松前福山藩の絵師 熊坂適山

  出身は福島伊達の保原、弟熊坂蘭斎は福山藩医師

 適山は幕末の福島県地方を代表する南画家といっていい。若いころは花鳥画に打ち込み、秀作が残されている。また適山は小楷書を得意とした。大字もなかなか魅力があり、評価が高まっている。書は蘇東坡に倣い、詩文は藤森大雅に学んだという。適山は、絵画の入門書や指導書を発刊していることでも一目置かれている。
  適山の弟子菅原白龍は適山を評して「俗を離れし人」「絵画よりも学問、学問よりも人格の人で、如何にも人格の高い古名士の面影があった」と言っている。師の田能村竹田によれば、適山は、温厚な人柄で、酒が好きで、酔えばよく歌ったという。人付き合いは大変良かったらしい(「竹田荘師友画録」)。
 適山は多くの山水画や花鳥画を残しているが、中でも嘉永6年(1853)の蘭亭曲水図は福島県指定文化財となっている。

 熊坂適山は寛政8年(1796)7月保原の市柳村(現、福島県伊達市保原町一丁目)に生まれた。父は酒造業を営み、蚕種業も営んでいた。少年のころ近隣の絵師や修験者に絵や学問を学んだと見られる。適山の本名は庄三郎、他に波玉、摘山、元精の号がある。

適山  適山  適山

適山 

 文化4年(1807)、北海道の松前氏(福山藩)が伊達郡梁川に9千石で転封となると、その家老であり高名な絵師であった蠣崎波響に師事し、画才を磨いた。松前氏は梁川村・大門村・金原田村・泉沢村・大久保村・五十沢村の6村を支配した。文政4年(1821)、松前氏が北海道福山に戻った後は、師波響の勧めに従い、京都の絵師浦上春琴につき、南画の修行をした。この修行は、家族で温泉に行ったとき、適山が突然その場から出奔したというから、家族の反対を振り切っての旅であったようである。その後、弟の蘭斎も出奔してしまい、長年行方知れずとなり、父と母は葬式まで出したという伝えまで残っている。旧家(熊坂氏の総本家)は維持しなければならず、父伝右衛門は養子を迎えざるをえなかった。
 適山はいつしか浦上春琴のもとを離れ、天保2年(1831)のころは九州豊後の絵師田能村竹田に師事していた。このころ母(つえ)の実家の伝之助が伊勢参りへ行ったとき、偶然伊勢で蘭斎と出会った。伝之助の父は佐右衛門といい、ご近所であった。蘭斎の話から適山が豊後にいることを知らされた伝之助は二度驚き、予定を変更して、竹田荘の適山を訪ねたという。この前年の天保元年(1830)、保原に残していた適山の妻(そよ)は27歳で病死していた。この女性は母の妹で、適山より7歳下の幼馴染であった。
 天保15年、適山は松前藩にお抱え絵師として150石で迎えられた。既に師の波響はこの世になかったが、波響の縁故であったろう。嘉永5年(1852)には弟の蘭斎も松前藩に蘭方医として迎えられた。あまりはっきりしてはいないが、蘭斎は長崎で蘭方を学んだとされている。これは医師としての蘭斎より、オランダ語を学んでいたことで、外国事情に通じていた蘭斎を採用したとしか思えない。蘭斎は藩主や家臣たちの教育に大きく貢献したという。安政2年(1855)再び梁川地域が松前氏領となると、適山は松前藩に登用され、梁川陣屋の勘定方役人として赴任した。この間、適山は梁川天神社神主関根加賀の娘(との)と再婚していた。この関係もあり、後年、実子のいない適山は加賀の孫轟を養子に迎えている。適山は万延元年(1860)には松前藩江戸屋敷詰めとなった。文久3年(1863)、重病の適山は松前へ帰る途中、保原に立ち寄っている。適山は元治元年(1864)9月松前福山で死去したと伝えられる。専念寺に葬られたとする一本があるが、真実は不明である。元治2年9月9日、保原の仙林寺で適山の一周忌追福の画会が催された。

適山蘭画碑   適山蘭斎墓
  伊達市保原町 仙林寺 適山蘭斎合作画碑・適山蘭斎両翁墓


 適山系の熊坂氏は名勝「高子二十境」を創始した熊阪覇陵一族と同族で、本家筋に当たる。
 

inserted by FC2 system