伊達氏の菩提寺、伊達五山と輪王寺  

    四代伊達政依が臨済宗の京都の名刹 東福寺の慧雲和尚(仏智禅師)を東昌寺開山に招請

 「伊達正統世次考」は、四代とされる伊達政依は初代のために満勝寺を、初代夫人のために光明寺を、三代義広のために観音寺を、三代夫人のために興福寺を、政依自身のために東昌寺を開基したとする。臨済宗の京都の名刹 東福寺の慧雲和尚(仏智禅師)を招請して開山したという。政依は東福寺に塔頭正覚庵を創建したとも伝える。満勝寺以下は皆臨済宗で、伊達五山という。仏智禅師は永仁三年(1295)3月に東福寺に戻って第五世を継いだ。そのとき六十九歳であった。正安三年(1301)七月九日に死去したとされる。伊達政依も同年同月同日に死去したという。東昌寺は南北朝期の末ころは陸奥安国寺利生塔を兼ねていた。また室町期、東昌寺一寺だけで二百人の僧侶がいたという(「臥雲日件録」)。
 しかしながら、何故、これほど慈悲深い、仏心厚い政依は、伊達氏第二代とその夫人の菩提寺を伊達郡内に建てなかったのだろうか。ここには重要な意味(秘密)が隠されている。「伊達正統世次考」は全くこの疑問に無関心である。詳細は伊達貞暁の夢を参照願いたい。
 満勝寺 満勝寺跡にある伊達初代念西の墓 伊達郡桑折町万正寺地内
 光明寺 光明寺跡にある念西夫人の墓 伊達郡国見町光明寺地区 福聚寺内
 東昌寺跡 東昌寺跡 伊達市梁川町 梁川高校グランド
 満勝寺 仙台市 満勝寺
 光明寺 仙台市 光明寺
 正覚庵仏智墓 京都市 東福寺正覚庵墓地 仏智禅師墓

 満勝寺跡は桑折町万正寺地区にある。そこは土塁に囲まれた方形の一画で、やや北寄りの箇所に土饅頭があり、その前に石塔が建っている。試掘調査の結果、土塁は外側に堀を伴い、13世紀前半と見られる瓦片が出土している。鎌倉の永福寺と同文様であったという。
 念西夫人の墓は国見町光明寺地区にある福聚寺境内にある。福聚寺はもと光明寺の塔中の一つで、念西夫人の墓を守るために残ったと見られる。本来の光明寺は福聚寺のある沢一帯の広い地域であったと思われる。
 伊達五山の観音寺の位置については、桑折町万正寺地区の坂町の観音寺説が有力であるが、そこからやや南にある中屋敷観音説、国見町徳江の観音寺説もあり、注目される。
 光福寺については桑折町南部の火葬場の近くに「光福寺」の字名が残っているので、ここに間違いないであろう。現在は水田となっている。
 宮城県図書館蔵の延宝期の梁川絵図および桑折絵図に「東昌寺」の記載がある。梁川では梁川高校のグラウンド付近が比定される。付近からは室町期と推定される瓦片が多数出土している。瓦片は焼けた痕跡があり、東昌寺は火災にあったと見られる。梁川絵図では、中世梁川城の東に東昌寺・覚範寺・輪王寺などの伊達家由緒の寺が連なっている。桑折町では万正寺地区の古釈迦堂が東昌寺に比定されるが、今ひとつ確証に乏しい。。
 梁川高校の南崖、広瀬川縁に岩地蔵と呼ばれている磨崖仏群がある。方形の窪みの中に五輪塔が確認できるが、多くは風化が進んでおり、地蔵と確認できる姿は見つからない。五輪塔の形から推測して鎌倉期のものであろう。昔は広瀬川がもっと南を流れていたと考えられ、岩地蔵の下は東昌寺へ登る参道であったと見られる。近くの古町観音堂は利生寺や利生殿の別号もあり、東昌寺に関連するものと見られる。この観音は信達観音巡礼札所の第三十番に当たり、文明四年(1472)伊達氏建立の伝えがある。
 岩地蔵 岩地蔵古町観音 古町観音と岩地蔵
  2011.3.11 岩地蔵は東日本大震災で一部が大きく崩落した。

 輪王寺   伊達市梁川町

  輪王寺跡は土塁と堀に囲まれた方形の城郭寺院跡で、いざ合戦ともなれば館として機能した。いま北側の土塁と堀が少し残っているが、境内部分はすっかり住宅地となっている。発掘調査の結果、掘立柱の建物跡等が検出されている。
 輪王寺跡は梁川城に在城していた11代伊達持宗が祖母(蘭庭明玉禅尼)のために嘉吉元年(1441)に建立した寺である。開山は太菴梵守である。曹洞宗。太菴梵守は常栄寺の開山にもなっている。禅尼は岩清水八幡宮の別当善法寺通清の娘で、姉妹は将軍足利義詮および後光厳院の室となっている。このため輪王寺は格式の高い寺となった。禅尼の夫である9代伊達政宗は度々上洛し将軍に会っている。歌人としても高名であった。
 桑折には輪王寺山という地名が残り、輪王寺は後に梁川から桑折へ移されたと見られる。

 輪王寺 伊達市梁川町 輪王寺跡土塁

 輪王寺 仙台市 輪王寺
 蘭庭堂 仙台市輪王寺内 蘭庭堂




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