伊達政宗の会津攻めと奥羽仕置き

奥州の覇者伊達政宗24歳、豊臣秀吉に屈す
     会津などを攻め獲るも没収、伊達政宗領は半分になる

 天正17年6月、伊達政宗は摺上原の合戦を制し、会津の葦名氏を攻略した後、10月、須賀川の二階堂氏の内紛に乗じて、須賀川を手に入れた。伊達氏の領域はほぼ福島県中通り・会津、山形県南部、宮城県中南部に及ぶ広大な地域となった。
 天正18年(1590)1月、政宗は会津黒川城で新年を迎え、連歌の席で「七種を一葉によせてつむ根せり」と詠んだという。七種とは安達・田村・安積・岩瀬・石川・白河・会津の七郡をさすという。伊達氏歴代の中で最大の領土となった。
 しかし、政宗の会津侵攻は秀吉の私闘禁止令に叛くものだった。秀吉は政宗の葦名攻めを非難、説明を求めてきた。政宗は弁明の書状を送ったが、秀吉には通じなかった。秀吉はしきりに小田原参陣を求めた。天正18年5月、政宗は漸く小田原参陣を決意、黒川を出発し、6月5日政宗は白装束姿で小田原に着いた。政宗は厳しい詰問を受けた。その結果、政宗は会津・岩瀬・安積の三郡を没収された。長井・伊達・信夫・二本松・塩松・田村などは安堵された。7月、政宗は居城を黒川城を明け渡し米沢城へ帰った。伊達氏領は46万石余となった。
 小田原の北条氏の征伐が済むと、7月下旬、秀吉は会津黒川へ向かった。8月9日秀吉は政宗から没収した会津・岩瀬・安積の諸郡に加え、白河義親と石川昭光から没収した白河・石川の諸郡すべてを蒲生氏郷に与えた。蒲生氏(黒川城主)領は70万石となった。さらに大崎・葛西地方を豊臣秀吉の臣木村吉清清久父子に与えた(奥州仕置き)。10月、葛西・大崎地方の各地で大崎氏ゆかりの者たちが一揆を起こし、木村らを佐沼城に包囲した。豊臣秀吉は一揆の鎮圧を蒲生氏郷と伊達政宗に命じた。政宗の功により、一揆は11月28日に平定したが、この間、政宗が一揆を煽動しているとの噂が流れたり、政宗謀反の証文を蒲生氏郷のもとへ持参したものがいた(11月15日)。諸説あるが、持参したのは政宗の右筆山戸田八兵衛(伊達郡山戸田城主)と牛越宗兵衛であった。政宗不穏の声が蒲生氏周辺から消えなかった。後日、秀吉の前で詮議を受けた政宗は、証文は偽物で、自署花押のセキレイ形の眼に針穴が開いていないと主張し、言い逃れたという。

伊達政宗の転封と新領地
    政宗、本領伊達郡などを奪われ、岩出山城へ去る

 天正19年(1591)閏1月27日、伊達政宗は清洲城で豊臣秀吉に謁見した。さらに2月4日政宗は死に装束で入洛し、無実を訴えた。このとき政宗の更なる領地没収は確定的だったが、実際には8月〜9月のころになって、政宗の所領は残る信夫郡・伊達郡・刈田郡・長井郡などの伊達氏本領ともいうべき地所が没収された。比較的新しい伊達氏領である黒川郡・宮城郡・名取郡・亘理郡・柴田郡・伊具郡等は安堵された。そして新たに木村吉清領であった葛西大崎地方の十二郡が政宗に与えられた。伊達政宗領は現在の宮城県、岩手県南部、福島県相馬市宇多の地域になった(62万石)。政宗は居城を米沢城から岩手山城へ移した。政宗旧領の伊達・信夫・長井などは若松城(黒川城)主蒲生氏郷に加増された(92万石)。伊達氏の支配がほぼ400年続いた故地の伊達郡・信夫郡を失った伊達政宗の恥辱はいかばかりであったろう。
 この年の秋ころ、政宗が蒲生氏郷暗殺を計画していると氏郷に密告した者がいた。密告したのは政宗家臣の須田伯耆(伊達郡月見館城主)であった。氏郷は一揆同心の首謀者たちを斬首や張付けにしたという。須田伯耆も前述の山戸田八兵衛も文禄3年(1594)の蒲生高目録に本領を安堵されており、事実であったことを裏付けている。

岩出山城  岩出山城跡

岩出山城  岩出山城本丸跡

 それにしても伊達政宗は、伊達氏誕生の地伊達郡を失ってしまった大ばか者である。400年もの間の長きにわたって支配してきた我が家ともいうべき故地を取り上げられてしまった。戦国の習いといえばそうであるが、どれほど悔しかったことだろう。政宗は、いつか奪回しようと心に決めていたことは間違いないであろう。幸い、伊達領は柴田・名取・亘理・伊具まで確保されている。伊達郡は伊具に接する隣郡である。柴田からは刈田郡を挟むだけの距離である。必ず奪回のチャンスは来る、政宗は確信していたと思われる。

伊達政宗、故地奪還のため伊達郡へ侵攻するも、連戦敗北
    伊達家の家紋入りの陣幕を須田長義に奪われる

 慶長3年、蒲生氏郷は転封され、越後から上杉景勝が会津若松に入城した(120石)。
 慶長5年(1600)7月、政宗は関が原の合戦の最中、刈田郡の白石城を攻め取った後、10月、伊達氏の故郷伊達郡と信夫郡を奪回すべく軍を進めてきた。阿武隈川の支流松川を越えて福島城へ攻め入ったり(松川の合戦)、大枝城などに陣を置き、梁川城などを攻めた。しかし梁川城代須田長義、福島城代本荘繁長らの抵抗が強く、夢は実現しなかった。このとき政宗の負け戦さの話が伊達郡に面白可笑しく伝わっている。家紋入りの伊達家の陣幕を須田氏に奪われたこと。政宗に傷を負わせたこと。政宗が摺上川沿いに逃亡したこと。臼に身を隠して助かったことなど。在郷の農民たちは政宗に味方する者も多く、上杉方に味方する者もいた。
 政宗は徳川家康と、上杉景勝を関が原の合戦へ参加させないよう牽制する約束をし、成功したら伊達郡を含む旧領約50万石を安堵する旨の書状をもらっていた(この状は百万石のお墨付きといわれている)。しかし加増をされたのは自分が攻め取った刈田郡だけで、百万石の約束は反故に終わった。実はこのとき政宗が攻め獲った領地は刈田郡だけではなかった。伊達郡の五十沢村の東端部の冥加・高丸・大坊木など五部落が伊具郡耕野村などの地侍たちに占領され、奪還されることはなかったのである。彼らは「馬上拾壱騎」と呼ばれ、仙台藩から長く厚遇された。

伊達政宗、仙台城築城

 慶長5年12月、伊達政宗は仙台城築城を開始、同8年には仙台城に入城した。同年には町の移転もほぼ完了したという。「仙台」の地は元は「千代」といった。政宗が築城にあたって改めたという。なお、仙台藩の開始は仙台城が築かれた慶長5年ないしは慶長8年と考える人もいるが、天正19年の岩出山城時代から含めるべきであろう。

月見舘と須田伯耆  ----伊達政宗を裏切る----

 月見舘(伊達市月舘町)は広瀬川と布川に挟まれた天然の要害である。本丸跡・二の丸跡・三の丸跡・空堀跡がある。南側の真徳寺付近が大手門跡と見られる。戦国期に須田伯耆が居城したと伝えるが、それ以前の城主は不明である。須田はもと須賀川二階堂氏の家臣須田美濃守の一門で、のち伊達輝宗家臣となり、大波大膳(大沼大膳ともいう)の家中に属したという。須田は天正12年(1584)10月、伊達輝宗に殉死している。
 須田伯耆の息子(伯耆を襲名)は、天正19年(1591)秋、旧伊達政宗領内で蒲生氏郷攻撃が計画されていることを蒲生方に密告したことで知られる。父の殉死のことで伊達政宗の処遇に不満があったという。蒲生氏郷は首謀者たちを斬首や張付けにした。須田伯耆はその後蒲生家臣となり、文禄3年(1594)蒲生領高目録に、糠田などを領しているのが知れるから、その後も月見館に居館したと見られる。須田伯耆は上杉方として最上攻めに参加しているから、慶長3年に蒲生氏の後に入部した上杉景勝の家臣になったと見られる。
月見舘  月見舘跡遠望(伊達市月舘町)

月見舘  月見舘本丸跡

大条館と山戸田八兵衛   ----伊達政宗を裏切る----

 天正18年(1590)11月、葛西大崎一揆のとき山戸田八兵衛と牛越宗兵衛は密かに伊達政宗謀反の証文を蒲生氏郷のもとへ持参した。のち二人は蒲生氏郷に召抱えられた。ただ後の豊臣秀吉の御前での詮議で、この証文は政宗の花押の鶺鴒に眼があいていなかったので偽物と断じられ、政宗の罪は一応赦された。この申し開きに失敗していれば、政宗の首はなかったろうと言われる。政宗の用心深さを物語る一件である。山戸田八兵衛と牛越宗兵衛は政宗の祐筆であったというから、なお更である。
 天正19年に伊達郡等は伊達政宗から没収され、蒲生氏郷領に組み入れられた。主家の伊達家を裏切った山戸田八兵衛は文禄3年(1594)の「蒲生領高目録」で山戸田村と大石村など2千石を領している。かなりの厚遇である。
 山戸田八兵衛が居館していた城は不明であるが、山戸田の大条館(伊達市霊山町)や本館がそうであるともいう。山戸田の熊野山にある熊野社は大条館主山戸田八兵衛信教の子信吉が建立したという伝えもある。

大条舘  大条館跡(伊達市霊山町山戸田)

熊野神社  山戸田 熊野神社

高子沼の金精錬所跡

 昭和の初期、高子沼(伊達市保原町)の底から中世のものと見られる鉱石粉砕用石臼や廃鉱石が多数出土しており、かつて金鉱石の精練所跡があったのは事実である。近在には当時の鉱夫の子孫と見られる人々も残っている。天正19年(1591)伊達政宗が豊臣秀吉に伊達郡を召し上げられたとき、政宗は土手を築いて沼とし金の精錬所跡を水没させ、隠したという伝説がある。沼の周辺の山々には金鉱山の坑口が残っている。この沼には産金にまつわる昔話も伝わっている。
 一帯は江戸中期に高子の熊坂氏が創始した名勝「高子二十境」の地でもある。
高子沼  高子沼(伊達市保原町)

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