福島伊達の名勝 「高子二十境」 (たかこ にじゅっきょう)  

  江戸時代の詩境の世界が今も残る

「高子二十境」は江戸時代に熊阪氏(熊坂氏)が創出した詩境(名所)である。ある意味、福島県を代表する景勝地(名勝)であると言っていい。ある意味とは、歴史的に文化的に、ということである。
 
 場所は、福島県伊達市保原町(ほばらまち)の高子地区。二十境は阿武隈急行電車「高子駅」の周辺にほぼ円形に散在する。

 「高子二十境」は阿武隈急行電車「高子駅」を中心に半径300~700mほどの範囲に、ゆるやかな丘陵上に配されている。丹露盤、玉兎巌、長嘯嶺、狸首岡、高子陂、白鷺峰、白雲洞などロマンチックな名前に誘われて、ついつい訪れてみたくなる。それぞれの場所には熊阪覇陵・台州・盤谷の親子孫三代の漢詩や当時と変わらない風景が残されている。

丹露盤 二十境の第一 丹露盤

白雲洞に、不気味な顔が見える・・・・・

白雲洞 白雲洞
                     二十境の第十九 白雲洞


 二十境案内図
案内図

 高子二十境の各名称

  二十境各名称  二十境各名称(印刷用)


「高子二十境」の創始者 熊阪覇陵、そして「高子二十境」の魅力と価値
     熊阪氏三代の60首の漢詩に呼応して全国から277首の漢詩が寄せられた。これは奇跡である
          「高子二十境」は世界文化遺産に匹敵する!

 高子の儒者、熊阪覇陵(1709--1764)は壮年から晩年にかけて、家の仕事を息子の台州(1739--1803)に譲ってからは特に、心血を村の丘壑にそそぎ、散策した。その場所は丹露盤、玉兎巖、長嘯嶺、龍脊巖、採芝崖、帰雲窟、将帰阪、狸首岡、隠泉、高子陂、不羈おう、拾翆崖、返照原、走馬嶺、白鷺峰、う山、禹父山、愚公谷、白雲洞、古樵丘の二十箇所であった。これらの名称は覇陵が高子村内の風光明媚な景勝地を二十箇所選び、みずから名づけ、漢詩の五言絶句に詠んだものである。覇陵の息子台州は父の漢詩に和して五言絶句の漢詩をつくった。台州の息子盤谷もそれらに和して漢詩をつくった。熊阪氏三代の漢詩が残されたのである。
 高子二十境の二十の名称は中国的な難解な漢字になっている。それは、高子二十境の二十の名称は中国の長安(現在の西安)の郊外に詩仏と尊称される世界的詩人王維が創った「もう川二十景」を真似たものだからである。
 二十境のそれぞれの場所と位置および覇陵の業績については息子の台州が父を顕彰するために天明8年(1788)に出版した「永慕編」の「二十境記」「先考覇陵山人行状」に詳しく記されている。
 「永慕編」には江戸の絵師谷文晁が描いた二十境の図と熊阪氏三代の60首の漢詩が掲載されている。そして、台州の呼びかけに応じて、全国の高名な文士たちから寄せられた「高子二十境」の格調高い漢詩群277首が後に「永慕後編」として文化元年(1804刊)に編集出版された。ただし、「永慕後編」の中では全ての二十境の漢詩が何の断りもなく《海左園二十境》と題されていて、誤解を与えている面がある。しかしその謎は松浦著「高子二十境」で解明された。
 いま私達は200年前の漢詩を味わいながら、高子の美しい風景の中を自由に歩くことができる。「高子二十境」は稀に見る文化遺産となっている。熊阪覇陵・台州父子のおかげである。
 覇陵は、王維の、世界に冠たる「もう川二十景」を向こうに廻して、日本の地に「二十境」を創出した。いまや「高子二十境」は「もう川二十景」に次ぐ詩境となり、名勝となったと言える。その意味で「高子二十境」は世界的文化遺産であると言っても過言ではない。  
 なお、谷文晁が描いた二十境の図とそれに先行して掲載された地元の画家周俊の二十境図あわせて40図は「ふくしま伊達の名勝 高子二十境」(2012刊 松浦丹次郎著)に所蔵者の許可を得て初めて公式に掲載された。ぜひご覧いただき、200年以前の姿と現在の風景の変化等をお楽しみいただければと思う。そうすれば、漢詩の意味もより深く味わえるであろう。  

陸奥福島の、文化の花園 白雲館

 覇陵は自分の家を白雲館と号し、楼閣を明月楼と名付けていた。郡内の俊英たちが覇陵や台州を慕って白雲館に集るようになり、文化の華が開いた。酒席で詩吟となることもあったが、覇陵は酒を嗜まかった。勧められれば少しは飲めたが、酒好きの客には酒肴を出し、客たちが長時間唄い踊っていても笑って平然としていられた。覇陵は白雲館の西側に斜面を利用した庭園を築き、「海左園」と名付けて楽しんだ。木と石は皆山中のものを用いた。いわゆる枯山水である。台州はその様子を「地本高夾にして泉無し、猶、幽谿・絶壑・飛流・曲潭之勢を設く」と記している。覇陵は海左園の一番高い場所を楽天塢と名付けた。築山の一部に石筍峰や集真台などの名前も付けた。このほか覇陵は殊のほか牡丹が好きで、紅白合わせて数十株育てていた。いずれも京都から取り寄せたものだった。牡丹の花を見に来た友人知己には茶菓子の接待をした。年老いて身体が不自由で来れない人たちには花を切りとり届けたという。残念ながら、名園「海左園」は寛政12年(1800)に廃された。子の台州は後に白雲館後庭に琴室を築き、洗心室と名付けた。また白雲館の西園の海左園を改造し、書堂「曳尾堂」や草亭「真隠亭」をつくった。

   碑 碑
    熊坂神碑(阿保原地蔵境内、伊達神社境内 ともに伊達市保原町 建立は幕末期)


 熊阪家の中では台州が最も著書が多く秀でていた。彼は地元民たちから「台州先生」と慕われ、崇められていた。台州自身は有力藩から藩校教授の誘いもあったが、父の遺言に従って高子の地を出なかった。仕方なく読書や文通により学問に励む道を選んだのであった。最も影響を与えたのは丹波亀山藩家老で儒者の松崎観海であった。二人の交流を示す手紙が残されているが、それらは師弟愛に溢れており、感動的である。また台州は天明の飢饉以後深く思うところがあり、それ以前の戯作狂作中心の世界に別れを告げ、実学の世界へ急傾倒していった。深い考察の中から荻生徂徠の思想を批判したり、幕政を批判したりした。そして孝行の実践道を説き、弟子の養成教育に努めた。その成果は最晩年の著「文章緒論」と「道術要論」に纏められた。白雲館の子弟たちは優れた医師や養蚕指導者に成長した者も多かったが、世の中を動かすような偉大な儒者思想家は弟子のなかからは生まれ出なかった。台州の努力は報いられなかったといえよう。
 曳尾堂には主に覇陵の蔵書を保管したというが、白雲館の図書数は孫の盤谷の代には1万冊を超えていた。この蔵書は明治初期ころに山形県の半沢家に移されたところまでは判明している。その後の行方は不明だが、その目録が残されている(保原町史)。実際数えてみると一万冊を超えている。なお、熊阪家屋敷は幕末のころに1町2反余あったことが記録されている。東と南北にコの字形に堀も廻らしてあった。土蔵や蔵が10棟ほど建ちならぶ。実に広大な立派な屋敷だったのである。

熊阪覇陵----------台州--------------盤谷-------------八百枝------------定謙-----------------定駿----

白雲館との交流の人々

 白雲館の盟主熊阪氏は江戸や京都や名古屋その他の地の一流の文人たちと交流があった。覇陵・台州・盤谷の三代に限って考えれば、その人たちはおおよそ「永慕後編」に二十境の漢詩を寄せてくれた方々と見て大差ないであろう。彼らの名は「永慕後編」中の「詩人姓氏爵里」に見える。その多くは熊阪台州に関わる人脈であった。
 公卿参議と呼ばれる位の高い人物(菅原在縣卿)、或は大藩の殿様(忍藩主阿部正識鴦侯、烏山藩主大久保佐渡守忠成)や家老もいる。多くは藩儒と呼ばれる、藩召抱えの儒学者や文学者(漢詩人)である。幕府の下級官吏もいる。有名どころでは、入江南溟・松崎観海・大田覃(南畝)・赤松鴻国鸞・湯浅之祥・岡孔彰・林大学守信敬・頼山陽・渋井太室・谷文晁・平梅渓君冑らと深い交流があった。遠い所では九州の久留米藩儒の樺島公礼がいる。


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高子二十境賛歌

保原の高子地区に 名勝地が二十もあったなどと
だれも知らなかった
春から初夏にかけて そして秋に
それらはこっそりと 素晴らしい彩りを見せる

こんな町近くに 断崖絶壁あり 霊窟あり
天鏡のような湖水あり・・・・・

熊阪覇陵という希代の詩人が
およそ三百年前に生まれた一人の農民が
二十境の夢を創出したという

彼は 熊阪大尽と呼ばれた伝説の人
慈悲ふかい人であった
だからこそ 一家は「積善の家」と呼ばれ
後には「神」として祀られた

覇陵は 二十境それぞれに五言絶句の漢詩を残した
子の台州 孫の盤谷も 覇陵に和して漢詩を詠じた
三代の漢詩はいま 交響曲となって
耳を澄ます者にだけ その音が聞こえるという

新たな伝説が生まれつつある


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    お問い合わせは下記へ
         Eメール doryusha@yahoo.co.jp  
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  また、高子二十境のガイド (案内者、丹次郎さん)ご希望の方も、お気軽にご相談ください。時間は毎回およそ2時間程度です。
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間違った標柱がたくさんある!

誤標柱 間違った場所に建てられた二十境標柱の一つ 「玉兎巖」

本当の「玉兎巖」の場所は高子山の山上の「丹露盤」のすぐ東にある。
他にも間違った標柱がいくつも建てられており、来訪者たちに混乱を招いている。

 以下も間違った標柱である。

誤標柱  誤標柱 
       龍脊巖                    採芝崖
  誤標柱  誤標柱
         将帰阪              禹父山



◎参考書:「永慕編」(熊阪台州編著)、「白雲館墓碣銘」(菅野宏著、白雲館研究会発行)、「高子二十境調査報告書」(高子二十境調査隊編・発行)、 「ふくしま伊達の名勝 高子二十境 ~高子熊阪家と白雲館文学~」(松浦丹次郎著)ほか

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高子熊阪氏と白雲館

熊阪台州著「二十境記」解読文

伊達の香り

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