西念伝記とでもいうべき「奥州伊達之郡長倉之郷、浄瑠璃薬師如来御堂を修造奉る奉加の疏」(弟子浄心書)によれば、今からおよそ三百五十年前の江戸時代前期、一人の僧が伊達郡長倉村(福島県伊達市内)に立ち寄り、雨漏りのするお堂の中に薬師如来尊像が安置されているのに心惹かれて留まり、薬師如来尊像にお経をあげる毎日が始まった。僧は薬師尊像の上に簡単な屋根をあげ、怠りなく勧行に励んだ。勧行はいつしか悦びとなった。僧は上野国都賀郡朽木村の生まれという。ある日、功徳を積んだ僧は感応のお告げを聴いた。寛文8年(1668)正月25日から、僧は思うところがあって、木食の願をかけ、絶食を始めた。生命が尽きようとする頃、僧は墓穴に入り、4月8日に絶命した。73歳であった。
ここで注目したいのは、西念の木食の行の目的が、最初の西念伝では薬師堂の修築にあり、摺上川の洪水を鎮めるためという後世の伝えはまったく記されていない点である。摺上川の洪水をなくすために入定したという伝説は後世につくられたと考えられるのである。もちろん西念は人々の安穏な生活を願ったことであるから、そのような自然災害も含まれていてもよいのかもしれない。
果たして摺上川の水害はなくなったのだろうか。それは分からないが、この周辺にその後次第に人家が増えていったので、水害が減ったことは確かであろうと思われる。川原町という部落が成立したのはこれ以降のことである。
「貞享二年丑改河原町屋敷反畝之事」によると、天和2年(1682)と天和3年に新しく開墾された56筆の畑と25軒の屋敷が記載されている。奥州街道に面する家々の間口は規則正しくほぼ5間であった。川原が開墾されて、貞享2年(1685)に初めて高入れ(課税地)になったのである。すなわち川原町の誕生である。
西念が入定したという場所に西念の墓がある。樹齢数百年の大ケヤキの根に抱かれているようである。天に聳えるような立派なケヤキである。西念を慕って記念に植えたのであろう。現在の摺上川から北へ200mほどの場所である。今は人家がかなり密集しているが、当時はまったくの川原であったろう。
いまでも部落の人たちによって西念命日の4月8日に西念祭が行われている。
西念堂
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今から三百年も前の江戸時代のことである。二井田村(現福島県伊達市保原町内)の円福寺に一人の老僧が逗留していた。名を真敬といった。そのころ疫病が流行蔓延して困っていた。特に隣村泉沢村の中北部落の惨状はひどく、あるとき中北部落の判四郎が老僧を訪れ、救済を訴えた。医学や薬草の知識もあった老僧は、治療のためしばらく中北部落にとどまり、病人たちの救済にあたった。
真敬坊様墓と阿舎理堂
真敬坊様墓碑
やがて部落の疫病はおさまり、村に平穏な暮らしが戻った。老僧は部落民に懇願されて、提供された庵に移り住んだという。老僧は村人たちの寺小屋教育に余生を送り、真敬坊様と呼ばれ慕われた。しかし老僧がさらに年老いて、余命いくばくもないと悟ったとき、人柱となって村の安泰を祈ろうと決意した。村人の中止を受け入れず、老僧は元禄4年(1691)11月2日に庵の前に掘られた穴に入った。そして三週間念仏を唱えた後、老僧はついに同月24日に息絶えた。後に阿舎理宥専とおくり名されたという。
老僧が住んでいた庵は今も昔と同じ場所に継承され、その傍らに真敬の墓がある。毎年、命日の日に祭礼が行われている。(「大田の歴史 大地を継ぐ」より)
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