幕末の梁川にもいた「赤ひげ先生」


 渡辺慶秀先生の子孫の方を探しています!

 貧乏人からはお金を取らず、どんなに遠方の患者でも、手弁当で往診したという。その人の名は、渡辺慶秀 先生。150〜100年前に南梁川で医者をしていた渡辺慶秀先生のその後を知りたく思っています。



   伊達郡梁川村医師慶秀行状
                 私御代官所奥州伊達郡梁川村医師 慶秀 戌五十六
 右慶秀儀、親代より医業ニ而年久敷く右梁川村住居仕り、困窮もの江施薬致し奇特の取り斗い仕り候由、村役人申立候間、相糺し候処、高四斗余所持仕り、家内四人暮らしにて医業致し、家内の者共は夫々稼ぎ等仕り、身上向不如意に候得共、漸く取続き罷り在り候処、慶秀儀、一体実体にて、家内睦敷く家事治り方宜しく、医業暇々者村内並隣家の子供に手跡並素読等年頃に指南いたし、孝養方は申すに及ばず、都而五人組帳前書之趣等愚昧之者共へ能々会得いたし候様、平日申し諭し、老若とも善道江導き候儀而巳申し聞かせ、其の上居村并に伊達信夫郡私支配所村の者は勿論、他支配他領村々ニ而茂困窮の者ハ、施薬療養致し、尤も施薬請け候もの共ハ、当日の経営も出来兼ね候程の難渋ニ付、休日等の手当も之なく候間、聊の厄介をも厭わ(ず脱カ)弁当持参、実意に療用致し遣し、聊の謝礼等も請け用い致さず事故、極難のもの共殊の外相歓び、弥いよ施薬受候者共相増し候段、相違なく御座候間、去る秋私儀検見廻村の節、慶秀呼出一通り相糾し候処、御国恩の有り難き段骨髄ニ徹し責め而ハ、冥加の為め、困窮の者共聊づつの助ケニも相成り候様仕り度く、若年の頃より心掛け候得共、身上向不如意ニ付き、何事も行き届き兼ね候旨申し候間、施薬年数相糾し候処、寛政二戌(1790)年中より施薬致し候処、其の後文化四卯年(1807)松前志摩守領分に相成り候節、村役人よりの差図を以て施薬仕り候処、役場江願書差出し聞き済みニ相成り候儀の旨申立て候ニ付、猶又手代差遣し支配所村々并に近村迄も得与相糺し候処、前書の通り相違なく御座候。尤も支配所村々の内梁川村而巳町場ニ而其余者山中至而の辺鄙、医師等も不自由ニ付き、別而困窮のものども病気の節療用方も行き届き兼ね候処、慶秀儀、梁川村より場所ニ七八里も掛り候村方も御座候処、遠路をも厭わず、早速罷り越し、困窮の者共施薬仕り厚く療用いたし候由、全く名聞ニ拘り候儀之なく、許より同人儀も身上向不如意ニ候得共、至而貞実成る者ニ付、専ら養倹を用い、聊たりとも衣食住の奢りヶ間敷き儀仕らず、極貧の者ども江年来施薬致し遣し、近村の者共助ケニ相成り候段、挙而感状仕り相歓び罷り在り候旨、村役人一同申し立て候。右慶秀の始末、稀成る志ニ而、一体伊達信夫郡村々の儀、天明三卯年(一七八三)凶作以来次第ニ退転のもの多く、困窮の余り人気片寄り、万事の教諭も行き届き兼ね候処、右体の物之あり候者別而奇特之儀ニ存じ奉り、去酉(文政八年)年の凶作ニ而益困窮差し募り退転に及ぶべき程の者ども茂御座候処、慶秀儀、平常教諭の趣を相伏し、成る可きニ取続き候者より右困窮の者江自然与助力いたし遣候者茂之あり、近隣の者共教諭の基ニも相成り、奇特の趣近村ニ迄茂広ク相聞え候程の儀御座候間、相成る可き儀ニ御座候らハハ、相応の御褒美下し置かれ候様仕り度く存じ奉り候。之に依り、此の段申し上げ候、以上。
  (文政九年)戌正月        (浅川代官・梁川代官)嶋田帯刀
   (1826年)
   申 渡
           嶋田帯刀御代官所 奥州伊達郡梁川村 医師 慶秀
右之者、近郷村々窮民之もの共江数年施薬等致し奇特之ものニ付、御褒美として銀拾枚下され候段、下野守殿仰渡され候間、其の段申渡れるべく候
(1826年 文政九)戌五月三日

村垣淡路守定行殿被仰渡、立会申中川忠五郎
 (国立公文書館所蔵古文書)
 


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