メリヤスとニットの町、保原・梁川 

 戦後まもなく産声を上げた伊達郡のメリヤス編みは荒廃の中から立ち上がりました。衣料不足の時代で、造ったセーターは飛ぶように売れたといいます。しかし、編み機不足、毛糸不足など大変な苦労があったことも事実です。製品は自転車やバイクに乗って遠くまで売りに行ったそうです。やがて従業員を雇って生産するメリヤス会社が勃興し、編み物、縫製、紡績、染色など多くの下請けや関連業社を抱えて、この地域を代表する産業に発展しました。その後、昭和30年代にはバルキーセーターがヒットし、福島のニット業はアメリカ・ソ連向け輸出の花形産業となりました。高度経済成長の波に乗り、全国屈指のニット産地になったのです。保原や梁川などはニット一色の町になりました。福島県のニットの生産額は昭和59年がピークで360億円を越えました。現在までに大きな浮き沈みがありましたが、メリヤス・ニット産業は今なお伊達郡の主要産業の一つに違いありません。
 蚕糸業・機織業・ホームスパン毛織業などの伝統産業の下地があったとは言え、およそ50年余前、突然のように伊達郡に起こったメリヤス業です。短期間にこれほど発展した原動力は何だったのか。先人たちの活躍や苦労を探ってみたいと思います。 

 編み物製品をメリヤスという。日本ではメリヤスを莫大小と漢字表記してきた。メリヤスを日本に初めて伝えたのは、オランダ人やスペイン人で、鉄砲の伝来と同じ時期である。かの国ではメリヤスをメイアシュやメディヤス(meias)と称しており、靴下を意味した。日本では江戸時代中期の資料等に「女利安寿の足袋」「女利安の足袋」の表現があり、メリヤスと言えば足袋を指す言葉であった。靴下と足袋は厳密には違うが、日本ではメリヤスの足袋が一部出回っていたのだろう。伸び縮みするのでサイズは適当でよいことから、大小と莫く、という意味あいから、莫大小の漢字が使われたのかもしれない。
 メリヤス製品の多くは綿製であった。水戸黄門が使用したと伝えられる靴下があるが、これは絹製である。また、江戸時代後期、武士の刀の鞘袋や手覆にメリヤスが使用され流行ったらしいが、これは手編みの綿糸のメリヤス製品であったようだ。一部下級武士の間でメリヤス編みの名手がいて襦袢、股引き、手袋等を作り、特に手袋は評判が良かったという。天保年間には江戸の問屋にも並べられたという。材料の糸は木綿や絹であった。
 明治維新を経て、それまで武士の内職であったメリヤス編みが本職化し、東京の市中の店に並ぶようになったのは明治5,6年からであったらしい。西洋文明が移入され、特に洋服が普及してくると、メリヤス肌着やメリヤスの股引きの需要が増えた。このころにはぼちぼちメリヤス編み機械や原糸の毛糸が輸入された。機械によるメリヤス編み業に積極的に取り組んだのは旧士族たちであったという。最初に輸入されたのは靴下編み専用のメリヤス機械だった。しかしまだそれほど靴下の需要がなく失敗に終わった。メリヤス肌着編み機械もなかなか調子が悪く、成功には至らなかった。しかし間もなく機械の使用にも熟練し、完全なメリヤス編み製品が出来るようになった。特に軍用のメリヤスの靴下、シャツ、ズボン下の需要が増していたので、メリヤス編み業は急成長した。明治10年代には国産のメリヤス編み機械も製作されるようになった。
 シャツの内側を起毛する裏毛メリヤスは明治10年代前半から始まった。明治15年には大阪莫大小仲間規約書ができた。
 明治39年の大阪メリヤスの生産高は265万打(ダース)、うち内地向きが70万打、輸出向きが195万打で、大部分インド・中国向けであった。大正2年の東京のメリヤス生産高は166万打であった。品種別では綿のメリヤス靴下とメリヤスシャツが多く、次いで綿メリヤスの軍用手袋、綿メリヤスの猿股、ジャケツ(セーター)等であった。ここでは靴下と足袋を区別している。メリヤスの靴下とメリヤスの足袋が造られていたことになる。原料糸別では圧倒的に綿が多く、次いで毛綿混、毛、絹の順であった。
 大正2年の状況としては綿メリヤスの生産が約79%、毛メリヤスの生産は約17%であった。衣料品種別では靴下が約40%、手袋が約26%、シャツとズボン下が約17%、猿股(パンツ)が約13%であった。後にセーターと呼ばれたジャケツの生産はわずか1.5%に過ぎなかった。
 昭和4年の「メリヤス製造法」にはメリヤス製品として靴下、手袋、肌着(襯衣)、下穿き、婦人用肌着、婦人用コンビネーション、ジャケツ、カーヂガンジャケツ、スウェーター、チョッキ、ズボン下、股引き、運動用上衣、婦人用上衣、婦人用海水着、ネクタイ、首巻き、スカーフ、ショールなどが見える。このうち、ジャケツ、カーヂガンジャケツ、スウェーター、チョッキ等は毛メリヤスであろう。シャツという用語が見えないのは著者の好みのせいかもしれない。
 昭和7年の「婦人倶楽部」十月号付録「新型毛糸編み物全書」を見ると、各種の毛糸のスエーター(セーター)の見本が華やかに紹介されている。メリヤスの製品名としてはスエーター、ドレス、ハーフコート、チョッキ式ジャンパー、オーバー、ショール、靴下カバーなどが見える。これらには一着ごとの毛糸の値段が記されている。大人用の丸首セーターは2円80銭であった。読者はこの毛糸を購入して棒編みするわけである。棒編みで一着分を完成するにはかなりの時間がかかると思われる。編めない人は機械編みの完成品が購入できるともいう。その値段は4円と書いてある。すなわち、昭和初期には機械編みのメリヤスセーターが売り出されていたし、棒編み(手編み)のセーターも行われていたのである。

 すなわち昭和の初期、地方の伊達郡に住んでいても毛糸のセーターは購入できたし、毛糸が手に入れば手編みのセーターができたのである。この頃まだ保原のメリヤス編みは始まってなかったが、保原の街中をセーターを着て歩いていた方がいたかもしれない。このころには家庭用の小さなメリヤス編み機(S式編み機)も販売され始めていた。

 野内文海さんは昭和5年に23歳で江戸川区平井3丁目に野内メリヤスを創業した。昭和19年妻の実家の上保原に疎開し、メリヤス業を開始した。同様に、金子酉吉さんも昭和5年東京で金子メリヤスを創業、昭和20年妻の実家上保原に疎開してメリヤス編みを開始した。野内さんも金子さんも、上保原に親戚も多いから、戦前の昭和初期においてセーターをもらったり買ったりした方々がいたことだろう。
 上保原に住む赤井ハツさん(83歳)は霊山町大石の高野清吉氏の娘で、小学校のころ叔母さんに手編みのセーターを編んでもらったことがあったという。昭和初期のころである。同級生では他にセーターを着てなかったらしい。ハツさんは梁川高等女学校を卒業した昭和12年に家業の手伝いとしてホームスパン織りとメリヤス編みを始めたという。このメリヤス編み機械は大横機で福島の菱沼機械から購入したらしい。メリヤス編み機械をいつ購入したかは不明であるが、昭和12年ころ高野家で父と娘のふたりでメリヤス編みをしていたという。当時伊達郡内の農家の方が緬羊の毛を持ち込みホームスパン生地やメリヤス編セーターと交換して行ったという。もともと高野清吉家は早くから緬羊の飼育を始め、紡毛糸の製造を手広く行っていた。紡毛糸を製造する農家も増えつつあり、カードかけだけを頼みに来る農家も多かったという。高野清吉氏は後に高野繊維(株)を起業し、メリヤス編みの分野でも成功を収めた。
 上保原に住む佐藤ロクさん(81歳)は大泉生まれ。昭和19年ころから家庭用のメリヤス編み機械でセーターを編みはじめたという。その後3台買換え、最初の2台(S式編み機)は処分したという。この2台は細い棒を差し込むタイプだった。昭和31年に結婚後も家庭用編み機で子供たちのセーターを編んだという。
 ラクダのメリヤスシャツと言えば綿のメリヤスシャツで、おじいちゃんが着ていたことを思い出す人も多いだろう。裏地が起毛されているのが多かった。ラクダのシャツは本来ラクダの毛糸で製造されたらしい。ラクダのシャツは今でも暖かな下着として売られている。現代において下着として定着しているランニングシャツ、半袖シャツ、長袖シャツはすべて綿糸のメリヤス編みであることに留意したい。伊達郡ではメリヤスというと毛糸のセーターを思い浮かべるが、第二次大戦前はメリヤスと言えば、全国的には綿のメリヤスの下着を意味したと言ってもいい。
 昭和の初期には、毛糸のメリヤス上着はセーターと呼ばれつつあったが、旧来からの名称メリヤスを使用する人も多かった。特に伊達郡地方ではセーターという言葉は馴染んでいなかったらしい。伊達地方のお年寄りのなかには、セーターのことをジャケツと言う人がいる。ジャケツは本来ジャケットのことであり、毛織物の前空きボタンの衿つき上着を意味する。お年寄りが言うジャケツは毛メリヤス製のセーター類(上着・中着)を指している。メリヤスのシャツの上に着る毛メリヤスの上着という意味合いであろうか。たぶん毛メリヤス製品のジャケット形のセーターすなわちジャケットセーターに起因していると思われる。カーディガンセーターやオーバーコートセーターも意味は近い。これらをひっくるめてセーターと呼んだが、伊達郡ではメリヤスとかジャケツと呼んでいたようだ。

 大正年間から昭和初期のころ、伊達郡地方に緬羊の飼育が始まり、緬羊の毛を紡いで手紡糸にし、従来の機織り機をそのまま使ってウールの反物を織ったり、機織り機械を広幅に改良して洋服に使用する毛織物を行う者が出て来き始めた。特に後者の毛織物はホームスパンなどと呼ばれ、昭和初期から戦後にかけてある程度普及した。この生地で主に洋服のジャケットやズボンが作られた。会社として積極的にホームスパンの製造を行ったのは伊達崎の亀岡紡織であった。亀岡家住宅(現在保原町に移築、県指定文化財)の二階もホームスパンの織機が置かれ女工さんが何人も通っていた。泊まりの女工さんも20人くらいいたという。
 保原の大谷吉治さん、中瀬の伊藤儀三さん、富沢の井上頼三郎さんらもホームスパンをやっていた。
 戦後すぐのころは衣料不足の状況下、緬羊の毛の買取りやそれを紡毛した手紡糸の買取りが盛んに行われた。どこの家にも足踏み式の紡毛機があって活躍していた。保原の西川式紡毛機、大石の高野式紡毛機などが製造され、よく売れたらしい。特に緬羊飼育と紡毛においては、大石の高野清吉氏はリーダー的存在だった。中瀬の伊藤義三氏もこれに継ぐ存在だった。
 東京でメリヤス編み工場を経営していた野内文海さんが昭和19年奥さんの実家である上保原に疎開し、昭和21年からメリヤス編みを始めた。金子酉吉さんも同様で、昭和20年妻の実家である上保原に疎開し、メリヤス編みを始めた。毛糸は近隣で造られたホームスパン用の手紡糸毛糸を改良したものであった。毛糸のセーターは飛ぶように売れたという。(最初、真綿の紡ぎ糸や絹紡糸などを使用した人もいる)。東京でメリヤス編み会社を経営していた関愛三郎・公五郎父子が昭和19年桑折町に疎開したのをきっかけに昭和22年同地にメリヤス会社を再開した。野内さん・金子さん・関さんらと同様の人たちが他にもいたかもしれないが、彼らの仕事を見て、メリヤス編みを始める人が伊達郡内で続出した。佐藤忠志、山崎隆雄、松浦満、高田照井、藤石武夫、・・・・。従来の蚕物商や手紡糸業者がつぎつぎにメリヤス編み業に転業し、メリヤス会社を旗揚げした。昭和20年代はまさに伊達郡メリヤスの創業期であった。会社名には○○メリヤスという名前が多く使用された。

 昭和27年当時、福島県内のメリヤス工場の数は絹織物工場の数の十分の一以下であった。生産高は三百分の一以下であった。メリヤス工場の殆どは県北と見られる。手袋の生産高が多いのは、福島市内には戦前から手袋のメリヤス工場があったし、戦後桑折町の関メリヤスは昭和20年代前半に手袋編みから出発したなどの結果であろう。伊達郡のメリヤス編みは毛糸のセーターから始まった。これは外衣に相当するから、外衣の生産高は伊達郡が主力かもしれない。8月と10月11月の生産が多いのは冬場向けの生産であるからであろう。4月から7月の生産はかなり少なく、厳しい状態である。
 この時期、昭和26年福島県毛莫大小組合、昭和27年福島県毛メリヤス協同組合、昭和28年福島県保原毛メリヤス協同組合、昭和29年福島市毛メリヤス協同組合、昭和30年福島県梁川毛メリヤス協同組合、福島県メリヤス振興会が設立された。
 昭和30年の県内のメリヤス生産高は10億円弱であった。編み機は全て横編みであった。

         組合名             工場数    生産額
      福島県毛メリヤス協同組合    13    250,000千円
      保原毛メリヤス協同組合      42    300,000千円
      梁川毛メリヤス協同組合      66    260,000千円
      福島市毛メリヤス協同組合    15     30,000千円
      会津毛メリヤス協同組合      14     45,000千円
      福島県毛莫大小事業協同組合  12     95,000千円
           計              162    980,000千円

 昭和31年のバルキーセーターのブームに乗って 昭和33年の県内の生産高は15億円に達した。昭和33年にはアクリル繊維の導入が行われた。アクリル合繊メーカーとのタイアップで福島県のメリヤス・ニット産業は大きく飛躍した。昭和34年アメリカ・カナダ向け輸出が増え、注文に生産が追いつかない状況であった。その後サマーセーターの開発によって製品の幅が広まった。昭和34年福島県横編メリヤス工業組合が設立された。
 昭和37年の生産高は30億円であった。婦人物85% 紳士物10% 子供物5%の内訳であった。このころソ連向け輸出が始まった。また自動編み機の導入が始まった。
 昭和39年梁川毛メリヤス協同組合を梁川メリヤス協同組合に改称した。保原は福島ニット協同組合に改称した。昭和40年には梁川メリヤス会館および福島ニット協同組合事務所が完成した。昭和43年に福島県内のメリヤス生産高は100億円に達した。輸出は全生産額の50%を越えた。しかし、昭和45年のアメリカ繊維輸入規制、昭和46年のドルショック、為替レート変動相場制移行等により、福島県のメリヤス製品輸出は衰退した。昭和46年と47年には対米輸出自主規制を実施し、また過剰メリヤス編み機の廃棄を456台行った。昭和48年のオイルショックによりインフレが加速、景気は停滞した。
 昭和52年、生産自主規制のため県内で過剰編み機の廃棄を横編機1325台・丸編機76台行った。
 その後福島県内のメリヤス業者は日本の消費者の高級品指向に着目し、内需向けの高付加価値製品の開発に取り組んだ。その努力が実って昭和50年代のメリヤス生産額は200億円以上を維持し続けた。このうち保原町のメリヤス生産額は約70億円であった。昭和59年には福島県のメリヤス生産額は360億円を越えた。昭和60年代に入ると円高等の影響で、韓国・台湾などから低廉のメリヤス製品が大量に日本に輸入され、ニット産地を脅かした。
 平成の時代に入ると、しばらく平成景気が続いたが、バブル崩壊の後は長い不況が続いている。

 ※参考文献等「福島メリヤス産業史」 昭和43年10月 センイ・ジャーナル
   「福島県メリヤス産業発展史」 昭和44年3月  福島県メリヤス振興会
   「福島ニット30年史」 昭和54年3月  福島県メリヤス振興会
   「佐藤忠30年のあゆみ」 昭和53年10月  佐藤忠
   「佐藤忠創立40周年記念社史」 平成2年10月 佐藤忠

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