奇祭 保原の苞(つつこ)引き祭り  起源は市神祭か

 

三百年の伝統行事と伝えられる。市店(いち見世、商店)の繁盛、つまり商売繁盛を願い、大つつこを曳きあう、祭りである。

つつこひき祭り  
            近年の「つつこ引き祭り」の様子

  現在は、中村地区だけで行なわれているが・・・。

 伊達市保原町の中村地区の奇祭「苞引き祭(つつこびきまつり)」は毎年旧暦の1月25日に行われていた。現在はこれに最も近い新暦三月の第一日曜日に行われている。上中下の三組に分かれて藁の大苞を引き合い、勝った組はその年の豊作が約束されたという。また苞が引き入れられた家は、吉事が期待され、酒を振る舞った。苞の藁は拾って養蚕の蔟や箙に混ぜて使用すると、繭がたくさん穫れ、また銭指しにして神棚や市神に奉納すると商売繁盛が約束されたという。
 江戸時代、毎月二十五日に、中村の通り町で恒例の市が開かれていた。1月二十五日はその年の最初の市日で、初市祭りの神事が執りおこなわれた。保原では現在も晦日町が町名として残っており、十日町の名も通称名で残っている。これらは市日の名残りである。実際、中村の南隣の市柳村の市日は二十日で、北隣の下保原村の市日は五日、十日、十五日、三十日であった。中村のと合わせて月6回開かれるので、六斎市と呼ばれる。保原地区はほぼ南北に1kmの街村であるが、場所を替えて、五と十の六斎市が開かれていた。いずれの市でも一年の最初の市日に初市祭りが行なわれたのである。

  保原の通り町と市日
 【南】   市柳   中村   十日町  十五日町  五日町  晦日町   【北】
       (20日)  (25日)  (10日)    (15日)   (5日)   (30日)

 「苞引き祭り」の目的は五穀豊穣の祈願といわれている。しかし「苞引き祭」が市日に行われていることは、祭りの起源を考える上できわめて重要で、「市祭り」つまり「商売繁盛」こそが起源であろう。現在、中村以外の五つの地では、残念ながら、「苞引き祭」(市祭り)が行われておらず、またかつて行われていたという資料も残されていなかった。

 旧1月10日のつつこ引き祭りの資料が出てきて、びっくり

 しかし近年、「苞引き祭」が嘉永年間の1月10日に行われていた記録が見つかった。この記録は旧暦1月25日でないから、あり得ないこととして長くお蔵入りになっていた資料である。旧暦1月25日は本当に「中村」の「苞引き祭」の資料としては市日ではないから誤った資料ということになってしまう。しかし、この「苞引き祭」の記録は中村の隣町、保原十日町の記録だったのである。つまり、中村でしかやっていなかった「苞引き祭」が十日町でも行われていたことが分かったのである。すなわち、通り町六町でそれぞれ「苞引き祭」(市祭り)が行われていたことが推察されるのである。

 中村だけでなく、保原の市柳でも保原の十日町でもそれぞれの町内で「つつこ引き祭り」がおこなわれていたことが、分かってきた。
 それは保原の各町ごとに別々に、初市の日に行なわれていた。

 一般に「苞引き祭り」は、梁川藩主松平通春(のちの尾張藩主徳川宗春)が享保13年(1728)の凶作のとき籾を領内である保原の農民たちに分け与えたのに始まるとも言われている。農民たちは感謝の気持をこめて苞の引き合いをしたと伝えられる。それが真実とすれば、中村の熊坂太左衛門が大きく関わっていたのではないかとも考えられる。彼は当時、おそらく伊達郡一の豪商であったし、梁川藩御用達商人でもあったのである。
 なお、徳川宗春は時の幕府将軍徳川吉宗と経済政策で対立した。将軍吉宗の倹約策に対して、宗春は積極経済策を主張し、商人たちの自由な活動を許した。現在の名古屋の経済発展は宗春に負うところが大きいとされる。そのため将軍吉宗の怒りをかい、宗春は早くに蟄居謹慎させられた。吉宗は宗春の死後も赦さず、吉春の墓碑に金網を被せたという。
  

名古屋城  徳川宗春墓  
        名古屋城             尾張藩主徳川宗春墓

 文化14年(1817)1月25日の苞引き祭りは、中止になった(「聞書日新録」)。それは、この年1月4日に市柳村大火(市柳・中村の95軒焼失)があったためとされている。以後の記録を見ても、苞引き祭りを休んだ年が何回かあった。

 江戸時代、中村の苞引き祭りは長谷寺境内で行なわれていた?

 江戸期の苞引き祭りは長谷寺境内の前山麓弁財天(通称、中村の弁天様)または卯花稲荷大明神で行われていた節がある(中村明細帳)。明治5年の神仏分離令で、この二社は長谷寺から分かれ、野崎の厳島神社に分祀された。さらに明治26年、厳島神社は野崎から下前木の現在地へ移転した。以前は、内町の交差点に臨時に市神を祀り、祭礼を開始したようである。現在は、式典は厳島神社で行い、苞引きは内町の角を中心に行われている。

保原の三日市と、市祭り

 不思議なことに、保原の通り町からすこし外れるが、上保原村に三日市という字名があり、そこに市神様が祀られている。この市神様は祠もなく、無銘の石柱ひとつである。この形式の市神は全国的に見て古い例に属するらしい。中世のころ上保原と保原は一村であった。梁川の町外れにも四日市という地名が残っている。どちらも古い市の名残りで、中世以前に遡るものと考えられる。
 江戸時代、保原の市日は五・十の六斎市であったが、それ以前の中世には、三の日が市日であったようである。毎月三日の日だけ市が立ったのである。
市神碑  市神様(伊達市保原町上保原)

 上保原の三日市地区では毎年旧暦の二月三日に祭礼が行われている。祭りはごく一部の人たちだけでひっそりと小規模に行われている。1月3日は正月で市がないので、2月3日が一年の最初の市日となる。だからこの日に市祭りが行われたのである。後には13日・23日などにも市が立ったと考えられる。江戸時代の旗も四本保存されており、貴重である。

 ところで、保原の郷士渡辺与惣兵衛は江戸時代初期に保原や藤田、大枝などの町場形成と市場再興に関わったと伝えられる。これは中世の市が解体して、近世の市が再開されるころの出来事であろう。

  ※参考 「高子二十境」松浦丹次郎著 「保原中村の熊坂太左衛門助利」「保原六斎市とつつこ引き祭り」

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