阿武隈川の川原に横たわっている埋もれ木の中には黒色の美しい縞模様のものが稀にある。それこそは数百年数千年川底に沈んで熟成された逸材で、中古より京の雅人や江戸の文人が求め愛してきた銘木でした。多くの詩歌にも詠まれ、時には公家衆や大名家などへの献上品ともなりました。特上の名産品だったのです。
延享3年(1746)4月、白河藩主松平定賢は、徳川家重の将軍就任を祝うため京の都から江戸に来ていた公家の烏丸光栄へ、阿武隈川埋木製の硯箱を献上しています。当時、伊達郡保原村地域の17村2万石が白河藩の飛び領になっていましたから、伊達の阿武隈川で採集された埋木であった筈です。それにしても松平定賢が白河藩にやってきたのは寛保元年(1741)冬でしたから、わずか数年で埋もれ木の価値を認識していたことに感服します。松平定賢の和歌や漢詩が残されているので、定賢は知的な殿様だったようです。のちに老中として活躍し、文化人として著名な松平定信は定賢の孫にあたります。
「 延享三年、烏丸内府光栄関東下向し給ふ時、阿武隈川の埋木をもて作れる硯の箱を、
松平越中守より送りまいらせられければ、内府、
治れる 御代のすさびに あふくまや 此埋木も あらはれにけり 」 (土肥経平「風のしがらみ」)
歌の意味を考えると、烏丸は将軍の御前でこの歌を詠んだと考えられます。別の資料では、将軍がこの硯箱を烏丸に与えたとするものもあります。
阿武隈川にはあちこちに埋もれ木が出ます。川原に転がっているのもあるし、水中に沈んでいるものもある。20mくらいの巨大な埋もれ木もたまに見受けられます。色が黒いものは、およそ数千年前のものらしい。別な見方をすれば、縄文時代の樹木が川原に転がっているのです。しかも腐らずにです。こういう長命な埋もれ木は物凄い生命力と霊力をもっていると考えられます。不思議なパワーを持っています。中国では、埋もれ木に触れた女性が懐妊したという故事が伝わっています。
貴重な埋もれ木の内部を見るために切断した面を示しています。
比較的質のいい埋もれ木です。黒く固いもの、珍しい黄色のもの、赤茶色の香りのするものなどです。
一片の埋もれ木でも一本の埋もれ木でも、ほんとにいい物がつくれる最良質の部分は一割程度です。割れや腐れや老けが多いのです。
飛龍の姿に見える。(福島市 本内八幡神社)
桑折村の俳人佐藤馬耳は享保10(1725)の句会で、古歌「君が世に・・・」を引いて、次のように吟じている。
(享保十年)巳年表合
君が世にあぶくま川の埋もれ木も氷の下に春をこそ待て
○埋もれ木も今朝大隈や初香炉 馬耳
(佐藤馬耳編著「初かすみ集」 『桑折町史第四巻』)
この香炉の灰は阿武隈川の埋もれ木灰かもしれない。佐藤馬耳は芭蕉後の信達俳壇を率いる中心人物であった。佐藤馬耳編の寛延3年(1750)「閑々集」には次の句が載っている。
あぶくまを渡りて阿武の松を望む
・埋もれ木を昼ハそしるや若緑 保原 金花
吉村尊公より ありがたき御意を得られし御方 予にかうかうと語られしを聞きて ことふき侍りぬ
・時得たり大態川の埋もれ木も
うきてむかしを目にそ立ちける 桑折 馬耳
(寛延三年「閑々集」 『桑折町史第四巻』)
「阿武の松」は阿武の松原のことで、上保原から箱崎村の山岸を通って瀬の上へ抜ける街道沿いにあった松並木である。中世の古歌にも詠まれていた名所であったが、幕末・明治期にはほとんど絶滅していたという記録がある。江戸の中期にどれほどの本数が残っていたか知れない。保原の金花も馬耳の俳句仲間、地元の人たちが阿武隈川の埋もれ木を俳句や和歌に詠んで楽しんでいた光景が目に浮かぶ。「うきて」は「浮く」と「憂く」をかけている。埋もれ木は重いので水に浮かぶことはないから、埋もれ木が水面に少し顔を出しているのだろうか。「吉村尊公」は仙台藩主伊達吉村。江戸と仙台との往復によく桑折の宿場で句会を楽しんだらしい。彼は金花の俳句を褒めたのである。
享保年間前後の出来事を記した留帳に阿武隈川の埋もれ木の記事がある。著者の大友宅右衛門は粟野村の有力者である。この留帳は享保年間〜宝暦年間における粟野村とその周辺の村々の災害・祭礼・事件・婚礼・生活全般について記されており、たいへん貴重な資料である。
一、そこ木川原にかかり候事、享保六丑年之八月一日〜二日大水にて罷出候。村中伐分け申すべき由、又売り物に仕るべき由申所に、御公儀にて御聞及ぼされ、用木に御取遊ばされ候事、さてさて人足百人余り、足軽賄いに金三分、村まよい仕り候。
(「大友家御作法諸色留帳」)
享保6年(1721)8月1日・2日に阿武隈川の洪水があった。このとき、粟野村の川原に底木がかかったという。かかったというのは、水が引いていく途中に川原に残されていったという意味である。底木というのは普段は川底深く沈んでいる埋もれ木のことと思われる。村人たちは、小さく伐り分けて分配するか、誰かに売りつけてそのお金を分配するかで、議論があったというから、相当大きな大木のようである。ところが公儀(松平氏梁川藩三万石支配時代の梁川役所)が聞きつけて、御用木として取り上げることが急に決まり、村人たちは諦めるしかなかった。そのうえ、埋もれ木の引上げ人足に百人が駆り出され、さらに足軽役人の賄い料として金三分を負担させられてしまった。随分ひどい話である。だからこそ永遠に記憶に留めようと留張に載せたわけであろう。御用木というから、この埋もれ木は私的には使われなかったとは思う。たぶん役所の建替え等に使用されたことと想像するが、端材は代官たちが分けたかもしれない。
ところで、村人たちが分配して、はたして何に使うのであろうか。このことの方が、私にはたいへん気にかかる。埋もれ木灰にして香炉に使用するのではあるまい。文机か菓子盆・煙草盆あたりか。いずれにしろ、伊達地方の村人たちは阿武隈川の埋もれ木が高級材であることを知っていたとしか思えない。誰かに売りつけようとするのも、高級材として高く売れることを知っているからなのである。一般の百姓たちが埋もれ木の知識をもっていたと考えざるを得ない。
「奥羽観蹟聞老志」に半世紀ほど遅れて天明7年(1787)に、高子村(現伊達市保原町大字上保原)の儒者で豪農の熊阪台州が「信達歌」を著し出版した。熊阪氏は覇陵、台州、盤谷と三代続いた儒者・豪農として知られる。中でも台州は、最も著作出版活動が盛んであった。邸内には「白雲館」と称する学塾があり、多くの門弟が通っていた。「信達歌」は信達地方の歴史や文化や熊坂家の栄華等を大長編の漢詩に詠んだもの。第一部は台州の叙事詩と息子盤谷の註記、第二部は盤谷の考証付録。ここには儒家として文化人として詩人としての台州の才能が躍如としている。これほど上手に信達地方の歴史文化を歌い上げた叙事詩はない。実にすばらしい歌である。現代の私たちもこのくらいの歴史や文化は知っておきたいもので、地元の中学生や高校生には郷土学習の副読本として一読をお薦めしたい。
埋もれ木灰 赤茶色の灰 阿武隈川産
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