熊阪助利の遺訓  

  熊阪助利は伊達郡保原の中村の豪商として知られる。助利は正徳2年(1712)の生まれ。梁川藩松平氏三万石の御用達も勤め、江戸と伊達郡を往復することも多かった。商才に長けていただけでなく、学問にも優れ、更に人間味豊かな人物であった。豪放磊落の性格もあった。魅力いっぱいの人物であるが、欠点が一つあった。それは、時折見せる強引さであった。
 可哀そうに、若いころの助利は10歳代で父と末弟を亡くし、20歳代で祖父と次弟を亡くした。次弟太治右衛門には幼子二人がいたので、若い母親エンとともに自宅に引取った。兄の多作は後に助利の跡を継ぎ、太左衛門と称した。弟の四郎は後に隣村に別家を構えさせた。助利は出戻りのエンを、すぐに江戸の親友児島定悠に娶せて婿とし、男子が生まれた。定悠はこの子を寺に入れた。すると助利はこれに大反対、強引に寺から連れ帰り、養子にしたという。助利はこの子に自分の幼児名「千載」を与えた。定悠と妻エンは助利家を出た。千載は後々高子村へ引っ越し、卯右衛門と称した。18歳で亡くなった叔父太七の遺骨を長谷寺から高子に移した。すべてが助利の為せしことだった。助利は弟太七の後継として、卯右衛門を別家したのである。これらの他に、早くに、父が引取っていた家族がいた。それは次姉が嫁いだ秦平助が早くに死去し、男子一人が残され、この母子を引き取ったいたのだった。この男子豊重は助利より一歳若く、兄弟のように育った。助利を一番支えたのは豊重だった。
  助利には男子が一人いた。義州である。相当な学識を有しており、早くに僧籍に入り、高子に庵を結んだ。「一子を棄て僧と為す」と伝えられるから、かなりの高僧に見込まれて家を出ざるをえなかったと推量される。壮年~晩年に義州は佐野の本光寺、広島の曹洞宗国泰寺へ転住、国泰寺13世住職となっている。国泰寺は浅野家の菩提寺で、かなりの大寺である。「広島市史」社寺誌「国泰寺」の項に「国泰寺十三世 開田義洲 宝暦七年十二月一日~同九年九月十八日寂」とある。
 卯右衛門は後に「高子二十境」を創始する熊阪覇陵その人である。助利は覇陵の養父にあたる。
 

 ふくしまの偉人、熊阪助利

 熊阪台州はその著「信達歌」の中で、信達を代表する偉人の一人に熊阪助利を挙げている。身内だから、挙げたのではない。それは彼の活躍をみれば誰もが納得する。ここでは略すが、松浦「高子二十境」に詳しい。なお、「信達歌」は文化面での偉人に重きがあり、産業界で貢献した人物が挙げられていないのが残念である。例えば私財をなげうって阿武隈川の舟運を完成させた渡辺友以などは無視されている。

  熊阪助利墓 熊阪太左衛門助利の墓 (保原 長谷寺)

 熊坂太左衛門助利の遺訓

誠者天之道也。誠之者人之道也。天之於誠、四時行焉、百物生焉。
人之於誠、出処当焉、語黙得焉。千変万化、無非誠矣、其誠之明。如此、則君子也。
如不明誠、則不能知道。失於出処、失於語黙、
人不知而慍、時不至而憂、夫如是。
即於其身無安、於其心无楽、
是孟子所謂、行之而不著焉、習矣而不察焉、終身由之而不知其道也。
学者其可不明誠乎哉。
    正徳壬辰孟冬初五               熊阪助利誌
  蓋正徳壬辰、距今此享和壬戌、凡九十一年矣。
  而今尚蔵在家。墨跡淋漓、筆力遒勁。可以想見其為人云。

   (熊阪台州著「道術要論」第二十九所収、享和2年稿)、松浦丹次郎「高子二十境」所収
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    (解釈文)
誠は天の道なり、之を誠するは人の道なり。天の誠に於けるは、四時、行うところ、百物が生ず。
人の誠に於けるは、出処当たるところ、語黙を得る。千変万化、誠非ざる無し。其れ之を誠するは明なり。此の如きは、則ち天子なり。
誠に明ならざる如きは、則ち道を知る能わざるなり。出処を失い、語黙を失う。
人は知らずして慍み、時至らずして憂う。夫れ、是の如し。
即ち其の身に於いて安無く、其の心に於いて楽なし。
是れ孟子の所謂る、之を行ひて著しからず、習ひて察せずは、終身、之に由りて、其の道を知らざるなり。
学ぶは其れ誠を明ならざるべきか、いやそうではない。
   正徳壬辰(正徳2年) 孟冬(11月) 初五(5日)        熊阪助利誌るす。
 蓋し、正徳壬辰は今此れ享和壬戌(1802享和2年)を距てること、凡そ九十一年、
 而して、今なお蔵して家に在り、墨跡淋漓 筆力遒勁、以て其の人と為りを見て想うべし。云々。

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  ※正徳2年(1712)、助利 42歳のときの書である。   ※助利、正徳2年(1712)生、元文3年(1738)死去(68歳)。
  ※享和2年(1802)に熊阪台州が「道術要論」の中に記した文である。90年前に助利が書いた家訓を紹介している。

 ◎太左衛門助利は、孔子や老子の言葉をひいて、人生訓を述べている。太左衛門助利は人の道として「誠」を最も重要であると考えている。「誠」なくしては、人生に「安」も「楽」もない、と説いている。

 ・出処…外へ出ること、家に居ること。・出処語黙…(外へ出て)しゃべり、(引っ込んでは)黙ること。
 ・慍にくむ … いきどおる。腹を立てる。不平不満をいだく。
 ・遒勁しゅうけい----力強い。立派である。 ・筆力遒功----筆の運びが力強いこと。
 

 ※「高子二十境」と熊阪覇陵についてはこちらをご覧ください。 →  高子二十境

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