国史跡名勝「霊山」(りょうぜん) 
    山上の大寺院霊山寺と南朝方の拠点霊山城 
 

          ・・・ 福島県伊達市霊山町大字石田・大石地区、相馬市玉野・・・

 その歴史と魅力

 美しい紅葉で知られる霊山。透き通った紅葉色が、切り立った凝灰角礫岩の黒褐色のごつごつした岩肌によく映えて、ただただ見とれてしまう。仙人が住むような世界を感じさせる。標高850m。このくらいの低い山でも、どんな高所の山の紅葉にも負けないから、不思議である。日本一と言っても過言ではない。新緑の季節も同様である。秀峰という名に相応しい。
 「霊山寺縁起」によれば、山上にはかつて慈覚大師が開山したという霊山寺があった。三千六百坊を擁していたともいうから、大伽藍であった。南奥州の天台密教の中心であったと考えられる。今は山上の処々に大きな建物の礎石が群をなして残り、当時の名残りを留めている。後醍醐天皇の皇子義良親王(陸奥国大守、後の後村上天皇)、北畠顕家(鎮守府将軍)らは建武4年(1337)1月8日国府多賀城を棄て、霊山寺(霊山城)に移った。ここに霊山城は南朝奥州政府の重要な基地(国府)となった。しかし霊山城は貞和3年(1347)8月ころに落城、霊山寺の建物群も全焼したといわれる。昭和9年5月1日、国史跡名勝に指定。

 国司館 霊山館跡
伝国司館跡に残る礎石列    伝霊山城跡に残る片付けられた礎石集
 霊山城之碑   義良親王霊山在御蹟碑
   霊山城之碑 明治21年   義良親王霊山在御蹟碑 明治22年
 風景写真 風景写真

 風景写真
        国司沢、護摩壇、紫明峰などの秋景

 毎年10月下旬からたくさんの登山客で賑わう。登山道は押すな押すなの盛況となる。屹立する岩の背腹を縫うように歩く爽快感は他の山では味わえない。新緑のころの登山もとても気持ちがいい。2時間から3時間あれば、十分に山上の歴史と景色を満喫して下りてこれる。トイレは登山口に一箇所、山上に一箇所ある。飲み水が湧き出ている箇所もあるが、安全は保証できない。水筒持参が望ましい。

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   蟻の戸渡付近の紅葉  中央の沢谷は左方へ行くと、二つ岩、旧霊山寺跡に出る。
 風景写真 二つ岩

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   旧霊山寺 寺屋敷跡   山奥にひっそりと寺堂の礎石が並ぶ

 霊山寺の四遷と宮脇遺跡・梁川東昌寺遺跡

 第一期は慈覚大師が山上の古霊山地区に創始した時期。ここには寺跡の痕跡もない。弘法大師空海が創建したという資料もある(弘法大師行状之記)。
 第二期は永観年中に尊海大僧正が霊山寺を古霊山から山上の霊山地区に移してから室町期までの時期。寺院の礎石跡が数十箇所に点在して残存している。長期間であるが、前期の黄金期・後期の激動期の二つに分けることができよう。前期は平泉中尊寺クラスの一大寺院であったらしく、三千六百坊を擁したという。南北朝期に全山炎上した後の応永8年と明応9年に伊達氏が山上の霊山寺を再興している。
 永禄5年、伊達氏が大石村の麓に二ノ宮を再興している。これが第三期。山上から麓に下りて来たことに注目したい。また天正12年に霊山寺を二ノ宮と同じ場所に再興している。しかし文禄年間に蒲生家臣岡左内が山上の霊山寺一山を破壊したので、住僧・禰宜らは仙台へ逃れ、仏像や巻物は行方知れずとなったという。山上の大宮だけは残っていたが、慶長年間に野火で焼失した。
 寛永年間、上杉家臣古川善兵衛は大石村の百姓たちを強引に天台宗から一向宗へ改宗させたので、霊山寺僧らは天海大僧正へ直訴した。古川善兵衛は反省し、二ノ宮を再建したという。現在二ノ宮にある日吉神社の建物はこのときのものという。
 また寛永年間、保原村板谷半右衛門、鳥和田村観音寺、霊山寺僧、禰宜の四者が密かに霊山寺再興を日光の天海大僧正へ直訴したというが(上杉文書)、この二つの直訴は同一の出来事かもしれない。
 寛永17年3月、日光天海大僧正から上杉氏に霊山寺再興したい旨の手紙。上杉氏は自ら建立することを約す。寛永17年9月、天海大僧正の使者二名が米沢に来府。しかし実際には上杉氏が霊山寺を建立することはなかったようである。これら一連の動きは、地元有志たちが日光の天海大僧正に願い出て霊山寺が再興されたことを示している。
 後に、霊山寺だけは阿弥陀堂のある現在地へ移った。年不詳であるが、これが第四期である(以上、「霊山寺縁起」等による)。
 すなわち、ここ数年発掘調査が続いている「宮脇遺跡」は第三期の霊山寺の跡ということになる。たくさんの瓦片が出土しているが、発掘調査のはるか以前から寺の瓦が多数出土収集されており、霊山寺の旧寺跡として注目されていたのであった。梅宮茂氏や菅野家弘氏らの努力の賜物であろうと思う。お二人が集めた霊山寺軒瓦の一つが梁川の東昌寺出土軒瓦に文様一致したことが判明している(梁川城跡発掘調査報告書? 野崎準氏稿)。つまり霊山寺は伊達氏によって室町期に再建されたことがほぼ証明されたのであった。

 南北朝時代の霊山寺と霊山城

 元弘3年(1333)暮れ、建武新政権下、新しい奥州政府開府のため後醍醐天皇の皇子義良親王が陸奥国司北畠顕家とともに多賀の国府へ下った。このとき伊達行朝は結城宗広入道とともに奥州府の式評定衆に名を連ねていた。しかし多賀城が危うくなると建武4年(1337)1月8日義良親王(陸奥国大守)、北畠顕家(鎮守府将軍)らは伊達郡霊山城に移った。同日付けで北畠顕家は霊山に着いたことを天皇に報告している。霊山寺の勢力と南朝の雄伊達行朝・結城宗広入道を頼ってのことであった。当時、霊山の山を境に西側の伊達郡が伊達氏の領、東側の宇多郡が白河結城氏の領となっていた。
  城 霊山城跡全景 825m

 建武3年の石田孫一着到状によれば、建武2年(1335)12月から石田孫一は霊山館で警護にあたっているから、多賀城着任時まもなくから霊山寺は南朝奥州政府の重要な基地として整備が開始されていた。有力な大将(広橋修理経広か)が在城していたと見ることができる。
 顕家らは京都の北朝を追い払うため、8月11日霊山城を離れ、再び大軍を率いて西上した。そして延元2年(1337)和泉国(石津境浦阿倍野)で戦死した。21歳であった。
 同年9月顕家の跡を継いだ弟北畠顕信ら奥羽南朝方の一行は北畠氏の故郷伊勢から船で奥州へ向かった。しかし嵐に遭い、伊達行朝・北畠親房らは常陸に流れ着いた。北畠顕信・結城宗広入道らは伊勢に吹き戻されたという。北畠親房らは小田城や伊佐城を中心に勢力を挽回しようとした。興国元年(1340)6月顕信らと合流した伊達行朝らは奥州へ向かった。
 合戦は全国的なものだったが、伊達郡内では霊山城や藤田城など各地で合戦が行われた。南朝と北朝で活躍した武将たちの軍忠状や着到状が残されている。霊山城の落城は貞和3年(1347)8月ころで、霊山寺の建物群は全焼したといわれる。林の中に当時の大伽藍を物語る多くの礎石が残されている。いま霊山神社に伝わる青磁の花盆と皿は中国龍泉窯の優品で、輸入されたもの。義良親王在城のころ使用された可能性がある。南北朝の合戦は最終的に北朝方の勝利に終わった。

 濫觴の舞

 濫觴(らんじょう)の舞は幼い義良親王を慰めるため家臣たちが舞ったのが始まりという。また濫觴の舞は北畠顕家らが武運長久を山上の山王社(大宮)に祈願して舞ったのが始まりともいう。
 霊山城廃城後、村人たちは北畠氏や義良親王を偲び、山上の山王社(大宮、日吉神社)に舞を奉納してきたと考えられる。舞ってきたのは石田村の鈴嶽神社の氏子たちであった。山下の大石地区に二ノ宮山王社(日吉神社)が出来てからは、こちらに舞を奉納してきたとも考えられる。このことは江戸時代の日枝神社由書で確認できるが、奉納されてきた舞は石田地区の「濫觴の舞」であったようである。石田村の鈴嶽神社の宮司が長く大石村の山王社(日吉神社)の宮司職を兼務してきたこともそのことを考えさせる。
 明治14年に大石地区に北畠顕家らを祭神とする霊山神社が創建され、明治18年には別格官幣社となった。その後、霊山神社に濫觴武楽隊が組織され「濫觴の舞」が奉納されるようになったという。霊山神社に濫觴の舞を指導したのは石田地区内の小石田出身の方だったと伝えられている。
 二ヶ所に伝わる濫觴の舞はともに伊達市指定無形民俗文化財。
 舞 舞
      石田地区鈴嶽神社の濫觴の舞

 舞
      大石地区霊山神社の濫觴の舞

 まだ無名だった新井白石が霊山城跡を訪れて詠んだ漢詩「霊山鎮」、《霊山城跡》を顕彰した初めての資料

  陸奥国守北畠顕家と奥州南朝軍勢の忠節と武功をうたいあげた名作である。

 まだ無名のころの新井白石が伊達郡の霊山城跡を訪れていた。当時の新井白石は福島藩堀田正仲に仕えていた関係で福島にいた。相馬中村藩に仕える義兄の郡司弥一右衛門正信を訪ねる途中に霊山城跡に寄ったのだった。ここ霊山城跡で新井白石は一つの漢詩を詠じた。「霊山鎮」である。「鎮」は城の異称。
 元弘3年(1333)11月陸奥守兼鎮守府将軍北畠顕家は後醍醐天皇の皇子義良親王を奉じて陸奥国府多賀城に赴き、乱の平定にあたった。建武2年(1335)秋、足利尊氏は鎌倉を陥れ、次いで京を占拠した。後醍醐天皇は吉野へ逃れた。北畠顕家は伊達氏や結城氏など奥羽の大軍を率いて西上し、建武3年(1336)1月には尊氏らを京から追い払った。建武3年5月ころ顕家らは多賀城に戻った。しかし奥羽の北朝勢に追い詰められて、北畠顕家は、延元2年(1337)1月8日、義良親王とともに伊達郡霊山城へ移り、ここを奥羽南朝の拠点とした。奥羽南朝勢の形勢不利の状況で、「僅かに霊山城を守りて有るも無きが如き有様」であった(太平記)。同年8月、北朝勢に支配された京の都を奪還するため、北畠顕家らは奥羽の大軍勢を率いて上洛した。途中、鎌倉を奪還した後、延元3年1月、美濃国青野原の合戦に勝利するなど各地で勝利を収めながら、京へ向った。畿内に入ると、一進一退の激戦が続いたが、5月にはついに、泉州(大阪府堺市)堺浦の「石津の戦い」で、北畠顕家は戦死してしまった。21歳であったという。
 新井白石の漢詩はこのときの顕家らの奮戦雄姿を讃えたものである。新井白石は元禄2年(1689)に福島に移っているので(次掲資料)、「霊山鎮」の漢詩は元禄2年~同3年のころの作と考えられる。

     国司館 霊山 国司沢の紅葉

    霊山鎮  白石   (「新井白石全集」所収)
  霊山開巨鎮、郷月照雄藩、
  鐘鼓千峯動、貔貅萬竈屯、
  出師資上略、刻日復中原、       ※上略は上洛の誤記か
  一夕長星堕、年年哭嶺猿、
   (読み下し)
    霊山鎮  白石
  霊山、巨鎮を開き、郷月、雄藩を照らす
  鐘鼓、千峯を動かし、貔貅、萬竈に屯す        ※貔貅(ヒキュウ)=猛獣
  出師、上洛を資り、刻日、中原を復す
  一夕、長星、堕ち、年年、哭す、嶺の猿
  (意訳)
 霊山に聳える巨大な山城、霊山鎮。月が南朝方の伊達郡の地を照らしている。
 鐘や鼓の音が千の嶺々に響き、屈強な兵たちが万の家々に屯している。
 奥羽の大軍勢を率いて上洛した北畠顕家公は一旦京都を平定した。
 しかし、ある日の夕方、阿倍野の戦いで敗死した。それを悲しんで 霊山の嶺々の猿が今でも毎年泣いている。

 「霊山開巨鎮、郷月照雄藩」。巨大な峻厳な山城、霊山城を、一言で的確に表現している。霊山城のなんと雄大なことか・・・。「鐘鼓千峯動、貔貅萬竈屯」。霊山城に集結している南朝軍の雄姿が目に見えるようである。新井白石は視覚的に霊山を捉えている。「一夕長星堕、年年哭嶺猿」。彼らの憤死を悲しみ、今も霊山の猿たちが哭いているという。ここには南朝への新井白石の愛が窺える。顕家の父北畠親房の著「神皇正統記」は新井白石の愛読書の一つであった。

  次の漢詩は新井白石(33歳)が福島城下にやって来た元禄2年(1689)秋に、相馬にいる義兄郡司正信(54歳)に送ったもの。正信は白石が年少のころ生活費を支えてくれていたことがあった。「馬邑」は相馬をさす。「信夫郡」は福島の属する郡名である。「郡を去ること八十里に止める」とは福島から久留里の間の距離を言っていると思われる。この漢詩は、北畠顕家が後醍醐天皇の名代義良親王を奉じて都から陸奥国へ赴く姿を謳ったものと思われる。また山形や福島へ飛ばされた主君堀田氏に臣従する白石自身の心境が重ねられている。「霊山鎮」と対をなす漢詩であろう。郡司正信は元禄16年に亡くなった。68歳であった。

   己巳秋到信夫郡奉家兄  兄在馬邑去郡止八十里       白石
 遠送朱輪出武城、清秋孤剱賦東征
 故園丘墓松楸冷、長路関山鴻雁驚
 芳草池塘他日夢、夜床風雨此時情
 登楼相望浮雲隔、空寄愁心対月明
           (「白石詩草」所収)
     ※己巳は元禄2年(1689)。このころは白石は福島藩主堀田家中であった。

    (読み下し)
  遠く朱輪を送りて武城を出つ、清秋孤剱東征を賦す
  故園丘墓松楸冷に、長路関山鴻雁驚く
  芳草池塘他日の夢、夜床風雨此の時の情
  楼に登りて相望めば浮雲隔つ、空く愁心を寄せて明月に対す



新井白石の霊山城跡訪問と漢詩「霊山鎮」

 
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