奥州伊達氏の系譜

  全国各地の伊達氏は奥州伊達氏から派生している。総本家はいうまでもなく仙台伊達氏で、その祖は鎌倉直前期に奥州伊達郡に誕生した伊達氏である。

奥州伊達氏の系譜

藤原中納言山陰※ ----- 仲正 ----- 安親 ----- 為盛 ----- 定任 ----- 実宗 ---

         季孝 ----- 家忠 ----- 重親 ----- 家貞 ----- 光隆 ----- 朝宗(高松院非蔵人)
                                              (※ここまでは「尊卑分脈」による)

    ※伊達地方に残る中世・近世の史書等はこの人物を政朝としている。


伊達念西 ---- (宗村) ----- 義廣 ---- 政依 ---- 宗綱 ---- 基宗 ----- 行朝 ---

    宗遠 ------ 政宗 ------ 氏宗 ------ 持宗 ------ 成宗 ------ 尚宗 ----

    稙宗 ------ 晴宗 ------ 輝宗 ------ 政宗(仙台藩祖) -----

 

「吾妻鏡」に見える伊達氏

 「吾妻鏡」文治2年(1186)2月26日条で「二品若公誕生、御母常陸介藤時長女也」、建久2年正月23日条で、「女房大進局恩沢、是伊達常陸入道念西息女、幕下御寵愛也」と記している。源頼朝側室大進局が文治2年2月26日男子若公(貞暁)を産み、大進局の父が藤原常陸介時長すなわち伊達常陸入道念西であると記しているのである。文治5年(1189)の奥州合戦以前から、つまり伊達氏が誕生する以前から藤原常陸介時長(入道念西)という人物は源頼朝と深い縁戚になっていたのであった。しかも源頼朝の第三子の母親の父であるから、北条氏に次ぐ重要な立場に立たされていたことになる。
 「吾妻鏡」は文治5年8月8日条等で、後の伊達初代となる常陸入道念西が、長男為宗、次男為重、三男資綱、四男為家とともに奥州合戦に参加し、伊達郡での攻防戦で活躍したことを記している。

古系図と「尊卑分脈」

 では、この藤原常陸介時長(入道念西)は伊達氏を称する以前はどのような苗字を名乗っていたのかというと、根本資料は残っていない。「天文伊達系図」「天正伊達系図」と呼ばれている16世紀ころの伊達系図に、伊達初代として「中村常陸守入道念西」が見えている。これらの古系図によれば、伊達氏の初代を「中村宗村入道念西」、二代を「粟野次郎蔵人義広」、三代を「伊達蔵人太郎政依」としている。幕府へ提出した伊達系図もそうであった(「寛永緒家系図伝」)。これらは念西の直前に太祖(宗村の父)として「朝宗」を置き、伊達郡を拝領して奥州下向したと注記している。中には念西を朝宗に当てるものもある。伊達郡の歴史を記した江戸時代の資料「小手濫觴記」「伊達濫觴記」「村明細帳」などもほぼこのような家譜を記している。そしてこれらの資料は全て伊達氏を藤原山陰流とする点で共通している。
 しかし中世の諸家の系図として最も信頼がおける「尊卑分脈」は藤原山陰の流れとして朝宗までを記すが、それ以降を記さず、しかも朝宗に注して「高松院非蔵人」とするも「伊達氏を称す」の一言もない。ただ、「尊卑分脈」は源頼朝の子貞暁に注して「母伊達蔵人藤原頼宗女」としており、伊達氏の存在は認められる。「尊卑分脈」は室町時代の成立で、このころの伊達氏は7代伊達行朝が奥羽南朝の雄であったし、9代伊達政宗は将軍家と親交があった。12代伊達成宗は上洛し、膨大な金銀等を幕閣に献上している。14代伊達稙宗に至っては奥州守護職に就いたほどの名家であったから、「尊卑分脈」に記載されないのは何とも理解に苦しむところである。

  系図 初期伊達系図

  系図           系図

  「小手濫觴記」に見える初期伊達系譜      但馬国小佐郷地頭伊達氏に関わる伊達系図

仙台藩の伊達氏先祖調査と「伊達正統世次考」編纂

 仙台藩主第4代伊達綱村は、伊達氏の初期系譜に不明の部分が多かったので、伊達家譜の編纂に力を注いだ。延宝年間に調査が開始され、家臣の落合時成・窪田権九郎・遊佐木斎・田辺希賢らが担当した。かつての伊達氏の故郷である常陸国伊佐のほか伊達信夫・米沢・高畠・七ヶ宿の湯原などへ調査団が派遣された。彼らは「伊達信夫廻見仕候覚書」「御先祖様御事言上」等をまとめ報告した。その結果出来上がったのが「伊達出自正統世次考」「伊達正統世次考」(元禄16年綱村序)であった。
 「伊達正統世次考」完成直前の元禄11年(1698)10月2日、伊達家では満勝寺殿(伊達氏初代念西公)五百回忌を催し、綱村は「十九世之孫」と名乗った。しかし「伊達正統世次考」に記した綱村自身の序文で、自分の伊達氏世系を「第二十世」とした。
 「伊達正統世次考」は巻一の冒頭で朝宗と宗村・義広の三代の間に紛乱があって決し難く、特に初代念西の息男の間が不詳で決し難いと述べている。そのために完成が二十年も延び延びになっているとも述べている。そのような混乱のなか、京都南禅寺から「雲但伊達系図」と呼ばれる南北朝期の古い伊達系図や古文書がもたらされ、不明であった初期伊達系譜が一拠に解明されたという。この「雲但伊達系図」を見てもなかなかそうは納得できかねるが、伊達綱村はこの朝宗を伊達氏の初祖(初代)とし、入道念西その人と決した。
 この決定は理由のないものではなかった。朝宗は「山陰」の後胤であったし、その中間に位置する「実宗」にも「常陸介」の注記があり、この一族が常陸国内に土着している一族と考えられたのである。朝宗の年代が平安末から鎌倉初期に相当することも理由の一つであったろう。他に、出羽国寒河江にある桑折氏の菩提寺松蔵寺の明応5年(1496)幹縁疏に「山陰中納言政朝公之長男朝宗拾弐代伊達兵部少輔成宗」とあり、伊達成宗が朝宗から12代に当ることが明記されているから、朝宗を初祖とする伝承はあったものと理解される。ただ朝宗が山陰の長男というのはいただけない。後胤という程度の表現のつもりなのだろうが・・・。「実隆公記」文明15年(1483)10月10日「奥州伊達 在衡公後胤 今日上洛」と記している。この在衡は山陰の孫で、朝宗の直接の祖安親とは兄弟の間柄である。正確には伊達氏は在衡の後胤ではない。しかし、伊達氏の流れが山陰〜朝宗ライン上にあるとの伝聞は京で広まっていたことは確かである。
 山陰は名家藤原北家の流れ、山陰の弟時長の子供は利仁といい、鎮守府将軍であった。山陰自身は料理の神様として有名で、現代においても料理や包丁の儀式に登場する。伊達氏の先祖としては申し分のない家柄である。山陰に繋がる根拠が明白になれば伊達氏にとってこの上ない喜びに違いない。

 ただし、伊達家臣たちによる調査には限界があったと思われる。主君を慮り、故意に歴史を捻じ曲げて報告された部分がないわけではなかった。「御先祖様御事言上」の記述の中に、「古今著聞集」に伊達初代とされる人物について「常陸介宗村」「院判官代」「遠江守朝宗朝臣」の記載があるとしている。「伊達正統世次考」はこれをそのまま引用している。しかし、優良な「古今著聞集」のページの中をを何度探してもその記事は見つからない。これにはエピソードがあるが、ここでは省略する。

「雲但伊達系図」の不思議

 おそらく伊達氏本宗として伊達郡へ移ったのは次男為重であろうと見られている。後年、伊達氏歴代が「次郎」を名乗っているのを見ても、次男為重が伊達氏の後継者であったと見られる。しかし「雲但伊達系図」は為重に傍注して「殖野(うえの)安芸守」としている。つまりここでは為重は「殖野氏」を名乗っているのである。殖野は居住地の名と思われるが、その地はよくわからない。安芸国内のどこかかも知れないが、別の国かもしれない。兄弟のなかで為重が、一番位が高い官職名が付けられている。伊達氏の後継者としてそれは当然かもしれない。いや、為重は「伊達氏」の後継者とは限らないのかもしれない。奥州伊達郡を本領とし、そこに居続ける保障も期待もない、激動の時代の筈である。今後、為重が「殖野」を本領とする可能性も考えられるのである。
 「雲但伊達系図」は、南北朝時代の当時、出雲・但馬地域に所領を持つ伊達貞綱入道道西一族の系統を記した系図である。「伊達」を始めた為宗(法名念西)から貞綱の孫までの七代が記されている。初代為宗以外は伊達を注記された者は一人もいない。貞綱一族も伊達の注記がない。気になるのは、伊達氏初代の子息たちが十一人記され、その中に「中村」「殖野」「常陸」「伊達崎」「寺本」などの注記があることである。これらは苗字と考えられ、彼らが「伊達氏」以外の「氏」を名乗っていたのである。貞綱一族がいずれも「伊達氏」を称していたことは当時の第一級文書にその名が見え、「伊達」の注記がない者たちこそが「伊達氏」であることを主張しているように見える。このような観点から「雲但伊達系図」を見ると、初代の末子に併記されている十男の貞綱の祖「与一時綱」と十一男の「次郎蔵人義広」が伊達氏を継承していると見られる。義広は他の殆どの伊達系図が記しているように、伊達本宗の継承者であろう。この二人の兄弟は他の9人の兄弟たちとは傍注からみて、腹違いの兄弟か、孫養子と見られる。
 南北朝時代の当時、出雲・但馬地域に所領を持つ伊達貞綱入道道西が奥州伊達氏の本宗の伊達行朝と書状等の遣り取りが見られるところから、伊達行朝が「雲但伊達系図」に示されている人物の誰の子孫に連なるのか、知ってはいたと思われる。しかしそのことは全く記載していない。不思議な系図である。
 これらのことから推測できるのは、当時、遠く離れた但馬国地方に移住し地頭となった伊達貞綱一族にとって本宗の「奥州伊達氏」の系譜を記載すること自体あまり意味をもたなかったのではないだろうか。女の姉妹についても一切記されていない。伊達氏初代念西の娘が将軍源頼朝室となり、男子を産んだことも触れられていない。故意に触れないようにしているのか。

 同時代の寛喜元年ころ、若狭国三方郡前河荘地頭職に殖野(上野)為時が就いていた事実がある。この殖野一族と(伊達)殖野安芸守為重との関連は今のところ確認できないが、血縁があるとすれば、為時は為重の子供か孫であろう。

伊達五山の謎・・・

 「伊達正統世次考」は、四代とされる伊達政依は初代のために満勝寺を、初代夫人のために光明寺を三代義広のために観音寺を、三代夫人のために興福寺を、政依自身のために東昌寺を開基したとする。これらは皆臨済宗で伊達五山といい、いずれも大寺である。しかしながら、何故、これほど慈悲深い仏心厚い政依は伊達氏第二代とその夫人の菩提寺を建てなかったのだろうか。「伊達正統世次考」は全くこの疑問に無関心である。ここには、建てることが出来ない理由があった筈である。それは幕府への遠慮である。結論から言えば、かつて幕府に対して叛旗を翻した伊達当主がいたからであろう。おそらくそれは第二代であろう。「伊達氏」を名乗れなかった人物こそが第二代に相応しいと思われるのである・・・。その人物は為重か義広であろう。ただ義広は年齢が若すぎるかもしれない。その場合は為重となろう。私は、この二人が親子であろうと見ている。貞暁の将軍擁立を企て失敗した伊達為重は子の義広を連れて先祖の遺領の地に隠れ住んだ。その地は越前国粟野で、彼らは粟野氏を名乗った。後に伊達氏は赦されたと見られるが、そのとき為重は伊達氏歴代から身を引き、子の義広に第二代を継がせたのである。

伊達氏誕生
伊達氏血縁貞暁、鎌倉四代将軍への夢
伊達氏天文の乱

inserted by FC2 system