梁川藩と梁川陣屋の支配の変遷  

       【 】藩名  《 》幕料代官所名  〈 〉城代・出張陣屋名
           (支配の中には預かり支配も含む)

天正19年〜 蒲生氏【会津】〈梁川〉
慶長3年〜 上杉氏【会津、米沢】〈梁川〉
寛文4年〜 幕府領《福島》
延宝7年〜 本多氏【福島】
天和2年〜 幕府領《桑折》〈梁川〉
天和3年〜 松平氏【梁川】
享保14年5月〜 幕府領《岡》
享保14年8月〜 松平氏【梁川】
享保15年11月〜 幕府領《岡》
延享4年〜 井上氏【磐城平】〈梁川〉
宝暦6年〜 安藤氏【磐城平】〈梁川〉
安永7年〜 幕府領《川俣》
寛政2年〜 安藤氏【磐城平】〈梁川〉
享和3年〜 幕府領《桑折》
文化4年〜 松前氏【梁川】
文政4年〜 幕府領《浅川》〈梁川〉
安政2年〜 松前氏【福山】
慶応4年〜 明治新政府

 梁川城 梁川城本丸跡苑池

 浅間神社 梁川城本丸跡にある浅間神社

 浅間神社 浅間神社の説明板

 城地図
   赤線部は県指定の範囲。西二の丸の表示は西三の丸をも含めてある。


 幕料梁川陣屋

 幕府の領地を江戸時代の当時は「幕料」といった。「幕領」とは言わない。「天領」と呼ぶ人もいるようだが、この称は明治以後の呼び名だそうである。幕料梁川陣屋は松平時代の陣屋を使用した。江戸中期〜後期頃の梁川陣屋の規模は約100m四方の広さであった。陣屋内には屋敷神として稲荷社が祀られていた。陣屋、腰掛、役人長屋、土蔵などの建物や井戸があった。周囲は土手と堀に囲まれていた。現在、元陣内地区に残る稲荷神社と苑池は当時のものと思われる。

 稲荷神社 梁川町元陣内にある稲荷神社

 池 梁川町元陣内に残る苑池

 梁川陣屋の広さ

   元文5年村明細帳   60間×53間(1間=1.81メートル)
   寛政元年陣屋絵図   65間×58間

 梁川城の広さ

   元文5年村明細帳   本丸54間×47間
                  大学館50間×20間
                  但し総体新田百姓持切に御座候

 梁川城代蒲生氏

 天正18年(1590)に蒲生氏郷が会津に配され、翌天正19年には信達や長井も蒲生領となった。福島城には木村伊勢守が着任した。梁川城には最初誰も配されなかったが、後に塩川城代蒲生喜内(6000石、のち13000石)が着任したといわれる。

 梁川城代須田氏

 慶長5年(1600)4月に須田大炊介長義が梁川城代に就いた。慶長3年4月に主君上杉景勝が会津へ転封されたとき、森山城代となった。家禄は二万石であった。外に同心分として3300石を給された。慶長6年の上杉氏減封の際、6666石に減らされた。越後時代は信州海津城主や魚津城主だった。父の満親は12000石を給された重臣。長義は若き豪腕として知られ、伊達政宗に対峙する梁川城を守備するため抜擢された。期待された通り伊達政宗軍を撃退した。大坂夏の陣でも活躍した。長義が元和元年(1615)に死去したとき須田家に揉め事があり、子の相模守秀満は梁川城代になれず、米沢府付とされた。禄は2000石であった。代わって梁川城には城番が置かれ、香坂太郎左衛門らが任じられた。禄は300石であった。秀満は寛永20年(1643)に赦されて漸く梁川城代に赴任した。明暦2年(1656)に秀満は本丸内にある富士権現宮(浅間神社)を修営している。寛文4年(1664)に上杉氏が15万石に減封され、信達地方を没収されて、梁川城代は廃された。

 松平氏梁川藩

 天和3年(1683)8月4日、尾張徳川光友の三男(実際は長男であるが、側室の子であるため三男とされた)である松平出雲守義昌が三万石で梁川に封ぜられて、梁川藩が成立した。梁川・保原地方の三十村を支配した。地方が引き継がれたのは天和3年11月であった。松平出雲守義昌は江戸大久保に屋敷を構えたので、大久保松平家とも言われた。梁川藩は二代義賢を経て、三代義真のとき、享保14年5月、嗣子なきまま病死したため、除封となり、廃藩となった。このため幕料(川俣)代官小林又左衛門が30村を一時預かった。しかしすぐ、享保14年(1729)8月、尾張藩徳川綱誠の七男松平主計頭通春が梁川三万石として迎えられた。支配の村は梁川保原地方の同じ30村であった。しかしまた、尾張藩主徳川継友(通春兄)が急死したため、通春が享保15年(1730)11月尾張藩を継いだ。このため梁川藩は再び廃された。幕料(岡)代官会田伊右衛門が30村を一時預かった。通春は名を宗春と変えて尾張藩62万石の七代藩主となった。徳川宗春は将軍徳川吉宗と張り合ったことで知られる。吉宗の倹約政策に対して宗春は積極的な商業主義を展開した。今でも名古屋は宗春の心意気を継承していると見る人が多くいる。宗春は将軍吉宗から蟄居謹慎を命じられ、死後も墓石に金網を被せられていたという。
  名古屋城   宗春墓 

       名古屋城                     徳川宗春墓(名古屋市)

 松平氏梁川藩は藩庁として上杉時代の西三の丸に置いてあった幕料陣屋(「元陣内」と呼ばれている場所)を利用した。支配は奉行・目付・代官らが赴任して行った。藩主の公邸が造られなかったことも理由の一つになるかもしれないが、藩主の松平氏は一度も梁川などへ領内巡視に来なかった。称名寺の毘沙門堂は松平家の位牌堂として営まれていた。ただし松平家が領民との接触がなかったわけではない。領民たちの代表(割元役で郷士の堀江家)や藩御用達商人ら(熊坂太左衛門)は江戸屋敷へ出入りしていた記録がある。
 上杉氏上知後の幕料支配の約20年間と松平藩政の約47年間、梁川城本丸は使用されなかった。さらには、幕末の文化4年(1807)に松前氏が梁川城に居城するまでの140年間も(岩城平藩分領時代を含む)、本丸等は使用されなかった。この間本丸は開墾されて畑地になっていた。

  毘沙門堂 称名寺毘沙門堂(伊達市梁川町)
 

  徳川の威力、梁川藩助郷役免除

 奥州街道の人馬役は街道宿駅の義務であったが、これらの負担は宿駅の村ないしはごく近隣の村々が行っていた。しかし次第に交通量が増えてきたために負担に耐えられず、江戸中期に信夫郡・伊達郡内に広く公平に負担させようとしたことがあった。このとき郡内180村の中で梁川藩領内の30村だけは徳川家のご威光を憚って特別に免除された。これが、後々の助郷紛争の原因の一つになっていたことは、あまり注目されていない。庶民たちが「徳川のご威光」に自然に納得している姿に、ご威光の威力の大きさが感じられる。幕料川俣陣屋支配之村々も助郷役を免除されていた。奥州街道から遠方の村だから、その理由は納得がいく。しかしその後、福島藩や梁川藩が解体され、あるいは白川藩保原陣屋が出来たりすると、信達の村々は宿駅から遠い村も近い村も同じ陣屋に所属するようになり、宿駅人馬の助郷負担に不公平が如実におこり、人々は公平な負担を求めて、訴訟をおこし、代官たちと集団で対峙することが多くなった。これらの訴訟は助郷だけでなく、年貢負担や村役人の不正などに対しても、かかんに集団で交渉することがたびたび見られた。百姓町人たちの自意識は次第に高められつつあった。これは全国的な傾向といえる。農民たちは一線を越えて、打ち壊しへ走ったこともあった。

 松前氏梁川藩・松前氏福山藩分領     箱崎村の忠義の馬の話

 幕府は北辺警備不安のため蝦夷島の直接支配に踏み切り、松前氏の転封を決意した。その結果、文化4年(1807)に蝦夷島福山藩(松前藩)松前若狭守(伊豆守)章広が奥州伊達郡梁川9千石に封ぜられ、梁川城本丸に藩庁を造営した。込高をあわせて実質1万8千600石余であった。経済豊かな福山藩にとって、これはかなりの冷遇であった。福山藩の実力は7万石というから、多くの家臣たちに召し放ちをするしかなかった。梁川へ移住した家臣は三分の一の93人であったという。支配村は伊達郡梁川村など6村と常陸国内28村・上野国内9村であった。家臣と家族を引き連れての梁川移動だったので、大変な苦労があった。第一梁川は長い間城主不在の小さな町だったので、城主の住まいや役所、家臣たちの住まいを最初から建設しなければならなかった。福山松前氏は北方交易で潤っており、家臣たちの屋敷でさえかなりの豪邸だったらしい。のちのち重臣たちが大っぴらに福山復帰運動を展開したのも頷ける。家老は蠣崎広年であった。彼は当時既に名高い絵師でもあり、雅号を波響といった。
 藩主松前章広の父道広は隠退していた、梁川の地で余暇を楽しむことも多かった。道広は江戸でも松前でも文人諸侯と交流があり、梁川の地にあっても彼らとの交流は続いたと見られる。なかでも戯作者の滝沢馬琴とは親しく、馬琴の著作にもときどき松前道広の名が散見する。道広は書もよくし、梁川の興国寺に掲げられている「興国禅寺」の扁額は道広の筆で、美事な字である。
 松前道広は馬にも大いに興味があり、梁川時代の文政元年10月、箱崎村の松五郎の愛馬について記している。馬は五歳の青毛で、二十歳の松五郎が可愛がっていたが、突然松五郎は病死してしまう。松五郎はねんごろに供養し埋葬された。親の伝兵衛は一人息子を亡くして、嘆き悲しみはいうべくもなかった。ところが数日後の夜、この馬が突然あばれ逃げ出した。家族や近所のひとたちが追いかけると、馬は松五郎の墓の前で墓泥棒たちを蹴散らしていたという。泥棒は金目の物がいっぱい埋葬されたと思い、犯行に及んだという。松前道広はこの話を耳にし、家臣にこの馬をいくらのお金を出してもいいから買上げてくるよう命じた。しかし親の伝兵衛はそれだけはご勘弁してくださいと断ったという。またこの翌年のこと、梁川の近村で駄馬一匹をもち、農耕の合間に荷物や人を運ぶ仕事をしていた者がいた。従順な馬でよく働く馬だったという。ところがある夏の日の帰り道、急に馬が暴れ嘶き、主の身のあちこちを咬みちぎり、血を吸ったという。馬は林の方へ逃げたのを、通りかかった武士が追いかけ、鎮めて木に繋いだ。亡くなった者は丁寧に葬られたが、馬は大穴に生きながら落とされ、皆に竹槍で刺されて浸んだという。忠義の馬もあれば、孝行馬も急に狂い暴れることもあるという教訓であろう。松前道広はどちらの馬の話も家臣に聞き取らせた。そして親友の滝沢馬琴にも書き送ったのであった。そのためにこの話は馬琴の著「兎園物語」として現代の世に残されたのである。
 藩主や重臣たちの願いがかなって松前氏が福山に復帰したのは文政4年(1821)のことであった。
 しかしまた、安政2年(1855)になると、福山城下のある渡島半島南西部だけを残して蝦夷地をふたたび召し上げられた。そして伊達郡梁川9千石と出羽村山郡2万1千石、合わせて3万石余(込高を含めると4万石余)を加増され、さらに村山郡尾花沢1万4千石を預かり所とされた上、毎年1万8千両が手当金として貰える好条件であった。梁川には奉行や代官以下が派遣された。


箱崎村松五郎の忠孝の名馬


   ●お問い合わせは  伊達の香りを楽しむ会

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