「先考覇陵山人行状」(「永慕編」所収)によれば、覇陵(1709〜1764)は宝永6年に保原中村に生まれた。父は児島定悠、母は片平氏の娘エンであった。エンは中村の熊坂太治右衛門に嫁ぎ二児をもうけた後に夫が死去したため、太治右衛門の実家太左衛門助利(長兄)家に幼な子とともにひきとられた。太左衛門は熊坂の本家であり、伊達郡きっての豪商で、当時領主梁川藩主松平氏の御用達商人でもあり、町年寄を勤めるなど人望もあった。学問才識も兼ね備えた人物でもあった。太左衛門は江戸で知りあった児島定悠をエンに婿入りさせ、熊坂の姓を名乗らせたのだった。幼な子二人は太左衛門の養子としたから、定悠とエン夫妻は新宅に出された格好である。
◎高子熊阪氏歴代
1709-1764 1739-1803 1767-1830 1787-1828 1792-1836 1827-1888
-----覇陵------------- 台州------------盤谷--------- (八百枝) ------------定謙------------ 定駿-----
(定昭) (定邦) (定秀) (廃嫡) (養嗣子、堀氏)
高子熊阪家の家族構成
覇陵は生まれながらにして才知にあふれた顔立ちだった。
或る日、覇陵の父児島定悠は僧にするため子供の覇陵を仏門に入らせた。これに怒った太左衛門はその寺から強引に覇陵を奪い返し、覇陵に「千載」という名を与えたという。「千載」は中村の熊坂家当主が代々世襲してきた幼名だったので、定悠は太左衛門と口も聞かず、僧門に入ってしまったと伝えられる。太左衛門は強引すぎる。定悠と太左衛門の仲たがいは長く続いたと見られる。その後の覇陵は定悠家で育ったのか、太左衛門家で育てられたのか、よく分からない。その後も覇陵の秦家への縁組を太左衛門主導でやっているから、太左衛門は覇陵を養子同然にしていたのだろう。それほどに太左衛門は豪腕だったのである。覇陵は子供のころから漢文に長け、諳んじている文章がたくさんあった。少年期に剣術や弓術を身につけ、書も得意であり、将棋や尺八も上手であった。やはり太左衛門の教育指導のもとに英才教育を受けたと見られる。
覇陵の実母エンは享保7年6月に39歳で亡くなった。このとき覇陵は14歳だった。後に実父の定悠は延享2年に77歳で亡くなる。実父母の墓は長谷寺に営まれ、高子へは移されなかった。
覇陵の性格は謹厳方正であった。巧言令色な人に対しては屹然とした態度で臨み、筋の通らないときは相手が貴人でも屈すことがなかった。覇陵は26歳で秦豊重に婿入りし、豊重養女ヤツ (熊坂太左衛門の次女、16歳)と結婚した。享保19年(1734)のことであった。覇陵とヤツの結婚にはもう一つ条件があった。若くして寂しく亡くなった太左衛門のもう一人の弟熊坂太七の菩提を弔わせるため、太七の墓を中村の長谷寺から高子村へ移して改葬させ、太七の墓守(後継者)として豊重・覇陵父子を高子村へ移住させたのである。そして苗字も秦氏から熊坂氏に替えさせた。これが高子熊阪氏の誕生である。享保20年のことである。なお、太治右衛門の菩提はひきとっていた二人の遺児の弟四郎右衛門に弔わせ、家を下保原村十日町に再興させ、兄の多作助友は太左衛門自身の養嗣子とし、長女と婚姻させ、後に太左衛門を襲名させている。太左衛門助利には唯一の男子義州がいたが、僧門に入ったため、後継者がいなかったのである。義州は高子に隠泉庵を築き、熊阪台州に学問上の影響を与えた。彼は後年栃木県佐野の本光寺を経て、広島県国泰寺へ移り、ここに没した。
熊坂太左衛門は豊重・覇陵父子を高子村へ分家に出すにあたって、たくさんの田畑を分与したと見られる。おそらくこれらの田畑は小作に出していたと見られ、小作米で蔵が建ち、更に蔵の数が増えていったのだろう。残されている熊阪家の屋敷図には蔵十軒ほど描かれている。多少波はあったであろうが、覇陵は堅実な篤農家であり、経営家でもあった。蓄財の能力に長けていた。そのうえ倹約家にして施しを好んだ。浪費をしないので家計は常に余剰があった。後の盤谷の代には熊阪家の所持高は約百石程度あったのが確認できる(庄司吉之助著「近世民衆思想の研究」)。豊重はどもりがちで、口数が少ない人物であったようだが、人々の信頼はあった。悪いことの出来ない性分で、たいへん温厚な人物であったようだ。元文3年に67歳で亡くなっているから、高子での覇陵たちとの生活は四年しかなかったことになる。このとき夫人のエツは42歳だった。エツは若いころから書をよくし、裁縫が得意で、貞淑な女性であった。仏教にも深く帰依し、隠泉庵の義州のもとによく通っていた。特に養女ヤツの死後は幼い孫台州の世話をよくした。
一方、覇陵は、伊達郡を代表する儒学者・奇特者であった。子の台州、孫の盤谷も儒学者・奇特者であった。熊阪家は飢饉や凶作などで周辺の村々に困窮者たちが出ると、度々多くの施しをしている。桑折代官所からも何回も褒賞を受け、苗字帯刀を許された。熊阪家は地元民から「積善の家」と呼ばれ、「熊阪神」の碑が建てられたほどである。
また覇陵は典籍を嗜み、たくさんの蔵書をもっていた。性理家(朱子学者)に惹かれていたが、後には逃禅を愛し(世事を逃れ坐禅に没頭し)、無垢居士と号した。不距・君行とも号した。蘇軾の漢詩を愛誦し、また自らも漢詩を作った。物氏荻生徂徠の書を読み、中国の詩を誦するに及んで、甞て自分が作った詩文の下手なことを羞じて、其の詩稿を火に燃やした。これは一流の陶芸家が満足のいかない出来の陶器を壊すのと似ている。覇陵の漢詩の感性は豊かで、若々しい。当時は東北でも有数の詩人ではなかったかと思われる。
覇陵はきわめて勤勉家であった。必要とあれば投資することを積極的に行なった。ために、周囲の人は気を揉んだが、長い年月が経ってみると確実に貯蓄は増えていった。経営の才能があったのである。先祖の菩提を弔う慈父の心ももっていた。息子台州の教育にも熱心であった。
高子山と白雲館跡の遠景
覇陵は自分の家を白雲館と号し、楼閣を明月楼と名付けていた。覇陵は白雲館の西に山の斜面を活かして枯山水の庭を築いた。「西」というのは台州の方向感覚で、正確には南西というのが正しいであろう。石と木は裏山のものを使用し、狭い所に奇石や奇松などを配したのであろう。特に石は高く険しく配したようで、幽谷絶谷の感じを強めた。水はないが、激しく流れる雰囲気である。小さな園庭ながら一回り巡れるように小道もあった。最も高い場所には「楽天塢」と名付けた。楽天塢に上ると南白鷺峰・走馬嶺・?山・及返照原を見渡せた。そのほか石筍嶺や集真台と名付けた岩もある。海左園の詳細については台州が「旧海左園記」で述べている。
高子熊阪家海左園の理解図 真隠亭と白雲館の理解図
覇陵の死後、息子の台州は白雲館の北に琴を弾く部屋として洗心室を造り、西には曳尾堂という書堂(書庫)を造った。晩年には南に真隠亭を築いたが、西の海左園を改造してそこへ移築した。曳尾堂には主に覇陵の蔵書を保管したというが、白雲館の図書数は孫の盤谷の代には1万冊を超えていた。この蔵書は明治初期ころに山形県の半沢家に移されたところまでは判明している。その後の行方は不明だが、その目録が残されている。実際数えてみると一万冊を超えている。
曳尾堂の書棚や窓枠などは阿武隈川産の埋もれ木で拵えてあったことが「信達歌」に記載されている。熊阪氏は古代中世から京都の公家たちが愛してやまなかった阿武隈川の埋もれ木に執心していたのであった。
熊阪家には白雲館屋敷図と呼ばれるものが伝わっているが、明月楼や曳尾堂はどの建物かよく分からない。白雲館と真隠亭は見当がつく。白雲館の建物をよく見ると、二階への階段の記載が見える。おそらくこの二階が明月楼であるのだろう。南側(二十境記に従えば東側になる)には堀がめぐらしてあり、南門がある。西には西門もある。土蔵や薪屋・物置が10棟以上ある。厠や浴室、下人の部屋や寝間まで書き込んである。背後は山で、緩斜面を利用して竹林や雑樹がある。
このほか覇陵は殊のほか牡丹が好きで、紅白合わせて数十株育てていた。いずれも京都から取り寄せたものだった。実父定悠が京都出身であることによる。牡丹の花を見に来た友人知己には茶菓子の接待をした。年老いて身体が不自由で来られない人たちには花を切りとり届けたという。郡内の俊英たちが覇陵を慕って白雲館に集るようになり、文化の華が開いた。 酒席で詩吟となることもあったが、覇陵は酒を嗜まかった。勧められれば少しは飲めたが、酒好きの客には酒肴を出し、客たちが長時間唄い踊っていても笑って平然としていられた。
覇陵は後漢書などの歴史書や陶淵明の漢詩集などをよく読んでいたようだ。覇陵は後漢書に収録されている仲長統伝を読んで得心がいったのであった。仲長統は山を背にした立派な屋敷をもち、屋敷周りに堀もある。水田や果樹園も充分あり、荷車や舟もある。召使や下僕もいる。すべてを手に入れた仲長統は何か物足りない。そこで漢詩二編をつくり、山に隠棲したり、海で遊んだりしたい自由な心境を表現した。物事を悟った人間は既成の概念を破り捨て、隠棲し、自由に思い通りに生きるべきであると気付いたのである。仲長統と同じく屋敷も田畑も蓄えも充分にできた覇陵は仲長統の人生訓と漢詩に感動し、「心を海左に游ばしむ」から二文字を取り、海左園の名にしたのであった。
館西地勢に因りて園を築く、命じて海左園と曰く、木石皆山中の有る所を用ゆ、地本高夾にして泉無し、猶幽谿絶壑飛流曲潭之勢を設く、因て曰く、吾山水の趣を知ると、其の最も高き処を楽天塢と曰う、時時嘯詠して以て自ら楽しめり、人或は松柏を屈め鶴鹿と為さんことを勧む、先考笑いて曰く、松柏もまた其の天を全するを得たりと為る、何ぞ彼をして羈絆に就かしめん、其の花木に於ける甚だ愛する所無し、独り牡丹を愛す、紅白数十株、皆京師より致す、花時毎に茶果以て故旧を待つ、其の老いて来ること能わざる者には数枝を剪りて以て贈る、殊に愛惜の色無し、嘗て謂らく、吾物に厚くして人に薄きことを欲せずと、性酒を嗜まず、酒を飲むもまた限り有り、しかも、酒人を悪まず、酒人至れば則肴核を具て、而して之に飲ましむ、歌呼終日と雖も、言笑怡怡の如くたり、(先考覇陵山人行状、台州著「永慕編」)
家の仕事を息子の台州に譲ってから、晩年の覇陵は心血を村の丘壑(山と谷)にそそぎ、よく散策した。その場所は、丹露盤、玉兎巖、長嘯嶺、龍脊巖、採芝崖、帰雲窟、将帰阪、狸首岡、隠泉、高子陂、不羈おう、拾翆崖、返照原、走馬嶺、白鷺峰、う山、禹父山、愚公谷、白雲洞、古樵丘の二十箇所であった。これらの名称は覇陵が高子村内の風光明媚な景勝地を二十箇所選び、みずから名づけたものである。
高子二十境の二十の名称は、中国唐の都の長安(現在の西安)の郊外に、詩人王維(おうい)(摩詰)が友人の裴迪(はいてき)とともに詠じたという「輞川(もうせん)二十景」を真似たものであった。そのために高子二十境の二十の名称は中国的な難解な漢字になってしまった。
覇陵は自分が作った二十境の五言絶句に唱和するように台州に命じていた。覇陵のそれらの漢詩群は平淡聞雅で、その韻律や調べが中国の盛唐時代に近いものがあった。覇陵が創始した二十境は中国の「もう川荘二十景」の詩と風景に比肩するもので、実に素晴らしい文化遺産だと台州は信じている。台州は覇陵の漢詩に和して少しずつ「二十境」の漢詩を作っては、父の作品と比べていた。
高子二十境の言われについては熊阪覇陵の息子台州が編纂した「永慕編」の「自序」と「先考覇陵山人行状」に、二十境のそれぞれの場所と位置関係については「二十境記」に詳しく記されている。いずれも台州が記したものである。
「二十境」のそれぞれに題して、覇陵がつくった五言絶句の漢詩とそれに唱和した台州とその子盤谷の五絶が載る。これらの漢詩は200年以上前の詩とはとても思えない、詩情豊かな詩である。時には現実の風景から一瞬にして我々を空想的な世界に導く。知的にすぎるものもあるが、総じて格調高く、美しい。熊阪さんたちの感性には驚かされる。漢詩の前には、江戸の期待の絵師谷文晁に描かせた二十境の挿絵が置かれ、現在の風景との比較を楽しませてくれる。こんな素敵な文化遺産はなかなかない。日本のどこにも見当たらないと言ってもいいだろう。大切にしていきたいものである。台州自序に、二十境を創始した偉大な父覇陵を永遠ならしめるために「永慕編」を出版する、とある。全国の文人たちに読んでもらい、さらに「二十境」に関する文や漢詩を賜れれば、それをまた一冊の本にして公刊できたなら、これ以上の親孝行はない、とも言っている。「大孝は身を終わるまで父母を慕う。五十にして而して慕う者は予大舜に於いて之を見る」という老子の言葉がある。中国の名君とされる大舜は五十歳まで親を慕いつづけ、そのことが皆に認められて次の皇帝位に就くことができた。台州は四十九歳でその偉業を完了しつつある喜びを味わっていた。
中村熊坂初代 熊阪覇陵の養父
熊坂助継--------------------佐兵衛-------------------太左衛門助利-------------------------------------次女ヤツ
(父は市柳熊坂土佐)
▲助利姉---------熊阪太右衛門豊重---------養女ヤツ
‖ (高子へ分家)
児島(熊坂)定悠-----------------------------------覇陵(1709-1764)
‖
▲助利弟の元妻
※熊阪太左衛門助利について詳しくはこちらをご覧ください。→ 熊阪太左衛門助利
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