591)に米沢・伊達信夫等を召し上げられ、岩出山城へ移封されたばかりだった。自領へ帰る余裕もなく、新領地の経営も間々ならなかった中、政宗はおそらく仙台城築城の構想を練っていたに違いなかった。あるいは又、やがて来るであろう秀吉後や家康後の天下を想い描いていただろうか。

 手紙  政宗(花押)
 手紙 仍太閤様
 手紙  与一様(細川忠興)
 手紙  伏見へ御上洛
 手紙  金雲透次(金森出雲守可重、透き次第・・・)
 手紙  浅左(浅野左衛門佐氏重)へ

 

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