まぼろしの銘木
    阿武隈川の埋もれ木   そして、名取川埋もれ木

阿武隈川の川原に横たわっている埋もれ木の中には黒色の美しい縞模様のものが稀にある。それこそは数百年数千年川底に沈んで熟成された逸材で、中古より京の雅人や江戸の文人が求め愛してきた銘木であった。多くの詩歌にも詠まれ、時には公家衆や大名家などへの献上品ともなった。特上の名産品であった。

 公家衆や大名・文人等へ献上・贈呈された銘木・珍木であった

  埋もれ木     埋もれ木

阿武隈川の川面に顔を出す「埋もれ木」  埋没年数は2000年くらいか。     砂利に埋まる埋木 ナラ材
 材はクリ(奥)とナラ(手前)。白っぽく見えるのは泥が乾燥しているため。       2000年級

阿武隈川にはあちこちに埋もれ木が出ます。川原に転がっているのもあるし、水中に沈んでいるものもある。20mくらいの巨大な埋もれ木もたまに見受けられます。色が黒いものは、およそ数千年前のものらしい。別な見方をすれば、縄文時代の樹木が川原に転がっているのです。しかも腐らずにです。こういう長命な埋もれ木は物凄い生命力と霊力をもっていると考えられます。不思議なパワーを持っています。中国では、埋もれ木に触れた女性が懐妊したという故事が伝わっています。

 これは阿武隈川の埋もれ木の原木の断面です   




    貴重な埋もれ木の内部を見るために切断した面を示しています。 
   比較的質のいい埋もれ木です。黒く固いもの、珍しい黄色のもの、赤茶色の香りのするものなどです。
   一片の埋もれ木でも一本の埋もれ木でも、ほんとにいい物がつくれる最良質の部分は一割程度です。割れや腐れや老けが多いのです。

 埋もれ木製の品々 

茶入れ width=
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 神社に奉納された埋もれ木


 飛龍の姿に見える。(福島市 本内八幡神社)


 桑折村の俳人佐藤馬耳は享保10(1725)の句会で、古歌「君が世に・・・」を引いて、次のように吟じている。

  (享保十年)巳年表合
  君が世にあぶくま川の埋もれ木も氷の下に春をこそ待て
  ○埋もれ木も今朝大隈や初香炉     馬耳
       (佐藤馬耳編著「初かすみ集」 『桑折町史第四巻』)

 この香炉の灰は阿武隈川の埋もれ木灰かもしれない。佐藤馬耳は芭蕉後の信達俳壇を率いる中心人物であった。佐藤馬耳編の寛延3年(1750)「閑々集」には次の句が載っている。

  あぶくまを渡りて阿武の松を望む
   ・埋もれ木を昼ハそしるや若緑    保原 金花
  吉村尊公より ありがたき御意を得られし御方 予にかうかうと語られしを聞きて ことふき侍りぬ
   ・時得たり大態川の埋もれ木も
          うきてむかしを目にそ立ちける   桑折 馬耳
              (寛延三年「閑々集」 『桑折町史第四巻』)

 「阿武の松」は阿武の松原のことで、上保原から箱崎村の山岸を通って瀬の上へ抜ける街道沿いにあった松並木である。中世の古歌にも詠まれていた名所であったが、幕末・明治期にはほとんど絶滅していたという記録がある。江戸の中期にどれほどの本数が残っていたか知れない。保原の金花も馬耳の俳句仲間、地元の人たちが阿武隈川の埋もれ木を俳句や和歌に詠んで楽しんでいた光景が目に浮かぶ。「うきて」は「浮く」と「憂く」をかけている。埋もれ木は重いので水に浮かぶことはないから、埋もれ木が水面に少し顔を出しているのだろうか。「吉村尊公」は仙台藩主伊達吉村。江戸と仙台との往復によく桑折の宿場で句会を楽しんだらしい。彼は金花の俳句を褒めたのである。

 享保年間前後の出来事を記した留帳に阿武隈川の埋もれ木の記事がある。著者の大友宅右衛門は粟野村の有力者である。この留帳は享保年間〜宝暦年間における粟野村とその周辺の村々の災害・祭礼・事件・婚礼・生活全般について記されており、たいへん貴重な資料である。

一、そこ木川原にかかり候事、享保六丑年之八月一日〜二日大水にて罷出候。村中伐分け申すべき由、又売り物に仕るべき由申所に、御公儀にて御聞及ぼされ、用木に御取遊ばされ候事、さてさて人足百人余り、足軽賄いに金三分、村まよい仕り候。
                  (「大友家御作法諸色留帳」)

 享保6年(1721)8月1日・2日に阿武隈川の洪水があった。このとき、粟野村の川原に底木がかかったという。かかったというのは、水が引いていく途中に川原に残されていったという意味である。底木というのは普段は川底深く沈んでいる埋もれ木のことと思われる。村人たちは、小さく伐り分けて分配するか、誰かに売りつけてそのお金を分配するかで、議論があったというから、相当大きな大木のようである。ところが公儀(幕府代官所)が聞きつけて、御用木として取り上げることが急に決まり、村人たちは諦めるしかなかった。そのうえ、埋もれ木の引上げ人足に百人が駆り出され、さらに足軽役人の賄い料として金三分を負担させられてしまった。随分ひどい話である。だからこそ永遠に記憶に留めようと留張に載せたわけであろう。御用木というから、この埋もれ木は私的には使われなかったとは思う。たぶん役所の建替え等に使用されたことと想像するが、端材は代官たちが分けたであろう。
 ところで、村人たちが分配して、はたして何に使うのであろうか。このことの方が、私にはたいへん気にかかる。埋もれ木灰にして香炉に使用するのではあるまい。文机か菓子盆・煙草盆あたりか。いずれにしろ、伊達地方の村人たちは阿武隈川の埋もれ木が高級材であることを知っていたとしか思えない。誰かに売りつけようとするのも、高級材として高く売れることを知っているからなのである。一般の百姓たちが埋もれ木の知識をもっていたと考えざるを得ない。
 「奥羽観蹟聞老志」に半世紀ほど遅れて天明7年(1787)に、高子村(現伊達市保原町大字上保原)の儒者で豪農の熊坂台州が「信達歌」を著し出版した。熊坂氏は覇陵、台州、盤谷と三代続いた儒者・豪農として知られる。中でも台州は、最も著作出版活動が盛んであった。邸内には「白雲館」と称する学塾があり、多くの門弟が通っていた。「信達歌」は信達地方の歴史や文化や熊坂家の栄華等を大長編の漢詩に詠んだもの。第一部は台州の叙事詩と息子盤谷の註記、第二部は盤谷の考証付録。ここには儒家として文化人として詩人としての台州の才能が躍如としている。これほど上手に信達地方の歴史文化を歌い上げた叙事詩はない。実にすばらしい歌である。現代の私たちもこのくらいの歴史や文化は知っておきたいもので、地元の中学生や高校生には郷土学習の副読本として一読をお薦めしたい。

灰 埋もれ木灰 赤茶色の灰 阿武隈川産

 さて、盤谷は註書で、世に言う埋もれ木灰は阿武隈川の埋もれ木を燃やした灰であるとしている。盤谷は名取川の埋もれ木を知らないはずはない。熊坂家の蔵書の中にも「奥羽観蹟聞老志」がある(保原町史第五巻)。盤谷は郷土愛が強すぎるのであろう、阿武隈川の埋もれ木を燃やした灰だけが埋もれ木灰と言わんばかりである。埋もれ木灰の色は紫色や赤色であるという。香炉の灰に使用すれば、火持ちがいいという。数寄者の好むところという。これらの記述は先の「奥羽観蹟聞老志」の名取川の埋もれ木についての記述の内容とほとんど同じで、名取川を阿武隈川にすり替えていると言ってもいい。すり替えといっても、事実でないというのではない。名取川同様、阿武隈川の埋もれ木も平安時代の昔から都の人たちの古歌に詠まれてきたのである。
 熊阪盤谷は「信達歌考証付録」の中で阿武隈川の埋もれ木とそれを詠んだ和歌三首をあげている。

  隈川沈木
    隈川ノ崩崖、往々之ヲ出ス。其ノ質、或ハ赤、或ハ黒。以テ器ヲ製ス也。秀ガ家ノ曳尾堂書架窓□、皆此ノ木ヲ用テ製スト云フ。
  新古今 雑
   最勝四天王院の障子に逢隈川かきたる所
   君が代に阿武隈川の埋もれ木も 氷の下に春を待けり   藤原家隆朝臣
  夫木集 隈部
   ふかき秋阿武隈川原しくるれど 色こそ見えね瀬々の埋もれ木  藤原康光
  後拾遺 旅
   いなかに侍りける頃 つかさめしを思ひやりて
   春毎に忘られにける埋木は 花の都を思ひこそせれ   源重之
            (「信達歌考証付録」熊阪盤谷編著)

 新古今集は1205年成立、夫木集は1310年ころ成立、後拾遺集は1086年成立。
 「信達歌考証付録」によれば、阿武隈川の埋もれ木は川岸が崩れた崖などに顔を出して見つかるとしている。確かに洪水で崖が崩れ埋もれ木が出土することはあろう。しかし多くは、川底深く眠っていたものが洪水の後に川原や浅瀬に置かれていくものである。古歌に詠まれているような阿武隈川の埋もれ木は、川面に少し首を出している埋もれ木のイメージである。高子の熊阪家の「白雲館」では、曳尾堂(図書室)の書架や窓枠に阿武隈川の埋もれ木材を使用していた。埋もれ木の色は赤ないしは黒であったという。もちろん埋もれ木灰が入った香炉で聞香を楽しんでいたであろう。
 また、この伊達郡地方でも埋もれ木で器(菓子皿や盆など)を造ることがごく普通におこなわれていたことが記してある。しかし、「奥羽観蹟聞老志」の名取川の埋もれ木についての記述をそのまま引用したとすれば、「器ヲ製ス」という部分は嘘になるが・・・。
 さて、伏黒村の旧家で名主なども度々勤める佐藤与惣左衛門は蚕種製造者として全国的に高名であるが、仕事がら多くの日記を書き残している。養蚕は気候に左右されやすいので、有能な蚕種製造者は日記を記し後年の資料としたのである。天明3年(1783)の上州浅間山の噴火により上州地方は農業が大不作となった。火山の噴出物が泥流となって役所や人家を襲った。蚕種売りに来ていた伊達の者たちからこれらの情報が与惣左衛門の耳に入った。

 天明三年、御料御番所辺家内江泥押込、梁下まで泥積もり、当時二階の上に住居致者之有候由、蚕種売衆中色々物語之有事ニ候、私ニ曰く、泥壱丈も積もり候所も之有候由、其の昔、当国泥の海成り候而、其の節根返りニ成り、大木埋れ木ニ成り阿武隈川辺江あらはれ候、右類の事ニも之有るべき哉と諸人申唱候。・・・
              (「天明三年佐藤与惣左衛門日記」)

 天明期の与惣左衛門は佐藤家八代で喜一といった。文学の才にも長けていた。上州からの情報に、「上州では泥が一丈(約三メートル)も積もったそうだ。その昔、信夫伊達地方が泥海になり、大木が埋もれ木となった。それが後の世の洪水で強い流れによって引き出され阿武隈川の川原へ置いて行かれたりするが、このような泥海なのだろうか」と人々は噂話をしていたという。与惣左衛門は阿武隈川の埋もれ木が好きで、けっこう集めていたらしい。もちろん古歌にも歌われていることを知っていたと思われる。当時の幕料桑折代官布施弥市郎に乞われて埋もれ木を献上している。

 (天明八年十月十三日) 天気 夜に入雨少々、夜半頃より雨。御代官布施弥市郎様、羽州御検見の御帰り、桑折御本陣へ御泊り、杉浦丈四郎殿、御供也。此御手代さま、予め御尋に付、此夜本陣へ罷出申候。但、御代官様へむもれ木の板(但し玉ごとくなり 長二尺八寸 幅三寸5分余) 壱まい差上申候。御満悦孝き御詞下し置かれ候。御帰館、則、すいばちに遊ばされ候と、仰せ聞かせられ候。
 杉浦氏へ手むき三十匁差上げ申し候。外、埋木はし板四枚差上げ申し候。是、文台を寄木にて御仕立遊ばされ候と思い立ち、筆ころばしに遊ばさるべき由、尤も国々古木御集なされる所、阿武隈川埋木之無く[・・虫食いカ・・・]、此度、無心申し度、心底之所諸願成就、等と仰せ聞かされ候。            (「天明八年佐藤与惣左衛門日記」)

 手代の杉浦丈四郎を通してあらかじめお願いされていたらしく、与惣左衛門は天明8年10月13日御代官が宿泊している本陣へ埋もれ木一枚を持参した。長さは二尺八寸(85cm)、幅は三寸五分(10.6cm)で、それは「玉のごとき埋もれ木」であった。「玉のごとき」とは玉石(ギョクセキ)のような艶と文様があるという意味であろう。私は十年ほど阿武隈川の埋もれ木を収集してきているが、幾分それに近いものは見つけたことがあるが、今だにこのような素晴らしい埋もれ木に出合ったことがない。御代官はご満悦だったという。お代官は垂撥(すいはつ)に作りたいらしかった。垂撥とは掛軸などを床の間に下げるときに使用する自在鈎のようなものである。埋もれ木のサイズや形状から垂撥を思いついたのかもしれない。そんなに文様がよく艶があるのなら、宝石箱のようなものの方が良いのではと、私には思えるのだが・・・。
 
   文台 阿武隈川埋木製の文台(復元品 ナラ材) 

  

文台 名取川埋木製の文台(復元品 クリ材)

 手代の杉浦へは手向き真綿のほか埋もれ木の切れ端を四枚差し上げたという。杉浦は寄木で文台(ぶんだい、脚の低い文机)を作ってみようと思いつき、その「筆ころばし(天板)」に埋もれ木を使いたいという。代官の布施か手代の杉浦か、どちらか不明だが、全国の古木収集に興味があり、阿武隈川の埋もれ木がまだ手に入っていなかった。それで無心したという。「心底之所、諸願成就」というから、阿武隈川の埋もれ木は最後の獲物だったかもしれない。代官や手代は数年で異動される。全国の幕府料を転々とする毎に古木銘木を数多く集めていたと思われる。

 名取川の埋もれ木はさらに有名だった  → → → 「名取川埋もれ木」と「仙台埋木細工」もご覧ください。

   名取川の埋もれ木と伊達氏    仙台埋木細工と仙台藩士
 

  ◆(参考)『阿武隈川の埋もれ木―まぼろしの銘木の歴史と文化―』(松浦丹次郎著 土龍舎)、 『埋もれ木に花が咲く~名取川埋もれ木と仙台埋木細工~』(松浦丹次郎著 土龍舎刊 2016)


●「阿武隈川の埋もれ木細工展」(平成26年5月8日〜13日 終了しました)
     福島テルサ4Fギャラリー「阿武隈川の埋もれ木細工展」

「埋もれ木に花が咲く~名取川埋もれ木と仙台埋木細工~」
埋もれ木発見、阿武隈川        あぶくま沈木会


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