砂子堰・箱崎堰の歴史、調査報告

  いつ出来たのか、なかなか分かりませんでしたが、
      ちょっとばかり、真実が見えてきました。・・・

 文化3年(1806)1月、上保原、中村、市柳村の三村(いずれも伊達市保原町)が白河藩へ、阿武隈川流域の箱崎村(伊達市の旧伊達町)から取水する「箱崎堰」の建設を直訴しました。当時の保原地域は大半白河藩の分領となっていました。
 その内容(試案)は箱崎(あるいは向瀬上)の字亀ヶ渕(または字箱石)の阿武隈川に長さ50間の堰を設け、そこからから取水して、柱田村までの導水路4041間を築き、保原地域の水田を潤すものです。その工事人足は62000人かかる見通しという。費用は149両の見込み。建設の目的は広瀬川から取水している砂子堰の水不足を解消するためでした。砂子堰の水路は漏水が多く、流末の保原地域の水田は水不足となり、いつも困っていました。二日に一度しか水が来ないうえ、雨不足の年は苗や稲が枯れてしまう状況でした。
 この箱崎堰の工事が実際に行われたかどうか、分かっていませんでしたが、文化4年3月に箱崎村を訪れた白河藩の役人南合義之が、箱崎堰の水路跡が残っていると記しています。ただし、この水路跡が文化3年のものか、それより古い時代のものか(最初は上杉氏支配の慶長年間に箱崎堰が計画され、工事は失敗したらしい)、よく分かりません。南合氏によれば、曽てあったという箱崎堰の場所は、瀬上の渡(箱崎の渡)のすぐ上流、というより隣り合った場所だったらしいのです。

  所沢村(伊達市保原町)の「川辺溜井」建設は箱崎堰の代替案として計画された。驚きです!!!

 話は少し変りますが、このとき南合は、着工が始まった所沢村の「川辺溜井」の進捗状況を視察する目的もあって、雨降る中、夕方のころ所沢村を訪れています。実は南合こそがこの「川辺溜井」を発案した人物でした。保原地域の水田の水不足を解消するために、農民も代官たちも必死だったのです。この溜井工事の資金はすべて白河藩が出しています。言わば直轄工事で、農民たちに負担がないので、有り難いことでした。しかし、溜井の大きさは約2町歩(160間×38間)もあり、多くの水田や畑地を犠牲にしなければなりませんでした。犠牲になった田畑の税金は免除されますが、こういう場合考えられることは、農民たちが話し合って、所沢村で犠牲になった田畑の代替地を下流の下保原村などが引き受けたり、買い上げになったりすることがあります。また、この「川辺溜井」の下流の受益水田面積は溜井敷地の数倍以上なければ採算はとれないだろうと思います。「川辺溜井」のすぐ上流の富沢村の入口付近にも大きな「明夫内溜井」がありましたが、まだまだ水田用の水は不足していました。「明夫内溜井」は慶長年間に完成したと伝えられています。
 「川辺溜井」の建設で潰れた田畑の年貢が文化6年からすべて免除された記録が残っていますから、この年には溜井は完成していたと思います。「川辺溜井」の構想は梁川関波の広瀬川から堰揚げしていた砂子堰の水不足を補うためと、箱崎堰の失敗の代替案として浮上したと考えられます。

 箱崎堰   箱崎堰  
  箱崎堰が計画された推定場所 字箱石付近の阿武隈川   向瀬上の愛宕山からの撮影
      やや渇水の時期の写真。 岩盤が露出した河床が見える。ここは金鉱採掘の跡かもしれない。
      左の写真、堤防の向こう側の町並は瀬上。右の写真、奥から阿武隈川へ流れ込む川は摺上川。

 愛宕山  
    川向いの瀬ノ上地区から見た愛宕山の断崖
 瀬ノ上地区側から、やや赤色っぽく見えるこの断崖は自然崩壊したものとは思われない。人力で岩を崩して金鉱石を採取した痕跡であろう。なお愛宕神社鐘楼前には金鉱石を粉にする石臼が残されている最近、伊達氏初代の居城地は高子のほかに箱崎の愛宕山も比定され、注目されている。ちなみに、延宝3年(1675)の「伊達信夫回見覚」(伊達家寄贈文書、仙台市博物館蔵)に「瀬上之東大隈川之向ニ相見え申候赤キ山を高古と申候。御先祖様鎌倉より始而御下向被遊候時、此高古ニ被御座、鎌倉鶴岡より八幡宮をも御勧請被成候由申伝候。」とある。「高古=高子」である。阿武隈川の川中にある箱石なども、同様に金鉱石採取の跡であろう。なお箱崎愛宕神社の鐘楼前には金鉱石を粉にする石臼が残されている。

 さて、箱崎堰の話に戻りますが、農民たちの直訴が実って、文化4年4月に保原陣屋の役人が箱石堰の計画場所を下見検分に来ています。保原の村役人も同行しています。文化9年にも箱崎堰の検分が行われ、文化9年(1812)10月6日には新堰が完成成就して、その式典場所で大般若経があげられましたから、箱崎堰は本当に完成したとみられます。
 一方文政4年(1821)に箱崎堰を試みたとか、文政4年7月に箱崎堰の水路を掘り始めたたとか、文政5年2月陣屋代官が検分に来たとか、文政6年5月に工事請負がなされたとか、文政7年12月に箱崎堰の世話人を拝命したとか、等々の記録も散見されますから、文政5年のころに箱崎堰の工事は進められたようです。これらの記述は矛盾も感じますが、箱崎堰は失敗をくり返しながらも続けられたと考えるべきかもしれません。明治初期に箱崎堰の工事が再々計画され実行されたのをみると、文化文政期の工事は完全には成功しなかったのでしょう。それにしても莫大な費用がかかった筈です。その費用は豪商(主に中村の升屋惣右衛門)の喜捨があてがわれたようです。

 砂子堰大改修計画、その失敗と砂子新堰組・古堰組の誕生

 同じころ、砂子堰の水不足を解消するために、砂子堰そのものの大幅な改修工事も計画され、実行されていました。天保3年(1832)に計画された大工事で、広瀬川の取入れ口の堰(泉沢村の向い関波村地内)を上流300間(山野川村地内)に築きなおすものです。保原方面の水田により多くの水を導くために考案され、上流へ堰を移動したと思われます。この砂子新堰の工事の願書はまず最初に天保3年8月に上保原村・市柳村・中村・下保原村・二井田村・柳田村の村役連印で白河藩分領の保原役所へ出されました。同年9月には幕府料の桑折役所支配の村々から同様の工事願書が桑折役所へ出されました。これらの願書によれば、既に試し掘りをして成功の見込みを得たこと、来年の水田に間に合わせたいこと、村人が時分たちの出費で行うことなどが書かれています。農民たちの熱意のほどが伝わってきます。この計画には梁川町大関地区にある「片貝山」の腹に切通を掘る工事も含まれ、ここは硬い岩山で、たいへんな難工事でもありました。農民たちの工事負担金も大変でした。しかしこの工事は水路の高低差を間違え、水が途中までしか行きませんでした。それで、結局保原地域の村々は元の水路を使用することになり、水路の修理費などが嵩み、揉めました。梁川地域の村々は新しい堰から取入れた水を利用しました。保原地域は古堰組13村と称し、梁川地域は新堰組4村と称して、それぞれで水路の管理をすることになったのです。

 砂子堰大改修の完了、新堰組と古堰組の合併

 弘化3年(1846)になると、この問題を何としても解決しようとして立ち上がった人がいました。二井田村(現伊達市保原町二井田)の農民舟山庄三らでした。半田銀山に関わった早田伝之助の協力で、銀山技師から測量技術や採掘技術の指導協力が得られ、片貝山の切通水路建設工事は、保原方面まで通水し、今度は成功しました。工事は関係する村々の協力同意が得られて進められたことは勿論です。当時の砂子堰再工事願書には、この工事は「万代不易の宝と為すべき大切な揚水」になること間違いなしと訴えています。また、現場に詰める堰役人は弁当持参のこと、酒は禁物のことはもちろん、諸費用がいくらかかってもこの工事は途中で止めないと、誓い合っています。素晴らしい結束力です。完成したのは弘化5年でした。かかった費用は1500両と言われます。それらの大金は伊達郡東根地域の豪商たち(おもに舟山庄三、大石儀三郎、村上藤七、池田善兵衛、熊坂卯右衛門、鈴木長蔵、早田伝之助ら)の喜捨奇特金で賄われました。おそらく1人100両単位のお金が拠出されたことでしょう。これらの方々は当時主に生糸や真綿の販売で巨利を得ていたと想像されます。その後、砂子堰はさらに改修され、嘉永4年(1851)に古堰組と新堰組は合併しました。堰の修復完成を記念して、協力者たちを顕彰する記念碑の建立が計画されましたが、諸般の事情により、実現しなかったのはまことに残念でなりません。どういうわけか、この地域は功労者を顕彰する気質が低いようです。そもそも最初に遠大な砂子堰を築いた人々の顕彰する碑もまだ建っていませんでした。

 再々箱崎堰の計画と着工

 明治8年(1875)3月、関係10村で箱崎堰の建設が試みられました。長さは3150間。明治8年10月、箱崎堰の一部が完成し、通水が行われましたが、水が途中で逆流して、断念したといいます。その後、明治10年ころ、オランダ人技師ファンドールン氏に指導を仰ぎましたが、高低差のため、無理との結論が下されたといいます。
 明治14年12月、関係17村で箱崎堰の工事再開願が出されました。長さは3550間。残念ながら、この計画も失敗しました。

 電力揚水による箱崎堰の成功

 明治40年に保原町に伊達電力会社が創立されたのに伴い、電力により大型ポンプで揚水する計画が出されました。
 明治42年、砂子堰組合が箱崎堰の阿武隈川からの電力揚水を決定しました。
 明治45年、その起工式が行われました。費用は 97,000円、水路の長さは4117間でした。国の補助金も導入されました。
 大正3年、電力揚水による箱崎堰が完成しました。二箇所にポンプが設置されました。箱崎第一揚水場に90馬力2台、大柳第二揚水場に45馬力2台です。しかしながら、電気料金の高騰などから、この箱崎堰は廃止を余儀なくさせられました。

 自然分水流による阿武隈川東根堰の完成へ

  次に昭和5年に福島市の蓬莱の阿武隈川にある信夫発電所から自然分水する東根堰のが計画着工され、昭和19年に完成しました。十分な水が常に確保されるようになり、もうほとんど保原地方の水不足の心配はなくなりました。これにより、箱崎堰の役目は終了しましたが、箱崎堰の旧水路はほぼそのまま活かされました。東根堰は想像を超える水路の長さです。福島市の向鎌田の工業団地から保原の大柳までは特に長いトンネルが掘られました。戦時中の工事で困難を極めたといいます。死者も出ました。保原町の大柳地区には大きな円形の水槽が造られ、ここから箱崎方面と保原・柱田方面へ分水しています。この水槽は通称「丸タンク」と呼ばれ、親しまれています。当時の人々の喜びは相当なものでした。これを計画した方々の功績はたいへんに大きいと思います。丸タンクの場所に大きな記念碑が立っています。
 なお、当初の計画では、一旦高子沼に導水してから、沼から各地へ分配する計画でしたが、高低差から断念したと伝えられています。
  

  いろいろと、ご意見等をお聞かせください
  調査はまだ続きます・・・。

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