飼い主を噛殺した狂馬の話

 江戸時代後期の文政3年(1820)、松前藩領、伊達郡梁川村の近村の話

 梁川村の近村に貧しい百姓が一匹の馬を飼っていた。この者は、新田を耕すのに、この馬を使っていた。耕作の暇なときは薪を背負わせ、あるいは旅客を乗せて、駄賃を取っていた。 その馬は従順で主人の言うことをよく聞いた。世に二つとない馬と思われていた。数年して文政3年の夏の或る日、いつもと同じく背中に物を乗せて近郷に赴いた。その帰り、わが家が近くなったとき、馬が突然苦し気に声高く嘶いた。主が振り向きざまに、馬は主へ走り懸り肩に喰らいついた。どうした、と、引き離そうとしたが、衣服もろともししむらを取られた。主は我慢してとり鎮めようとしたが、叶わず、林の中へ逃げた。馬はすかさず追いかけ、のけざまに衣服ごと胸に喰らいつき倒した。主はしきりに血を拭ったが、息絶えた。
 おりから旅の武士(足軽か)その様子を見ていた。・・・・ 武士は林の中へ分け入り、綱の端を取上て引き離そうとしたが、馬は動かず、目は血走って赤い眼をしていた。武士は、逃げ出そうとしたが、さすがにそれは出来ず、刀入りの鞘まま馬の尻を叩き、打ちつけるうちに、鞘が砕けて折れてしまった。少しひるんだ馬をひき除けて、綱で樹に繋いだ。通行人たちが寄ってきていた。武士は経過を説明して、その場を去って行った。後に聞いたことだが、その武士は二本松藩の藩士某であった。
 死んだ農夫の子供は、知らせをうけて、あわてて現場に走り寄った。領主へ訴え、検使を乞い願った。親の亡骸を葬るとき、恨みやる方なく、馬を生きたまま穴に埋め、武鎗を刺したという。これは、当時、松前家の領分の村だったので、老君松前道広公に話が伝わった。当時、松前領の村は、梁川村から一番近い村は大門村である。近村の村は大門村ということになろうか。その次には金原田村や泉沢村が近いが・・・。そのようなことを、私(馬琴)は伝え聞いたが、農夫の名も村の名も忘れてしまった。  
 この農夫の愛した馬は、故なくして主人を噛み殺し、五逆に漏れない罪を醸した。思うに、この馬は、途中から疫熱の疾病をうけて狂乱したものだろう。牛馬だけに限るものではない。人にもこのようなことがあるものだ。


箱崎村松五郎の忠孝の名馬
立花氏下手渡藩、松前氏梁川藩

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