信夫伊達近世領主変遷図

 江戸時代の信夫郡と伊達郡は一体に発展したが、特に中期以降領主の交替が頻繁で複雑であった。たとえば、幕末期の信達地方には200村ほどの村々があり、そこにおよそ11の領主(殿様など)が乱立していた。多くは一万石前後の小藩であった。それらの変遷をわかりやすく理解していただくために、領主の変遷図を作成している。

  変遷図A1と変遷図B1は対応します。以下同じです。古書なので汚れ等はご容赦願います。
  また、A1とA2は連続します。A3とA4も連続します。しかしA2とA3は連続しないので、ご注意願います。B1B2B3B4も同様です。

変遷  扉  変遷理解変遷図
変遷   変遷図A1
変遷   変遷図A2
変遷   変遷図A3
変遷   変遷図A4
変遷   変遷図B1
変遷   変遷図B2
変遷   変遷図B3
変遷   変遷図B4

 

信夫伊達近世領主変遷と幕料桑折代官所

 近世初期、天正19年(1591)に蒲生氏が会津に入部、続いて慶長3年に上杉氏が入部し、信達地域を一円支配しました。城地は福島城と梁川城が中心で、それぞれ城代が置かれました。当時、信達(信夫郡・伊達郡)の総高は公称12万石でした。上杉氏は荒地の開墾に力をいれたので、24万石くらいの実高になっていたようでした。
 寛文4年から信達地域は一円幕府料となり、福島に陣屋を置いて支配しました。最初の代官は伊奈半左衛門でした。梁川にも出張陣屋らしきものが置かれていたようです。次の代官は伊奈半十郎その次の代官は国領半兵衛でした。伊奈代官と国領代官のときに信達全地域の総検地を実施しました。その結果信達高はおよそ19万石となりました。この検地は正確かつ平等で、評判が良く、検地帳は幕末まで使用されました。検地をきっかけに新しい村も生まれました。この時期は信達の村数は約180村くらいでした。
 延宝7年(1679)から天和2年(1682)まで短期間、本多氏が福島藩15万石の当主として入部しました。本多氏は信達一円を支配しましたので、これには4万石ほどの「込め高」があったと思われます。さて次に信達一円を支配したのは幕府料代官柘植伝兵衛でした。柘植代官は福島の陣屋が気に入らないのか、陣屋を桑折に移しました。
 これ以後、信達地域はこの幕府料のなかに様々な私藩私領が移封されました。最初は天和3年~享保14年(1729)に梁川三万石藩主として松平義昌が入り30村を支配しました。次には貞享3年(1686)に福島十万石藩主として堀田氏が入り106村を支配しました。その他、元禄13年(1700)には桑折二万石藩主として奥平氏(松平)が入り、20村を支配しました。元禄15年には福島三万石藩主として板倉氏が入り31村を支配しました。寛保2年(1742)には白河十万石の藩主として松平氏が入り、保原に分領二万石の出張り陣屋を設置、17村を支配しました。延享4年(1747)には梁川に平藩井上氏の分領三万石ができしました。その後も信達地域には1万石から二万石前後の小藩ができました。
 そういうなかで、幕府料の代官所として一番格式と権威があったのは桑折代官所でした。幕領代官所としては他に、梁川代官所・川俣代官所・大森代官所・本内代官所・鎌田代官所・上郡代官所などがありました。一人ないしは二人の代官が複数の代官所(陣屋)を兼務する場合もあります。また私藩私領が没収され、次の新領主が決定されるまでの間だけ、近隣の代官が預かることもあります。

幕料岡代官所

 伊達郡岡村(現在の伊達市字中畑)には元禄14年(1701)から寛延2年まで幕府代官所が置かれました。元禄13年に桑折村を中心にして松平氏桑折藩二万石(20ヶ村支配)が成立したため、幕府代官所の桑折代官所(桑折陣屋)は廃止せざるをえませんでした。それで、桑折村など桑折藩所属の20村を除く村々を支配するため、直ちに近隣の岡村に幕料岡代官所が設置されたわけです。実はこのとき、東大窪村(現在の伊達郡国見町)が村分け(分村)となり、東大窪村514石が桑折藩領、東大窪村249石が幕料岡陣屋支配となりました。この分村は大名に領知目録を与える場合、端数処理のために(ここでは二万石にぴったり合わせるため)しばしば行われる定例のもので、20村の中で東大窪村だけがその憂き目に遭ったのでした。
 初期のころの岡代官所は最大で93ヶ村を支配する、大きな代官所でした。村高にすると十万石近くあり、ちょっとした大名クラスに匹敵しました。残念ながら岡代官所は寛延2年(1749)7月に廃され(後述)、これに代わる幕府代官所は桑折へ移されました。最後の岡代官は神山三郎左衛門でした。



梁川陣屋、梁川藩
桑折藩

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