伊達氏血縁の貞暁、鎌倉四代将軍への夢
               ついに幻に終わる・・・・・  

 高松院御領青海庄と藤原朝宗

 「伊達支族伝引証記」所収石田文書によると、伊達一族山戸田氏と見られる沙弥心有・尼西心夫妻が文永8年(1271)2月22日に越後国青海庄埴生田村領家地頭職ほかを嫡女へ譲っている。青海庄は越後国蒲原郡の内で、現在の新潟県加茂市・田上町域である。埴生田(はにうだ)村は田上町羽生の地である。また弘安2年(1279)11月15日には越後国青海庄埴生田の内を山戸田次郎入道明円の妻の山戸田尼に譲っている。石田氏(山戸田氏)は伊達氏初代の四男為家から出たとされるので、おそらく「越後国青海庄埴生田村領家地頭職」は伊達初代入道念西から分与されてきたと考えられる。「吾妻鏡」文治2年(1186)3月12日条に「高松院御領青海庄」が見える。高松院は鳥羽上皇の四女で二条天皇の中宮妹子であるから、伊達初代入道念西は高松院に仕え、非蔵人の職務にあった可能性が充分考えられ、伊達氏初代は「尊卑文脈」に載る山陰流の藤原朝宗(高松院非蔵人)と同一人と見るべきであろう(小林清治説)。私は、朝宗の子が入道念西であっても伊達世系に矛盾しないと考えている。
 なお、「駿河伊達系図」は宗村入道念西を伊達氏初代とし、朝宗の子息としている。また第二代を念西三男の資綱とし、第四代を時綱、第五代を政綱としている。「寛永諸家系図伝」所収「伊達家譜」は朝宗を伊達氏初代とし、宗村入道念西を第二代としている。「寛政重修諸家譜」所収「伊達家譜」は朝宗を入道念西とし、伊達氏初代とし、宗村を第二代としている。伊達氏の初期系譜がいかに混乱しているか、目に見えるようである。今後の研究が俟たれる。

 源頼朝の側室大進の局とその子貞暁

 伊達氏初代念西入道の娘「大進の局」は、源頼朝の側室となり、文治2年( 1186)2月26日、男子亀王丸(貞暁)を産んだ。「吾妻鏡」に拠れば、頼朝の正室北条政子に気兼ねして、産所は長門江七景遠の浜近くの別宅であった。しかし政子の知るところとなり、景遠の子景国は更に沢奥に養育所を移したという。それでも北条政子の妬むところとなり、亀王丸(貞暁)は七歳のとき京都の名刹仁和寺へ入れられた。このときお供は他の者が遠慮したので、長門景国が随行したという。景国は鎮守府将軍利仁の八代の孫で、伊達氏とは遠い縁戚であった。大進の局も鎌倉を追い出され、京へ移ったと見られる。大進の局には生活の糧として源頼朝から伊勢国三箇山などが与えられた。三箇山は大進の局の弟常陸三郎資綱が地頭をしている土地でもあった。亀王丸は仁和寺の弥勒寺隆暁法印に入室し、同法印のもとで落飾した。貞暁(じょうぎょう)と名乗った。18歳のとき、仁和寺七世の法親王道法から傳法灌頂を受けた。そして仁和寺の勝寳院・華蔵院四世となった。
 
 仁和寺  御影堂
       京都 仁和寺楼門                 仁和寺御影堂

  系図
             伊達氏初期系図

 伊達氏、「貞暁将軍」の陰謀を企てる!   伊達氏、存亡の危機

 承元2年(1208)3月に伊達氏は密かに仁和寺僧貞暁(23歳)を次の将軍に就けようとして失敗、執権北条氏に追われ逃亡した。貞暁は高野山へ逃れ、五坊門主行勝の元に匿われた(「高野春秋」)。「伊達正統世次考」はこのとき伊達氏は先祖の遺領がある「若狭粟野」に匿われたという伝えを載せ、若狭国に粟野という地名がないことを理由にして、この説を否定している。しかしながら若狭国の国境に接して越前国(現在の敦賀市の内)に「粟野」という地が存在し、ここに鎮守府将軍藤原利仁に関連する所領があったことが判明している。利仁将軍は伊達氏の九代前の遠祖山陰の甥にあたる。伊達氏は越前粟野に隠住し時勢が回復するのを待っていたと考えられる。

    高野山
            高野山 御影堂

 貞暁、北条政子からの将軍就任要請を蹴り、自ら一眼を潰して独眼龍となる!  伊達氏の復活

 十年後の建保6年(1218)2月、北条政子は熊野参詣の途次に高野山下で貞暁に会った。貞暁は、三代将軍実朝に手を焼いていた北条政子から、次の将軍になってほしいと要請を受けた。
 かつて伊達氏が次の将軍にと擁立しようとした貞暁に対して、まさか今度は北条氏の側から誘いを受けようとは・・・。貞暁は信じられなかった。北条氏は伊達氏の罪を赦してくれるのだろうか。本貫の伊達郡の地を離れ全国に隠れ住んでいる伊達一族のことを思うと、貞暁は返答だけでなく、己の発言に慎重にならざるをえなかった。
 すでに二代将軍頼家は元久元年(1204)に北条氏に抹殺されていた。頼家は23歳であった。27歳の三代将軍実朝も同じ運命をたどりつつあった。
 北条氏の権勢を恐れた貞暁はこのとき、自ら一眼を潰して、不具であることを理由にして、北条政子の懇願を丁重に辞退した。貞暁は生きる道を選んだのであった。結果として、実朝は翌年承久元(1219)年1月に鶴岡八幡宮境内で殺されてしまい、次の将軍には頼朝の父義朝の血をひく公家九条道家の子頼経(2歳)を就けた。
 この時代、幕府や北条氏に対する陰謀が露見した有力御家人は次々に抹殺され滅んでいった。和田氏や比企氏などがそうである。しかし伊達氏が赦されて領地を回復し復活した。伊達氏が生き延びたのは例外というか、奇跡であった。北条氏が貞暁を赦したのである。貞暁の存在が伊達氏を救ったとも言える。
 その後の貞暁は高野山で平穏な生活を送っている。将軍家三代の菩提を弔うために三基の五輪塔を建て、そのほか山内の復興に力を注いだ。
 貞暁が詠んだ歌が残されている。

   さくら花色見えぬさきの木すゑより 盛りに愛でて香も匂ひつつ
   山に咲き乱るる色のうつらふは これそ此世のしるしなれとて
   都花夢にさへ咲く名にしあれは 思ひしことの忘れはてぬれ

  寛喜3年(1231)2月22日自ら開いた経智坊において46歳で入滅した。藤原定家の日記「明月記」によれば、貞暁の病は「不食病」で、母禅尼(大進の局)はこのとき大阪に住んでいた。

    高野山三基
    源氏三代将軍供養の五輪塔三基  高野山西室院


 江戸前期のころ、三基の五輪塔は蓮華定院向かいの南性院境内にあったと見られる。江戸期の享保年間、南性院主尭賢は三基の五輪塔を邪魔者扱いし、ある住職の助言に従って南性院の前山の突端部に移した。すると、尭賢は盲目となり、助言者は急逝したという。のち南性院の場所に阿弥陀院が移った。そのころの状況は当時の高野山絵図に描かれている。ただし山上には五輪塔は三基でなく四基が描かれ、頼朝公墓・頼家公墓・実朝公墓・二位尼墓と記されている。二位尼とは頼朝の正妻北条政子である。およそ100年後の文政〜天保年間に三基の五輪塔は再び阿弥陀院へ戻された。政子の五輪塔の行方は知れない。そして大正時代の道路拡張でさらに移動され、現在の西室院へ移されたのである。
 実は阿弥陀院上山には貞暁の墓が以前にあった(高野春秋)。ここへ三基の五輪塔が移されて、四基になったと考えるのが自然である。政子の供養五輪塔が高野山に作られた記録はない。後世の誤解であろう。

 旧地 蓮華定院向かいの小丘(高野山)
  かつて三基の五輪塔が移されていた小丘の縁の地は道路拡張で失われていた。

 大進の局の所領、伊達郡山戸田

 「伊達正統世次考」は大進の局は晩年伊達郡山戸田に隠居したと伝えている。山戸田は大進の局の弟為家の分流である石田氏や山戸田氏が住んでいた地域で、大進の局が一族を頼って逃れてきたのかもしれない。文永10年(1273)10月22日に山戸田牛王が父母から「山戸田ノ内、大進尼在家田八段(反)、うち一段は土田(畑)」が譲られていたことが近年仙台市博物館によって確認されている(「伊達支族伝引証記」所収石田文書)。大進の局の死後、その遺領が伊達一族の山戸田氏に譲られていたのである。実際、山戸田地区には大進の局ゆかりの井戸も残されている。地元では大局の井戸とも呼ばれ、七色に水の色が変化するとも言われる。井戸のある一帯は通称「本館」(もったて)の名があるとおり、館跡である。本館は本来は元館の意味であろうか。独立した小丘になっている。大進局の住まいには丁度よい小さな館であろう。
 山戸田には鎌倉後期から南北朝期にかけて山戸田八兵衛ゆかりの城跡や神社仏閣も現存している。八兵衛は大進局と繋がる山戸田氏一族の長であろう。牛王ら兄弟姉妹たちが同様に父母から譲られた土地の名は今も小字として残っている。山戸田地域は鎌倉期の風景がそのまま保存されている感じがする。歴史的景観として大切にしていってほしいものである。
    山戸田井戸 伊達市霊山町山戸田 大進局ゆかりの井戸

 謎の人物 粟野次郎蔵人義広

 伊達氏歴代の中で一人だけ伊達氏を名乗らなかった人物がいる。第三代とされる粟野義広である。諸種の伊達系譜や伊達系図に「粟野次郎蔵人大夫義広」と見える。「伊達正統世次考」は、伊達氏は高子岡城から粟野大館へ移ったとし、城主を伊達氏第三代の義広としている。延宝3年(1675)の仙台藩の伊達氏祖先調査書「伊達信夫廻見覚」は、粟野大館は約300メートル四方に土塁がめぐっており、伊達家の先祖が居館したとしている。粟野大館跡は梁川城から2キロメートル西の場所にある。粟野地蔵堂の南側に位置し、土塁と思われる部分がわずかに残る。大館地区は江戸時代初期までは粟野村分であったが、以後は梁川村に属した。
 実は、伊達氏当主が貞暁を将軍にしようと陰謀を画策し追われて越前粟野に隠れ住んだことと、三代とされる義広の苗字が粟野であることは、偶然の一致ではない。伊達氏を名乗れない事情があり、伊達氏は「粟野氏」を名乗っていたのである。陰謀を謀ったのは伊達氏初代か第二代であろう。
    粟野大館 伊達市梁川町大館 粟野大館跡土塁

 伊達氏第二代の菩提寺はどこ

 「伊達正統世次考」は、四代とされる伊達政依は初代のために満勝寺を、初代夫人のために光明寺を三代義広のために観音寺を、三代夫人のために興福寺を、政依自身のために東昌寺を開基したとする。これらは皆臨済宗で伊達五山といい、いずれも大寺である。しかしながら、何故、これほど慈悲深い仏心厚い政依は伊達氏第二代とその夫人の菩提寺を建てなかったのだろうか。「伊達正統世次考」は全くこの疑問に無関心である。ここには、建てることが出来ない理由があった筈である。それは鎌倉幕府将軍家への遠慮である。結論から言えば、かつて幕府に対して叛旗を翻した伊達当主がいたからである。「伊達氏」を名乗れなかった人物こそが第二代に相応しいと思われるのである・・・。その人物は為重か義広であろう。ただ義広は年齢が若すぎるかもしれない。その場合は為重となろう。私は、この二人が親子であろうと見ている。貞暁の将軍擁立を企て失敗した伊達為重は子の義広を連れて先祖の遺領の地に隠れ住んだ。その地は越前国粟野で、彼らは粟野氏を名乗った。後に伊達氏は赦されたと見られるが、そのとき為重は伊達氏歴代から身を引き、子の義広に第二代を継がせたのである。
 伊達氏本家当主として伊達郡に戻った義広は早めに引退し、息子の政依に伊達氏第三代を継がせた。粟野大館の地は彼の隠居の館であったかもしれない。粟野義広は観音信仰が厚く、身の丈大の観音像三十三体を像立した伝えも残されている。
 なお「伊達正統世次考」は義広の父為重を第二代とし、義広を第三代としている。

参考書:松浦丹次郎著「伊達氏誕生」(土龍舎刊)



お問合せなど、下記へ 
      伊達の香りを楽しむ会

inserted by FC2 system