天明の凶作と飢饉  

 天明3年(1783)の凶作は東日本各地で天候不順が続、稲作が平年の二割から三割しか収穫が得られなかった。伊達郡では、心配した幕府や私藩から検見役人が送られ実情を視察し、大きく減免を決めた。伏黒村(伊達市内)では、豪農と言われる「藤屋」佐藤家でも翌年正月の食事はひどく粗末なものとなった。「正月賄ひ元三朝に、麦粉、粉米、蕎麦粉取集、牛蒡を加へ餅に而賄ひ申候、夕飯は麦ひきわり大根糧多く入賄ひ申候、米計りに而舂候餅は無之、粟米半々是を以客人まかなひ申候、諸人珍敷大食す。」と日誌に書き残している。また、「閏正月朔日、暖□□□路次もよろしく成る、此節□、乞食非人所々に而多く死す」の記事もみえる。
 当時信達ちほうには約200の村々があり、福島藩、白河藩保原分領のほか幕料の桑折陣屋、梁川陣屋、川俣陣屋、大森陣屋などに支配が分割されていた。そのため各陣屋ごとに凶作に対する対応がなされた。
 「藤屋」の日記に、次の記載も見える。

 正月、川俣御料御代官水谷祖右衛門様御支配所之内に而粥をたかせられ、壱日に四ヶ村宛被召出、御施行被遊候、壱人に付めし椀弐盃宛。
 梁川御陣屋に而正月二十九日より閏正月朔日迄。
 石田村に而閏正月二日より
 川俣に而閏正月五日より同七日迄
 其外所々に而壱日計り粥施行有之候得とも、予愚案にはすこし宛毎日施行には省り可申哉、麦米銭抔を施し候に而は乞食非人よろこひ不申候、早速食に成るものなれはよし、大根漬、葉漬抔もよし、大豆煮施し候もよし、とうふのからよし。

 貧しい困窮の者たちへは粥の施行が行われた。しかしこれは正月だから特別に実施したものか、分からない。日記の筆者「予」は粥の施しをできるだけ毎日ながく行うこと、また小銭を与えるより腹の足しになるものを与えた方がよいと「愚案」を述べているのは、納得できる。

 二月二十一日朝、雨、五つ時より止みくもり、又雨申候。梁川町付火多、騒々敷事に候、保原、泉沢辺、大根種ぬすまれ、人々こまり申候。予カ宅えも所々より種大根あつらひ植置申候、此節乞食多く、めしの湯江すこしそば粉を加へ施し申候、
 二月十日頃浸し申候種籾をぬすまれ、皆々番人を付申候、浸し候日限より四五日間六ヶ敷候、其後は土用之節に成る頃盗み多し。
 三月七日、種籾まき申候、凶作に付芽立之程諸人心遣ひ致候得共、皆々大切に致候故か、御見事出来申候、苗代江籾を蒔候ハハ盗まれ候気遣得共、無其義候。

 泥棒が多くなっていた。種大根や種籾などが盗まれる。疫病も多発した。それは食事のひどさからきていた。せめて雑穀を食べていたものは死なずに済んだ。草の葉根だけを食べていたものは死んだという。

 五月十九日大暑、早く植付候田ハ、草生よろしく相見申候、扶食高値に付人数抱兼、其上飢饉疫病多く、扶食無之、五穀之外色々の草木の葉抔食候者は疫病に而多く死す、五穀之内に而菜大根其外、大豆、そば、あづき等に而しのき候者は疫病煩候而も快気致す、百姓取続田畑相続致候者は喰続申候、併兼而之心懸と夫夫の出精相見申候、扶食不足に而自然と食物も格別に成候故、大家に而も家来共煩ひ耕作手入に差支候衆中多く候。
 越後国より日雇人共年々多く入込み、信達両郡江召抱候数壱万人も可有之抔と申唱候、当村江五百人入込み可申申唱候所、当年飢饉之様子及聞、殊に道中も泊り休み木賃米代高値に而路銭多くかかり、尤国元より飯米心懸持参候者ハ、会津御番所つほおろしに而、右之米取上ヶ御買上に成候而、及難儀、右場所より無拠帰国致候者共有之候、此様子聞ふれ一切日料人参不申候。
 六月二十三日、疫病煩者、此節諸所に而多く死す、食物よろしからさる者ハ疫病に而死す、此節も捨て子抔相見申候、此地承り伝不申候。

 町場では疫病患者の二割が死に、在村では一割が死んだ。伏黒村では幸い病死は平年通りだった。相馬では春中餓死者が続出した。仙台では疫病患者のうち三分の二が死んだというが、これは三分の一の間違いではないかと、予(私)は思った。七月になると、盗難の数は減り、落ち着いてきた。早生稲の新米の収穫も少しあり、予は親戚から貰った新米を盆棚に手向けることが出来た。八月の稲刈りでは、桁懸けした稲が盗まれるので、見張り番をしなければならなかった。幕府や私藩から年貢の八割値引きがあったり、施行米の提供が行き届くようになったものと推察される。各藩では苦労して穀米を確保したのであった。例えば前年に収奪した年貢米を戻したり、凶作の被害が少なかった越後地方から大量に穀米を購入したのであった。また禁じられていた濁り酒造りも始めたものがいた。

 六月二十七日、残暑甚、疫病に而福島、瀬上、桑折、梁川、藤田に而、病死弐分方人減じ可申と申唱候、在々に而、壱分方病死と申唱候、当村抔ハ病死も平年通りに可有申候。
 相馬ハ春中餓死多し、仙台は此節迄御城下に而三分之二死すと申唱候得共、是は三分壱死に候様、愚案。
 七月五日、市へ新米出申候、当春以来小盗多く、大根種或は種いも其外畑の内に而穂麦盗苅致候、此頃はゆるやかに成申候。
 七月十三日、此日岡村より新米貰申候、予始盆棚江新米手向申候。
 八月十五日、天気、大根すこしなをり申候、にこり酒所々に而多く出来申候、飯坂町半七殿八月十四日より新酒相出売申候。
 八月十七日、稲をかりほす事ならす、向田ハかり把而はこひ申候、たなかけニかり候者は夜中番をつけ申候。

 それにしても、この当時、越後地方から信達地域へ一万人もの労働者が入ってきていたことに驚かされる。伏黒村だけでも500人ほど越後出身がいるという。越後者が多いとは耳にしていたが・・・。いかに福島伊達地域が経済的に発展していたかを物語るものでもある。しかし彼らは天明4年5月、信達地域へ行くことが出来なかった。会津の番所でストップさせられたのである。彼らは信達が飢饉であることを承知の上で故郷を出てきたのであった。彼らは持参していた飯米までも取上げられ、故郷へ帰された。その米は買取られたというが、この米の行方が気になる。

  天明三年の飢饉  善政と悪政を見る

 天明4年(1784)は奥州域はたいへんな凶作となり、信夫郡・伊達郡域でも多数の餓死者が出たが、白河藩領内17村では早期に扶食米を農民達に施したために、被害がきわめて少なかったという。その理由は、白河藩が越後の蒲原郡など五郡に領地(およそ8万石余)があり、そこでは山奥の田地を除いて比較的米の収量が良かったので、藩主の大号令でたやすく米1万俵の輸送が出来たことであった。不足分は会津藩から米6千俵を買い入れたという。まさしく藩主松平定信の英断であった。
 しかし信達地方の白河藩分領保原陣屋管内では代官滝沢仁左衛門が冷酷な厳しい年貢取立を強行した。滝沢代官は水田の年貢は軽減したが、畑の年貢を1両あたり12俵(約3斗)で増徴したというのだ。これは米価沸騰時の市中値段である。これには、幕料川俣代官所梁川出張陣屋管内の新田村・小幡村・大立目村などの者で白河藩領内に畑を所有する者たちも怒りを爆発させた。農民たちの意気は一揆寸前まで高まり、天明3年11月に下保原村の枝郷である八幡台に終結した。ここは平地から5mほど高台にあり、古木の笠松「駒止めの松」が聳え立つ公園になっていた。

 駒止めの松  駒止の松
     名所「駒止の松」と周辺の現況 (伊達市保原町字八幡台)  数年前の落雷で、松は枯れてしまった。

中心人物であった柳田村の幕田義兵衛は12月25日に手鎖になった。31日には赦されたが、自宅謹慎の身で正月行事は一切できなかった。そこで幕料川俣代官所の元締百瀬喜兵衛が仲裁に入り、正月27日新田村の名主半右衛門宅に大立目村と小幡村の名主を呼び情報収集し、さらに幕田義兵衛と協議、代表して義兵衛が窮状を訴える訴願文を保原陣屋へ届けた。陣屋の手代某がこのことを白河へ通報した。これにより保原陣屋管内の年貢は周辺村々並に軽減された。間もなく義兵衛は白河から呼出をうけ、天明4年閏正月7日、白河へ向けて出立した。義兵衛は再度窮状を藩へ訴え、藩からは労をねぎらわれたと思われる。滝沢代官は松平定信の倹約令の趣旨を誤解したために年貢増徴に奔ったとされている。
 白河藩保原分領  
  天保の凶作と飢饉
   江戸時代の伊達郡の米価格

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