伊達郡大枝城主大條氏 

 大枝城は、応永元年(1394)伊達氏8代宗遠の三男孫三郎宗行が大枝城に居城して、大條氏と称したのに始まる。別名「袖ヶ崎城」ともいう。大枝城は、低い丘陵突端部を二重堀で断ち切り、築城されている。梁川城と対峙する形で、阿武隈川に突き出たように立地し、阿武隈川ないしはその旧川跡を外堀に利用している。地元では「館の山」と呼んでいる。城の規模は東西、南北とも約300mである。

  城
     伊達一族大條(おおえだ)氏の居城 大枝城跡(伊達市梁川町)
         阿武隈川にせり出している小丘が大枝城。

 兄の9代伊達政宗は伊達家の領地を宮城県刈田地域や山形県置賜地域へ拡大した功労者であった。大條氏もその一翼を担ったと思われる。また伊達14代稙宗(梁川城主)の弟留守景宗の子が入嗣して大條氏6世三河守宗家となり、更に伊達氏の血が濃くなった。宗家の夫人は伊達氏の一族小梁川親宗の娘であり、宗家の娘は稙宗の晩年の子息伊達宗清鉄斎(後の梁川城主)の室となったという。伊達家天文の乱では、宗家は伊達晴宗方として活躍した。大條家は伊達家に最も近い伊達一族として重要な地位にあった。しかし天正19年(1591)、7世宗直は伊具郡大蔵へ移され、200年に及んだ大枝支配は終わりを告げた。大條家は文禄元年(1592)に名取郡北目へ移り、文禄2年に志田郡蟻袋へ移った。8世宗綱のとき磐井郡大原を経て、元和3年(1617)亘理郡坂本に転封され、幕末まで2千石を領した。

   大條家歴代 1宗行 2宗景 3宗元 4宗澄 5宗助 6宗家 7宗直・・・

 幕末・維新期に仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主として行動したため、終戦直後、仙台藩は解体の危機にあった。このとき官軍との交渉に当たったのは新家老の大條孫三郎道徳であった。仙台藩は26万石に減封され、藩主は子息へ譲る条件は付されたが、藩主伊達氏は存続が許された。これはひとえに大條孫三郎道徳の功績であると認め、藩主伊達慶邦は孫三郎に分家する以前の伊達姓に戻ることを許した。それで伊達宗亮と改名した。現当主は世界的に著名な物性物理学者伊達宗行氏(大阪大学名誉教授)である。梁川で、大條氏についてご講演いただいたことがある。穏やかな表情が印象に残っている。今年2月ご逝去なされた。91歳。ご冥福をお祈りする。ちなみに、芸人で活躍しているサンドイッチマンの伊達みきお氏は伊達宗亮の子孫から出ている。

 現在、城跡には400年前の姿の土塁や堀跡が残っている。一部発掘調査もなされ、中世土器などが出土している。近くには、大條氏の旧菩提寺「徳本寺」があり、大條氏のものと思われる供養塔の一部が保存されている。近年地区の有志者が城跡の保存に努力されている。大條氏は明治初期に伊達氏に改姓した。

  城
  講演会で大枝城を訪れ、歓迎する地区民にご挨拶される旧大條家現当主の伊達宗行氏

 城 大枝城の土塁と空堀

 地図 大枝城要図

  菩提寺、徳本寺

 初代大條孫三郎の菩提寺であった徳本寺が江戸時代前期に再興されて、残っている。ただし、再興の地は創建の地ではなく、古舘跡である住吉舘の本丸内である。創建の地は字町裏の地で、隣に字本舘があり、この舘跡が大條氏の通常の居館跡であろう。狭い大枝城跡は合戦時の使用であったと考えられる。

 寺  徳本寺

 寺沿革  徳本寺沿革

 ●興味ある方は →  大枝の地侍、佐藤次郎右衛門
             大枝の渡し(梁川の渡し)を詠んだ漢詩

    お問い合わせは下記へ
              伊達の香りを楽しむ会

inserted by FC2 system